テンプラと美女の泪(前篇)
話は数日前、老婦人が店を訪れる前に、遡る。
「ありがとうございました」
食事を終えた夫婦が、居酒屋ノブの硝子戸を出ていく。
外からの秋風が陽の匂いを運び、眠気を誘う昼下がり。
イーサクは、おしのびのアルヌのお供で居酒屋ノブを訪れていた。
おしのびとは言いながら、今月だけでも相当な回数、ノレンを潜っている。
アイテーリアの住民を調査するのが目的というアルヌの言い分にも一理あるが、侯爵家としての政務が単純にうまく回っているからでもあった。
アルヌには、為政者としての才能がある。
人を扱うのがとても上手いのだ。
実務の能力という意味ではアルヌの弟に一歩譲るかもしれないが、臣下の統率も含めれば較べるのも烏滸がましいほどの差がある。
権限を委ね、要所で確認し、責任はアルヌが。
身分や門地に拘らない登用で実力を発揮している家臣も少なくない。
これでは仕事を家臣に丸投げしているだけだと歯に衣着せず直言してくる旧臣もいる。
そういう人物でさえ帳簿を確認する業務に回して才能を発揮させるのだから、少々の食べ歩きに文句を付けるような者は、城にはいなくなってしまった。
仲睦まじい夫婦の背中をイーサクがぼんやり見送っていると、リオンティーヌがアルヌに尋ねた。
「そう言えば、アルヌの旦那には決まった相手はいないのかい?」
店内にはちょうど、他の客はいない。
本来ならイーサクの止めるべき政治的な話題だが、アルヌは笑って答えた。
「もちろんいるとも。生まれる前からね」
へぇとシノブが驚きの声を漏らす。
イーサクとしては、シノブが驚く方に驚いた。
アルヌの持つサクヌッセンブルク侯爵という肩書には、巨大な意味がある。
諸侯の中の諸侯であり、帝室とも親交の深い侯爵家にとって、政略結婚は必然だった。
「とは言え、顔を見たこともないんだけどね」
アキアジのテンプラへ豪快に齧り付きながら、アルヌが視線を彷徨わせる。
「そりゃ何とも。いくら帝国が広いって言ったって、侯爵家なら端から端まで旅するくらい余裕はあるだろうに」
テーブルを拭きながら訝し気に尋ねるリオンティーヌ。
「帝国の国内ならね。何せ相手は、外つ国の姫君だ」
〈凍てつく島〉のスネッフェルス分王国。
分王国の王女であるオーサ・スネッフェルスが、アルヌの婚約者だ。
おぉ、とシノブ、エーファが歓声を上げた。
いつの時代も、女性はこういう話に興味を抱くものなのだろうか。いや、タイショーとハンスも満更ではなさそうなところを見ると、女性だけに限ったことではないのだろう。
「〈銀の虹〉っていう髪の色があるんだ」
アルヌが、遠い目をして語りはじめた。
鉱精の名工だけが鍛え方を知っているという神銀にも似た光彩を放つその髪の色は、冬の女神にさえ嫉妬されるほどに美しいという。
アルヌの婚約者であるオーサ・スネッフェルスは、〈銀の虹〉の髪を持つ乙女だった。
「どうして髪の色を知ってるんですか?」
仕込みの手を止めて尋ねるハンスに、アルヌがにぃと微笑む。
「文通だよ、文通。子供の頃から、ずっと文通してるんだ」
オーサが、封蝋で厳重に封印された手紙の中に髪を一房、封入していたことがあったのだ。
あの時のアルヌのはしゃぎようを、イーサクはよく憶えている。
嬉しさのあまりか、まだ少年だったアルヌが駿馬に跨りそのまま行方不明になったのも、その時だったはずだ。
はじめはいつもの遠乗りかと思っていた侯爵も三日が過ぎると慌てはじめ、五日経った段階で、アルヌ捜索のために家臣と陪臣に四十日間の軍役召集の大号令をかけようとしたほどだった。
「私もあの時は、アルヌ様が北の果てまでオーサ姫を掠奪に行ったのではないかと心配しました」
「……実を言うと、少しだけそれも考えていた」
少しだけだぞ、と赤くなるアルヌだが、この調子だと本気だったのかもしれない。
分王国が冷たい海に隔てられてさえいなければ、本当に攫ってきたのだろうか。
「北の果てって、北方三領邦よりも遠いんですか?」
「エーファちゃん、その北方三領邦こそ、オーサ姫のいる北の国々から帝国を防衛するために設置されたんだよ」とイーサクが解説を挟んだ。
オーサの住むスネッフェルス山は遥か北の果て、〈凍てつく島〉にある。
サクヌッセンブルク侯爵家の本姓ともなった、巨大な山だ。
ギンヌンガガプと呼ばれる巨大な裂け目があり、一説には大地の底、ニヴルヘイムまで繋がっているのだとイーサクは昔語りに聞かされていた。
系図を辿れば、アルヌのサクヌッセンブルク侯爵家と、〈凍てつく島〉のスネッフェルス分王家は、一つの家だ。
数百年の昔、王家の兄弟の兄が春を求めて南へ海を渡り、弟は春を待って島に残った。
兄はサクヌッセンブルク侯爵家の家祖となり、帝国の成立に貢献。
弟はスネッフェルス家を見事に統治し、〈凍てつく島〉で名誉ある地位を占めている。
その二つのスネッフェルスの血を、再び一つにしたいと考えたのが、アルヌの祖父だった。
両家の間で儀礼的に細々と続いていた交流を再び拡大して、孫世代同士の婚約にまで漕ぎつけた外交的剛腕は、今も語り草になっている。
当のオーサ姫は今、親戚の家で行儀見習いをしているはずだ。
「攫ってくるっていうのは、ちょっと、ねぇ……」
苦笑するシノブに、カキアゲをがぶりとやりながら、アルヌが指摘する。
「いや、攫うのは、北の方では普通だぞ」
え、と驚いたのは、アルヌとイーサク以外の全員だ。
まるで野蛮人でも見るかのような目に、イーサクはちょっとした愉悦を覚える。
「掠奪婚と言ってな。北では結構一般的だ。女の子を攫って来て、嫁にする」
逆の場合もあるんだけどなとアルヌが言いながらイーサクを見たのは、理由があった。
イーサクの先祖〈黒髪〉のレイフは、強靭な妻に攫われて夫にされたという伝説があるからだ。
結婚した後は睦まじく暮らしたようで、黒髪を持つ北方人はレイフの子孫を名乗ることが多い。
「親御さんは取り返しに来ないんですか?」
「もちろん行くさ。親兄弟から親類縁者、家臣に陪臣、その親戚まで。血で血を洗う大戦争だよ。そんな蛮習だから、帝国には伝わらなかったんだな」
よかったよかったと勝手に納得しながら、アルヌは小エビのテンプラをバリバリと食べる。
「それでも、一応は正式な婚姻扱いになりますから、一度成立してしまうと取り消すのは大変なんですけどね」
イーサクが付け加えると、エーファがむむぅ、と眉根を寄せる。心優しい少女だ。
物語の中の話のようだが現実に存在するのだから、仕方ない。
その時、硝子戸がからりと小さな音を立てた。
「……すみません。居酒屋ノブ、というのは、こちらで間違いないでしょうか?」