料理人、ふたり(後篇)
朝の仕込みをしている居酒屋に客が飛び込んでくるのは珍しい。
それも酒や肴ではなく、料理人を註文する客となれば、信之もあまり聞いたことがなかった。
「リュービクさん、顔を上げて下さい」
信之がそう言っても、〈四翼の獅子〉亭の主料理長は顔を上げない。
「いや、そうはいかない。タイショー、この通りだ」
開店前の店内には信之としのぶ、ハンスと、今入ってきたばかりのエーファがいるが、皆、顔を見合わせるばかりで何も言えない。
腕を組み、信之は少し考え込む。
手を貸して欲しい、というのがリュービクの頼みだ。
矢沢信之という料理人に、〈四翼の獅子〉亭で一日料理をして欲しい。
それがリュービクの頼みだった。
古都の人が見れば、奇妙な光景だろう。
〈四翼の獅子〉亭といえば、押しも押されもせぬ、古都で一番の店だ。
伝統と格式も申し分なし。
帝室や諸侯といった貴賓も宿泊し、料理に舌鼓を打つ。
その料理長が、〈馬丁宿〉通りの居酒屋の料理人に頭を下げているのだ。
手伝うのは構わないし、むしろ願ってもない申し出だと信之は思っている。
他の店の厨房を見るというのは、得難い経験だ。
〈ゆきつな〉時代には、これも勉強だ、と師匠である塔原の指示であちこちの料亭や旅館、割烹の手伝いに行かされたものだった。
そうやって学んだ多くの技術は、今も信之の血肉となって日々の調理に活かされている。
努力家の信之と、天才肌のリュービクという料理人としての方向性の違いも、面白い。
信之は、徹底して料理を工夫する。
しのぶが苦笑するほどの種類の出汁を引いて比較してみたこともあった。
対して、リュービクは天才だ。
まるではじめから正解が見えているかのように、最高の料理を作ってみせる。
この対比が、信之には面白くて堪らなかった。
年齢も、ちょうど同じだ。
二人の全く違う料理人が同じ厨房に立つというのは、考えてみるだけで興趣が尽きない。
それに、もう一つ。
〈四翼の獅子〉亭は、レシピだけでなく調理の手順まで事細かにマニュアル化しているという。
当代のリュービクの父親が必死に作り上げたものだ。
それに従って料理人たちがどのように動くのかも、見てみたかった。
請ける、という言葉はもう喉まで出かかっている。
だが、一も二もなく請けられるような簡単な話ではなさそうだというのが、リュービクの態度からは窺えた。
「厄介な、客なんだ」
数日後に宴を控えた客のことを、リュービクはそう形容する。
どんな客も満足させそうなリュービクが厄介というのだから、相当に厄介なのだろう。
信之にも〈ゆきつな〉時代に厄介な客の相手は嫌というほどさせられたものだが、それを上回るような客なのだろうか。
「どんなお客さんなんですか」
尋ねると、リュービクははたと気付いたような表情を浮かべる。
肝心の信之に何を頼みたいかを、碌に話していないことに気付いたらしい。
「厄介な客といっても、色々ある。タイショーもきっと経験はあると思うが」
信之は肩を竦めて苦笑を浮かべた。
思い出すと今でもはらわたが煮えくり返りそうなこともあったが、昔の話だ。
師匠の塔原は「一期一会だ」とよく笑っていた。
同じ客に同じ料理を出すとしても、その食事は一回限りだ。全く同じということはない。
だから、どんなに無礼な客であっても、次にもてなす時は、初めて来た客と同じように。
もちろん、信頼を重ねたお客は、そのように。
〈ゆきつな〉でのことを思い返しながら、信之はリュービクに先を促す。
「数日後に結婚の前祝いを〈四翼の獅子〉亭でやりたいらしいんだ」
「めでたいことじゃないですか」
しのぶがそう言うと、リュービクは首を竦めて溜息を吐いた。
「めでたければ私としても全力を尽くすさ。ただ、その、こういうのはうちの店でも初めてなんだが……掠奪婚なんだよ」
掠奪婚。
前にアルヌから聞かされたことがある。
花嫁を攫って来て、同意も得ずに無理矢理に結婚してしまうというのは、さすがに酷い。
日本とこちらでは考え方や風習が異なることが多い。
ただ、掠奪婚については帝国でも信之と同じように抵抗を感じる人が一般的なようだ。
「あまり気乗りのしない案件な上に、客層が面倒でね」
掠奪婚をしようという連中なのだから、客層は、推して知るべし。
リュービクも詳しく尋ねたわけではないが、客たちの代表である男爵は、河賊と関わりがあると有名な貴族なのだという。
河賊というくらいだから、荒くれ者の集まりなのだろう。
飲んで騒いで大暴れ。
荒くれ者に出す料理を次々出すというのは、〈四翼の獅子〉亭の得意とするところではない。
「掠奪婚だからな。せめて宴くらいは立派に、ということらしい」
少し前に同じ客が宴を開いたときには、余興として大食いの大会を勝手にはじめたそうなのだが、酒と料理の方が足りなくなってしまったのだという。
満足はして貰えたそうなのだが、「派手さが足りない」という註文が入ったそうだ。
「それはまた厄介ですね」
力なくリュービクは頷く。
自信がないわけではない、とリュービクは弁明した。
痩せても枯れても〈四翼の獅子〉亭だ。
誰かをもてなすということにかけて、古都にある他のどの宿や料理屋にも後れを取るつもりはさらさらない。
しかし、今回の註文は厄介だった。
言われるまでもなく〈四翼の獅子〉亭の料理は、豪勢だ。
予算も潤沢に貰っているから、〈獅子の四十八皿〉を供することも考えた。
けれども、〈獅子の四十八皿〉には手間がかかる。それも、とんでもない手間だ。
最初から最後まで手順の完全に決まったコース料理だから、途中での量の変更などにも対応しにくいという問題がある。
味で満足させることはできるが、万が一、量が不足した場合の対処が難しい。
そして、派手さ。
量と味の両立。
加えて見た目の派手さも考慮するとなると、なかなかに難しいものがある。
そのためには、ハンスだけではなく、信之の力が必要だとリュービクは力説した。
古都には〈双頭の竜は勇者に敗れる〉という言葉があるという。日本で言えば〈船頭多くして舟、山を登る〉と言ったところだろうか。
それでも今回の場合、司令塔が二人必要だと説くリュービクの熱弁も、信之には理解できる。
大切なのは、手数ではなく、場を切り盛りできる人間なのだ。
慣れない調理場。客からの罵詈雑言は覚悟しなければならない。
それを、やる。
信之は震えを感じた。
武者震い。
もちろん、掠奪婚には、反対だった。
だが、困難な仕事であれば仕事であるほど、料理人として奮い立つものがあるのも事実だ。
「で、タイショー、請けてくれるか?」
尋ねるリュービクへの返答は、もう決まっていた。
「請けます」
はっきりと、信之は告げる。
「……そうか、やっぱり無理だよな……」
「いや、請けますよ、リュービクさん」
え、とリュービクが目を見開いた。
「本当に、いいのか」
ええ、と頷きながら、信之はもう料理のことを考えている。
しのぶはもう、あれこれと考えはじめているようだ。リュービクは連れていくと一言も言っていてないが、しのぶの中ではもう当然のように同行することが決まっているらしい。
リュービクがいて、しのぶがいて、ハンスがいる。
これならば。
きっと、何とかなる。
そんな気がするのだ。
「よかったぁ……」
へなへなと崩れ落ちるように、リュービクがカウンターにもたれかかる。
「他の料理人のところへは行かなかったんですか?」
「いや、ここだけだよ」
聞けば、信之に断られたら、自分一人で何とかしようと思っていたのだという。
古都には他にも名店と呼ばれる店は少なくない。
〈飛ぶ車輪〉亭やその他の名店の料理人を差し置いて、リュービクが自分を頼ってくれたことが、信之は少しだけ誇らしかった。
しのぶとハンスにもついてきて貰おう。
そう思って声を掛けようとすると、二人は既に準備をはじめていた。
「大将、お皿はどれを持っていったらいいと思う?」
「あちらではレーゾーコがありませんが、どうしましょう?」
二人とも、すっかり乗り気だ。
エーファまで、持っていく布巾をどれにするか選んでいる。
「ただ、問題はどういう料理で攻めるかだな……」
顎に手を当て、考え込んだ。
量を用意しつつ、御客も満足させる。そして、派手さ。
考えてみれば相当な無理難題だ。
いつかの騒動の時のように、店の常連たちが助けてくれるという種類の課題でもない。
自分の経験と力で、リュービクやしのぶ、ハンスと共に祝宴を作り上げる。
本当はリオンティーヌもいてくれれば心強いが、残念ながら今は休暇中だ。
しかし、と信之は右の親指と人差し指を擦り合わせた。
覚悟はあるが、何か切っ掛けとなるアイデアが欲しい。
店の中を、ゆっくりと見まわす。
ヒントとなる何かが、見つかればいいのだが。
「そう言えばエーファ、その袋は」
信之はふと、エーファが抱えている袋に気が付いた。
「ラインホルトさんから貰った玩具です」
そう言って、布袋の口を開けてみせる。
中身は〈金柳の小舟〉のラインホルトがエーファと弟妹達につくった玩具だった。
それを見て、信之は小さく頷いた。
「よし、これで行こう」