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老婦人の来店(後篇)

 老婦人は、大した健啖家だった。

 後からやって来た大食漢で鳴らす衛兵たちが畏れ慄くほどだ。


「シノブさん、こちらのテンプラ盛り合わせというお料理のお代わりを頂けるかした。二人前ね。それとナスのニビタシというのも気に入ったわ。これも、二人前頂戴」

「は、はい、かしこまりました!」


 註文をしながらも、手は止まらない。

 リオンティーヌは昔聞いたことがあった。

 達人は、いくつものことを同時に考えることができるのではないか、という話だ。


 俗説かもしれない。所作を極限まで身体に覚え込ませることで、常人にはそのように振舞っているように見えるだけではないかとリオンティーヌは睨んでいる。


 いずれにしても、老婦人の食事風景は、一種異様なものだった。

 とにかく、速い。常在戦場とはいうが、まるで戦場での食事のように手早く食べていく。

 衛兵隊のイーゴンは、老婦人の気魄にあてられたのか、今晩は随分と大人しい。


 それにしても、凄まじい食べっぷりだ。

 サトイモのニッコロガシにはじまり、ほくほくとした馬鈴薯とインゲン、ニンジンの煮物。

 イワシはフライ。季節の野菜はテンプラで。

 アキナスは特にお気に召したようで、煮物、焼き物、素揚げに肉詰めをご註文。


 その食慾は留まるところを知らず、ノブの常連の中で「エール樽より腹回りが大きいのでは」と噂される肉屋のフランクよりもいい食べっぷりだ。

 ただたくさん食べるというだけではない。

 食べ方が、いちいち上品なのだ。

 口に運んで噛み締め、目を細める。

 その仕草、息遣い、間の取り方の全てが、料理を堪能し、味わっていることの証左だ。


「じゃあ、お婆さんはいなくなった親戚の娘さんを探して古都へ来たんですか?」


 子供は恐れを知らない。

 リオンティーヌなど近付くだけでも〈毒竜に睨まれた鶏〉のようになってしまう老婦人に果敢に話しかけているのは、専らがエーファだ。


「ええ、そうなのよ。遠い親戚からお預かりしている大切な娘さんなのだけれど」


 親戚の娘さんについて話す時、老婦人の表情は沈痛そのものだった。

 よほど大切な娘さんなんだろう。

 リオンティーヌのように、貴族の娘といっても、一人で食べていくことを親戚に期待されている身の上とは違う。

 本当の御姫様のような女の子が、いるところにはいるのだ。


「娘さん、ねぇ」


 リオンティーヌが呟くと、老婦人が椅子に座ったままくるりと身を翻す。


「そうなのよ。古都にいるらしい、というところまでは突き止めたのだけれど……何処にいるのか分からないから、こうやって宿や旅籠なんかを一軒一軒訪ねて歩いているの」


 それは、的外れな方法だろうな、とリオンティーヌは思った。

 しっかりした宿であればあるほど、宿泊客が何者であるかを秘匿するものだ。

 誰が泊まっているのかを簡単に明かさないことが、宿の格に直結するとも言える。

 宿探しと同時に老婦人が情報収集として破落戸退治をしていることは、すぐに明らかになった。

 イーゴンが恐る恐る尋ねたところ、老婦人はあっけらかんと、


「だって、弱い人が虐げられているのを助けるのは、貴族に課せられた使命だわ」と答える。


〈|高貴さは義務を強制する《ノブレス・オブリージュ》〉


 リオンティーヌの生まれた東王国の貴族は、冗談のようにこの言葉を使う。


「我々貴族がその高貴さによって義務を負うならば、神の恩寵によって嘉されし国王陛下はもっと大きな責務を負わねばならんのではないかね。それなら私は貴族でちょうどいいね」とは、リオンティーヌの親族の言葉だ。

 権利に必ず義務が付随するわけではない。

 しかし、この老婦人は、衷心からこの言葉を信じている風がある。


「ご婦人、失礼を承知でお尋ねします」


 リオンティーヌは、片膝をついて問うた。

 これまで勝手に戦いに備えたことを詫びる意味もある。


「なにかしら」


 上品に口元を拭う老婦人の眼は、少女のような好奇心の光を湛えていた。


「不肖、この私の名は、リオンティーヌ・デュ・ルーヴと申します。ご婦人、畏れながら、御身のお名前をお伺いしたい」


 微かにイーゴンが同意の頷きをしたのが視界の隅に映る。


「あら、失礼。そう言えばまだ名乗ってなかったかしら」


 リオンティーヌに向き直り、老婦人はすっと立ち上がった。

 小柄なその姿は何故か、元女傭兵には、巨人のように見える。

 老婦人、いや、歴戦の女戦士は朗々とその名を名乗った。


「問われて答えずんば、我が一門の恥。我が血族は遥か北、〈凍てつく島〉の霊峰スネッフェルスより春を求めて出でしものなり。その名をばスネッフェルスとなむ言いける。〈春を求めし〉者どもの王、サクヌッセンブルクと同じ血を引き、同じ船に乗り、轡を並べる血族の末裔なり」


 そこまで一気に言い放つと、老婦人は杖を一回しして見せた。


「我が名は、ウルスラ。ブリュンヒルデの娘、ウルスラ・スネッフェルス。以後、見知り置きを」


 ウルスラ・スネッフェルス。


 その名を耳にして、リオンティーヌは崩れ落ちた。

 イーゴンも、呆然自失としている。


〈槍〉のウルスラ・スネッフェルス。

 生きた、伝説だ。

 またの名を〈破城〉のウルスラ。

〈単騎無双〉、〈槍の乙女〉、そして〈無傷〉のウルスラ。


 幾つもの戦場を渡り歩き、帝国北方の平和と安寧を守り続けてきた、無双の女騎士。

〈戦乙女〉の旗印を戴き、精強無比なサクヌッセンブルク侯爵軍の先方を務めること無数。

 無敵に槍捌きは神速の域に達し、一騎討ちでは生涯無敗。

 全ての関門は先帝の勅命により彼女から関銭を得ることを認められていないという。


 まさかそのウルスラ・スネッフェルスと、こんなところで(まみ)えることができるとは。

 リオンティーヌがちらりと見上げると、カミダナににぎにぎしく祀られた星煌石が一瞬きらりと瞬いたような気がした。


 ウルスラの名を少しでもその名を耳にしたことのある者たちは、呆然としている。

 エーファまでも、わなわなと震えていた。


 当たり前だ。

 お伽噺の英雄、〈竜殺し〉のザイフリートや〈隻腕戦王〉のヴァルター、〈死なず〉のオルランドと同じような伝説の存在が目の前にいて、自分の勤める店の食事を美味そうに食べているのだから、驚くなという方が不可能だった。


 事情がよく分かっていないシノブまでも、「御高名はかねがね……」などと言っている。

 リオンティーヌは、知らず自分が相好を崩していることに気が付いた。


 今夜は、いい夜だ。

 伝説の女騎士、憧れていた〈槍〉のウルスラをこの目で見ることができるなんて。

 同時に、自分も何かウルスラの役に立ちたい、という気持ちが心の中で大きく膨らんでいくのをリオンティーヌは感じていた。


 何か役に立てること。

 そう考えたとき、ふと脳裏に過ぎるものがあった。

 数日前に腹痛で店を休んだときのことだ。

 あの時リオンティーヌは、あるものを見た。


「ウルスラ殿のお耳に入れたいことが」


 リオンティーヌはウルスラの耳にそっとささやき掛ける。

 居酒屋のぶに迷惑を掛けるつもりはない。

 これは、リオンティーヌ・デュ・ルーヴとしての行動だ。

 だから、タイショーにもシノブにも、エーファにも、そしてハンスにも聞かせるわけにはいかなかった。


「実は、お役に立てるかもしれません」

「あら」


 口調は上品なままに、ウルスラ・スネッフェルスの目つきが変わる。

 獣の目。

 歴戦の女戦士の目。

 そして、北方の狂戦士の目だ。


「詳しく聞かせて貰おうかしら」


 その晩、ウルスラは食事を終えるとたっぷり目の支払いを済ませて、さっとノブを立ち去った。

 いなくなったことに気付くことができた人間は、ただの一人もいない。

 まるで、そよ風がさっと吹き抜けたかのように、いつの間にかいなくなってしまったのだ。

 リオンティーヌが長期休暇願を置いて早引けしたこととウルスラとを関連づけて考えるものは、恐らく誰もいなかったに違いない。


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