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〈銀の虹の姫君〉(壱)

 遠くで犬が鳴いている。

 窓の外は暗い。

 早暁というよりは、夜更けと呼ぶべき時間。

 いつものようにエトヴィンは音もなく寝台から抜け出すと、着古した粗末な僧衣に袖を通した。


 暦の上では秋とはいえ、古都の夜風は冷たい。

 鞭打たれるような寒風の中を、エトヴィンは僧房からこっそりと抜け出した。


 天には双月と、無数の星々。

 老僧の向かうのは、古都の中心に聳える聖堂だ。

 払暁前からはじまる朝課にさえまだ早いこの時間、回廊で僧の一人さえすれ違うことはない。

 この時間に礼拝をすることは、司祭のトマスさえも知らない、エトヴィンの秘密の習慣だ。

 顔なじみの門衛に小さく会釈をすると、大扉の脇に儲けられた小さな扉を潜る。


 静寂。


 不寝番の若い聖職者の守る微かな蝋燭以外、何の光源もない。

 荘厳な聖堂を満たす、重圧さえ感じる静けさの中をエトヴィンは歩を進める。

 張り詰めた静謐さだけが、老僧の精神を過去に誘うのだ。


 若かりし頃に廻った七大聖座。

 三つの聖地。

 異教では聖地と崇められている巨岩にも訪れた。

 そして。

 エトヴィンはふと、回廊脇の小祈祷室に先客の灯す蝋燭の揺らぎを見た。


「珍しいな」


 多くの聴衆の集う大礼拝堂とは異なり、ここはより個人的な想いを神に吐露する場所だ。

 いつでも解放されているとはいえ、エトヴィン以外に使用する者の数は少ない。

 勤勉な僧でさえ寝静まる時間に、敬虔なことである。


 興味を覚えて近付くと、小さな声が聞こえた。

 年老いて嗄れた声。

 囁くような祈りの詠唱は、死者の安寧を念じるものだ。

 真心の籠った言の葉は聖堂の床を掃き清めるように低く、しかし重く響く。


 身なりからして、貴族だろう。

 エトヴィンは、この老貴族に微かな関心と、手前勝手な親近感を抱いた。


「もし」


 声を掛けると、老貴族はくるりとこちらへ向き直る。

 エトヴィンの存在には先刻から気付いていたらしい。

 表情には一欠けらほどの驚きも含まれていない。


 それにしても、エトヴィンは二の句を継げなかった。

 豊かな白髭も、痩せた顔面に残る傷痕を隠し切れていない。

 刀槍の傷を隠さぬ貴族も昔は少なくなかったが、最近ではとんと珍しくなった。

 帽子や仮面、高く立てた襟など、傷を隠す方法はいくつかある。

 荒野ではなく、舞踏場を主戦場とする貴族の姿は、ますます少ない。


 自ら前線に立つという戦い方を、古臭いと捉える貴族が増えたのだろう。

 戦仕事は傭兵に任せればよい。

 エトヴィンに向かってはっきりとそう言い切った貴族もいた。


 しかし、それはどうなのだろうか、と老僧は思う。

 貴族は戦うもの、僧は祈るもの、そして農夫は耕すもの。

 この分担があるからこそ、貴族は様々な特権を有し、尊敬され、よき待遇を受けている。

 貴族が貴族としての責を果たさなくなれば、いったい何を拠り所とするのだろうか。


 常々そういう疑問を抱えているエトヴィンは、相対する老貴族のような武骨で昔気質の貴族に、ほのかな敬意さえ覚えている。

 大河の岸辺に領地を有する武家の人であろう、とエトヴィンは当たりを付けた。


「失礼、妻の弔いをしておりましたもので」


 口を開いた老武人の声は、人生で乗り越えてきた風雨を感じさせる、錆びたものだ。


「そうでしたか」


 恭しく腰を折る老貴族は、名乗るつもりはないらしい。

 ならばエトヴィンも、名乗らない。

 ここは小祈祷室。

 太陽と双月の神と、人間の対話するために設けられた部屋だ。

 人と人とが言葉を交わすなら、別の場所でもよい。


「一緒に、御弔いをさせて頂いても?」


 エトヴィンが尋ねると、老貴族は一瞬きょとんとした顔を浮かべ、その後、相好を崩した。

 第一印象とは随分と異なる、人好きのする笑顔だ。


「妻も喜ぶでしょう」


 並んだ二人の人間が、一人の女の死を悼み、祈る。

 朗々とした詠唱はいつの間にか一つに重なり、小祈祷室だけでなく回廊へと広がっていった。

 喉を震わせながら、エトヴィンは不思議な充足感に包まれる。


 老貴族の祈りが真摯であることは、声音から伝わってきた。

 一言一句たりとも誤らぬ詠唱は、彼が幾度となくこの祈りを繰り返していることを示している。


 愛だ。


 きっと奥方はいくらか前に亡くなり、夫はずっと祈りを捧げているのだろう。

 その真心に打たれ、エトヴィンも、祈る。

 揺るぎのない愛の歌に唱和することは、聖職者にとって、純粋な喜びだ。

 二人の唱和は、朝課の支度当番の僧が訪れるまで続いた。


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