怪しい女(後篇)
「はい、承ります」
怪しまれないように表情を作り直し、しのぶはブロンドの女の注文を取りに行く。近くで見るとなかなかの美人だ。少し古いハリウッド映画に出てくる女優だと言われれば信じてしまうかもしれない。
壁のメニューを指差しながら女が尋ねる。
「この、キュウリの漬物というのは……キュウリのザワークラウトのことでいいのかしら?」
「いいえ、ザワークラウトのように酢漬けにするのではなく、別の方法で漬け込んだ当店自慢の漬物でございます」
ふぅん、そうと、長い人差し指を形の良い顎に付けて女は何かを逡巡するようなそぶりを見せた。
少し掠れたハスキーな声と、こういう一つ一つの仕草が、同性のシノブから見ても色っぽく、艶めかしい。
「では、それを頂戴」
「畏まりました。お飲み物はいかが致しますか?」
「飲み物は結構」
嫣然と微笑むブロンドの女に一礼をし、しのぶはカウンターの信之に注文を通した。注文されたのはきゅうりの漬物だが、これもやはり引っ掛かる。
カウンターに戻ると、様子を伺っていたニコラウスが渋面を作っていた。
「やはり怪しいな。今の注文で、酒保商人だという疑いは更に増したぞ」
「そうなんですか?」
微かに咳払いをし、ニコラウスは続ける。解説が好きなのか、その表情はどこか得意そうだ。
「ザワークラウトは日持ちがするからな。長い距離を行軍する軍隊の食料としては重宝する」
「そうなんですか。美味しいだけかと思ってました」
「固く焼しめたパンと薄いスープばかりじゃ兵士たちから不満が出る。とはいっても、人数分の野菜を揃えるのは不可能だ。市場でも何千人分の野菜を余分に扱っているってことはありえないからな」
「それでザワークラウトってわけか」
ただな、とニコラウスはエールで口を湿らせる。
「長期間保存用のザワークラウトっていうのは、正直言ってあまり美味いもんじゃない。ただでさえ酸っぱいのに、長持ちさせるってんでさらに味が酷くなっている」
「だから、新しい漬物に興味を持ってもおかしくないってこと?」
ザワークラウトだけなら飽きてしまう。そこで違う味の漬物を用意できれば少しなりとも目先を変えることはできるはずだ。軍隊のことはよく分からないしのぶだが、兵士も食事が美味しい方が良いに決まっている。
酒保商人であれば、関心を持っても不思議ではない。
「その通り、さすがシノブちゃん。やっぱりハンスとは頭の出来が違うな」
「おいおい、それはどういう意味だ?」
ニコラウスの注文した牛スジの土手焼きを奪い合う二人を尻目に、しのぶは一生懸命考える。
これであの女が酒保商人の関係者だという疑いは強まった。
しかし、ただの居酒屋である自分に何ができるのだろうか。
「ねぇ、大将はどう思う?」
思い余って天ぷらを揚げている大将に声を掛ける。
揚げ物に焼き物と注文を受けてから作る料理がよく出るので、今日の大将は普段よりも顔に気合いが入っていた。
「多分、違うと思うぞ」
「えっ、違うっていうのは?」
「あの女の人は、その酒保商人とかいうのじゃないってことだ。あくまでも俺の予想だけどな」
そう言って大将はニコラウスの方をじとりと睨みつけた。
「しのぶちゃんは信じやすい性質なんだから、あまり変なことを吹き込まないで下さいよ、ニコラウスさん」
「いや、でもな、大将。オレの推理に穴は無いと思うんだが」
「穴がないと思うならこんな所で飲んでないで早く隊舎に戻った方がいいんじゃないですかね? ベルトホルト隊長もいませんし、対策を立てるなら早い方がいいと思いますよ」
「む、ああ、いや、それは流石に」
信之に言いくるめられ、ニコラウスは小さくなってしまう。
「きょ、今日の大将、ちょっと怖いな」
ハンスはエーファに助けを求めるが、皿洗いに忙しいのか少女の対応も今日は冷たい。
「この忙しいのにシノブさんを変な話に巻き込むからですよ。もちろんハンスさんも同罪です」
「は、はい」
縮こまる二人を横目に、しのぶは難を逃れようとそろりと忍び足でカウンターを離れようとするが、
「シノブさん、二番テーブルのお皿が空いているようなので下げて来て下さいね。溜まると後が大変ですから」
とにこやかに釘を刺される。信之も肩を竦めているところを見るとエーファと同意見なのだろう。
真面目に仕事をしないと後が怖そうなので、しのぶは仕事に精を出す。
だがあの女をそれとなく見張るのは忘れない。
「じゃあ、大将はあの女の怪しい行動をどう説明するのさ」
カウンターではニコラウスが信之にしつこく酒保商人説の話を繰り返している。ハンスの方は飽きてしまったのか、山菜の天ぷらでエールを飲むのに忙しそうだ。
「単なる待ち合わせだと思いますよ」
「待ち合わせ?」
「ええ、多分。この店で、男と」
揚がった山菜を油から天ぷらバットに移しながら大将が答える。
のぶでは毎日油を変えているが、今日は特にたくさん使っているので油は良い色になっていた。
「まず、お酒を飲まなかった。これは待ち合わせだということで説明できると思う。折角めかしこんで逢引きをしようって時に、会う前からお酒を飲んでいるというのは考えにくい」
「それもそうだ」
「乾き物を食べているのも、ちゃんとした料理を食べてお腹を膨らませるのが嫌だからじゃないかな。これから彼と別の店で飯を食うんなら、あまり腹に詰めておくのは得策じゃない」
「なるほど。一理あるな」
落ち着いている風を装っているが、ニコラウスは理論的な大将の推理にたじたじになっているように見える。
大将が推理物のドラマ好きで、再放送まで録画している見ているのを知らないのだから無理はない。
「漬物を頼んだのは?」
「それこそ意味がない。乾き物ばかりでは飽きが来るから、口を変えようと思ったんだろう。初心者がよく陥るミスさ。怪しく思うと何でも怪しく見えてしまう」
信之は初心者ではないのかというツッコミをしのぶは敢えてしなかったが、ニコラウスはゆっくりと両手をあげ、降参のポーズを取った。
その隙に隣の席のハンスはニコラウスの皿からうずらの卵のフライを華麗に掠め取っている。
「ところで、エーファちゃんはどう見る?」
よほどこの話題を続けたいのか、ニコラウスがエーファにも話を振る。
だが、少女の答えは予想もしない一言だった。
「……あのお客さん、男ですよ」
「えっ」
信之、ニコラウス、ハンス、そしてしのぶが揃って唖然としたところで、居酒屋のぶの引き戸が開かれる。
「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」
入って来たのは商人風の男だった。年の頃は二十二、三くらいだろう。
男はしのぶの挨拶も無視して、ブロンドの女に歩み寄った。
「どうだ、さすがに女装はばれただろ?」
「バカ言え。怪しまれもしなかったぞ。銀貨五枚はオレのもんだな」
問い掛けられて答えるブロンドの女の声は、野太い。明らかに、男のものだった。先程の注文の声は、作っていたということか。
確かによく見れば、女性にしては少し上背がある。
「便所に行くのが嫌だったから、ずっと飲むを我慢してたんだ。さっさと着替えて別の店いこうぜ」
「分かった、分かった。この店の払いもオレが持つよ。銀貨二枚もあれば十分だろう。勘定、ここに置いておくぜ」
そう言って商人風の男が銀貨を二枚、テーブルの上に置いた。しかしこれでは乾き物ときゅうりの漬物の代金にしては多過ぎる。
「あ、お客さん、多過ぎます!」
「余った分は迷惑料だ。取っておいてくんな」
気前の良さを見せながら夜の街へと去る二人組の背中を見送りながら、エーファがぼそりと呟く。
「……酒保商人、ねぇ」
それを聞いたニコラウスは項垂れながら、ヤケ酒用のジョッキをそっと差し出すのだった。