料理人、ふたり(前篇)
冬の妖精の先陣が露払いをしたように、古都の空には雲一つない。
朝の冷たい空気が、エーファは嫌いではなかった。
頬に当たる寒風が自然と季節の移り変わりを感じさせる。
物流が滞る冬に備え、市場で燻製肉や塩漬け肉といった持ちのする食べ物を買い溜めする人々の喧騒はこの時期の古都の風物詩だ。
季節を司る四柱の女神の中で、エーファは冬の女神が一番好きだった。
旧い話によれば、既に春を任されることが決まっていた彼女が、誰も嫌がった冬の女神を引き受けたのだという。
古都の冬は険しい。
それでも生き抜けるのは、人々が助け合うように女神が智慧を授けたからだという。
身を寄せ合えば、寒さも和らぐ。
降る雪も凍てつく寒さも、そう考えれば乗り越えられる。
ひとりでは解決できない苦難も、ふたりなら。それでも足りなければ、もっと大勢で。
市の喧騒も、女神の智慧をそのままにしたかのようなおしくらまんじゅう。
これなら寒さも和らぐが、歩きにくいことこの上ない。
行き交う人々の間を、エーファは縫うようにして進む。
小柄なのが得だと思うのはこういう時だけだ。
市は無数の商品で彩られている。
肉に野菜、穀物に保存食。衣類や薪に、装飾品まで。
古都の周辺の村々から持ち寄られたこの季節だけの産品がところ狭しと並べられている。
肉と一口に言っても燻製肉や塩漬け肉は言うに及ばず、ソーセージやハム、家庭で調理するためのそのままの肉も吊り下げられて売られていた。
冬の間の手慰み用の編み糸や針といった道具まで、時間さえあればいつまでも楽しんでいられるような賑わいだ。
声を嗄らして街行く人々を呼び止める売り手が必死なのは、儲けたお金がそのまま帰りの買い物の軍資金となるからに他ならない。
ここで商品を売って得た銀貨で、村人は冬越しに必要なものを買い揃えていくのだ。
もちろん、貨幣を介在しない物々交換もあちらこちらで見られる。
壺と刺繍、肉と麦、毛皮と薬。
どれもこれも、古都では当たり前に見かける品だが、城壁の外へ一歩踏み出せば事情は変わる。
一つの村では揃わないものを、古都で揃えるのがここにいる人たちの目的なのだ。
少しでも大きな塩漬け肉の塊を手に入れようと、街の母親たちが押し合いへし合いするのは見ていて微笑ましい。
だからエーファはこの時期の古都が好きだ。
賑やかで、活き活きとして、忙しなく、わくわくとして気持ちが満ちている。
しかし、今日は少しだけ様子がおかしかった。
何が、というわけではない。
空気がどことなく張り詰めているのだ。
胸に抱えた袋をぎゅっと抱きしめ、エーファは身を竦めるようにして足早に歩く。
市の開かれている中央の広場を離れると、不穏な気配はもっと濃厚になった。
斑鴉が嗄れ声で鳴き、犬は尾を後ろ脚の間に挟んで逃げる。
すれ違う人々の表情も、固い。
路地を行く兵士は、古都の衛兵だけではなかった。
紋章はサクヌッセンブルク家やその臣下のものだが、表情は一様に険しい。
「狼煙が上がっているのを見たか?」
「あれはどこの狼煙だったんだ」と、囁き合う会話の内容も物騒極まりないものだ。
エーファがいくら子供でも、狼煙が平時に上がるものではないということくらいは知っている。
何か、あるのだろうか。
このところ、古都の周辺は平穏を取り戻していたはずだ。
北方三領邦の問題が先帝陛下の見事な裁きで収まって以降は、大きな戦争も近隣では起こっていないと聞いている。
胸に立ち込める不安に突き動かされるようにエーファは道順を変え、運河の側へと出る。
人通りが増えると、古都はいつも通りの表情を取り戻したように見えた。
艀が行き交い、無数の荷物が積み下ろされる。
活気に溢れた、いつもの古都。
この運河を下れば、とエーファは目を細めた。
兄の働く北の港町へ、いや、もっと遠くまで繋がっているのだ。
まだ見ぬ東王国や聖王国、連合王国に大公国……
アルヌの話に登場した、北の果てへも繋がっているのだろう。
生まれてこの方、エーファは古都周辺を離れたことがない。
兄姉は遠方へと出ていったが、エーファはきっとこのまま古都で暮らすのだろう。
いや、そう言えば一度だけ古都から遠くへ出かけたことがある。
居酒屋ノブの裏口だ。
神の使いへの御供えを加えた白狐を追って、どこか遠くへ迷い込んでしまったのだ。
とても不思議な街だった。
タイショーやシノブは、あそこをニホンだという。
そういう名前の国がどこにあるのか、エーファは知らない。
人に尋ねるわけにもいかないから、こっそりと本を読んで調べているのだが、それらしき記述を見たこともなかった。
きっと、とてもとても遠くなのだろう。
まず、文化が全く違った。
馬なしで走る馬車に、石造りの巨大な塔の連なり。
裏口の繋がっている先は、エーファの見たことのない街並みだった。
海を渡っていけば、タイショーやシノブの生まれた土地にも行けるのだろうか。
運河を浚渫する舟が、エーファの視線の先を下っていく。
工事が上手くいけば古都を訪れる舟はもっともっと増えて賑やかになるそうだ。
今でも色々な舟が見られるのに、これ以上増えると言われても、ちょっと想像が追い付かない。
エーファは胸に抱えた袋を、撫で、感触を確かめる。
中に入っているのは、ラインホルトから貰った玩具だ。水運ギルドの本部に遊びに行くと、ラインホルトはエーファをまるで大商会の令嬢でももてなすように扱う。
下にも置かぬ扱いにはじめは戸惑ったが、今ではもう慣れてしまった。
理由はよく分からないが、好意を無礙にするのもよくない。
ラインホルトから貰った玩具のことを思い出す。
きっと弟のアードルフも、妹のアンゲリカも気に入るだろう。
冬の間はあまり遠くへ遊びに行けないから手持ち無沙汰にしている二人も、これなら飽きずに遊んでくれるに違いない。
行き交う舟をひとしきり眺め、エーファはノブへと足を向けた。
今日はいったいどんな料理が店に並ぶのだろうか。
店へ向かう途中に想像するのも、エーファにとっての楽しみだ。
昨日のまかないで食べた料理は、実に美味しかった。
カツドン。
肉厚の豚肉をじっくり揚げ、とろとろの玉子で包み込む……
シュニッツェルに似たトンカツが、こういう料理になるのだから、すごい。
不思議なほどに柔らかな肉からは旨みが溢れ、タマネギの甘みが口の中に広がるのだ。
ふわとろの中に、しっかりとした肉の旨み。
タレの沁みたライスもまた、堪らない。
どんな味かを説明しろと言われれば、エーファは「幸せの味」と答えるだろう。
肉と米。
二つの織り成す旋律は天上の調べの如く舌を蕩かし、胃の腑を満足させる。
シノブはぺろりと平らげもっと食べたいと強請り、タイショーに窘められたほどだ。
「あ、そうだった」
カツドンで思い出したのは、リオンティーヌが昨日も休んだことだった。
ちょっと何日か出かけてくるという伝言があったので心配はしていない。だが、気にはなる。
特に今日の古都の雰囲気を見ると、何かが起こっても不思議ではない。
元女傭兵だから心配要らないと皆はいう。
確かに、並の男の人よりもよっぽど強いのはエーファも知っている。
だからといって、気にしてはいけないということはないだろう。
後は、お店のこともあった。
リオンティーヌが休むということは、仕事の負担が増えるということだ。
シノブはきっとエーファの負担を増やさないようにいつもの倍働くつもりだろう。
少し前には、水運ギルドのエレオノーラまで手伝ってくれたらしい。
雇ってもらっている以上、エーファも頑張る。
誰かに言われたわけではない、エーファがそうしたいのだ。
働きはじめた頃は、贖罪だった。
ジャグチを盗もうとした、自分への罰。
しかし、今は違う。
働くことが楽しく、そこから学ぶことが人生を豊かにしている実感がある。
色々な人と出会い、美味しいものを食べて飲んだ人を笑顔にする仕事だ。
今はまだ料理には携われないエーファも、ノブの一員として貢献している自覚がある。
そのことが、なによりも嬉しいのだ。
だからエーファはいつもより早くノブへ着くように道を急ぐ。
〈馬丁宿〉通りへ入り、石畳の道を走った。
もちろん、抱えている袋は落とさないように。
迷子の騾馬を探す人とぶつかりそうになりながら、息せき切って硝子の引き戸を開けた。
今日もしっかり働こう。それがエーファの生きる道だ。
「頼む、タイショー。この通りだ」
挨拶をするより前に目に飛び込んで来たのは、深々と頭を下げる男の背中だった。