栗と二人(後篇)
「タイショーとシノブは、お爺様のあの約束を知っているかい?」
あの約束、と聞いてしのぶはすぐにピンときた。
「親指ほどの厚さの皮の鮭を持ってきたら、望む領地を与える、でしたっけ」
そう、それだよと帝国皇帝が苦笑する。
「そんなことを信じる奴なんていないと思っていたんだけどね……いたんだよ」
隣で料理の仕込みをしていた信之が、思わず咳き込んだ。
親指ほどの厚さの皮を持つ鮭というのも信じがたいが、それを持ってくる、というのは。
「もちろん、偽物さ。上手く作ってあったそうだけど、ゼバスティアンはすぐに見破った」
偽物、と聞いて、しのぶは少しがっかりした。
もし本物なら、少し見てみたい。
分厚い皮もそうだが、その皮を纏う鮭とはどういうものだろうか。
ひょっとすると、頭が二つあったり、タコの足が生えていたりするのかもしれない。
「ところが偽物と見抜かれていないと思ったのか、持ってきた男は厚かましくも先帝陛下に爵位と領地を要求したのよね」
セレスティーヌの口元が楽し気に緩む。
「信じられない厚かましさだよ。鮭の皮より、そいつの面の皮の方がよほど分厚い。先帝陛下は、ゼバスティアンに銘じて、一枚の地図を持ってこさせた」
「投獄されなかったんですか?」
カウンターの奥からぴょこんと飛び上がりながら、エーファが尋ねた。
畏れ多くも皇族に詐欺を仕掛けようとしたのだから、それくらいされても不思議はない。
エーファの問いに、コンラートがにやりと笑う。
「男は、恭しく地図を受け取った。後継者がいなくて、ちょうど帝室直轄領になっているところの地図で、並み居る群臣は先帝陛下の一挙手一投足を、固唾を飲んで見守ったよ」
そこでセレスティーヌが破顔した。
「それで先帝陛下、一度下げ渡した地図をさっと取り返しちゃったのよね」
「汝の献上したる鮭の皮の偽物、見事であった。余も一瞬、夢を見ることができた。その返礼に、余も汝に一時の夢を見せたことで褒美としよう」
コンラート四世の威厳ある声音を、孫の五世が真似してみせる。
「偽物と見破られた男の方はまさか文句も言えずに、すごすごと引き下がったの。あれには随分と笑わせてもらったわ」
顔を見合わせ微笑むコンラートとセレスティーヌ。
お似合いの夫婦。
ちょっとその辺りの居酒屋にいる仲のいいカップルと言われたら信じてしまいそうだ。
これで帝国皇帝とその皇后というのが、未だにしのぶには信じられない。
「そう言えば、お二人揃って帝都を留守にしていいんですか?」
恐る恐るといった風に、ハンスが尋ねる。
元衛兵という経歴から、その辺りが心配になるのだろう。
「そこは、セレスが上手くやってくれたからね。余とセレスの結婚に反対する諸侯は、全員帝都に集められている」
言われてみれば少し前から諸侯の領地替えや貴族の陞爵、栄転の話が古都にも聞こえている。
しのぶと信之、ハンスの頭に疑問符が浮かんだ。
反対派や非主流派の諸侯を帝都に集めたら、どうして二人が旅行できるようになるのだろう。
「お嬢ちゃんは何故だか分かるかい?」
突然コンラートに尋ねられ、エーファは一瞬考え込んだ。
「あちこちでバラバラに何か悪巧みされるよりも一か所にまとめた方が動きを見張りやすいから、ですか?」
セレスティーヌとコンラートが顔を見合わせる。
「それと、皇帝陛下に反対するということでは一致団結ができても、皆で帝都に集まっちゃうと、誰が偉いのかを決めるためにお互い喧嘩しちゃうから、とか……」
一所懸命考えたらしいエーファの答えを聞き、コンラートは大きく頷いた。
「驚いたな。この少女、〈硝石収集局〉の一員として欲しい逸材だ」
「私なら〈収集局〉の一員どころか、副長官を任せるわね。若しくはゼバスティアンの片腕。あの爺様もそろそろ引退したいって言っていたし」
まぁもちろん冗談だけど、と笑いながら、コンラートは懐からハンケチーフを取り出した。
皇帝コンラート四世の紋章が刺繍された、立派な正絹のハンケチーフだ。
「正解したご褒美だ。今はこんなものしか上げられないけれど」
「あ、ありがとうございます!」
拝跪し、恭しくハンケチーフを賜るエーファ。
どこで憶えてくるのか、こういう所作には妙に明るい。
「さ、栗と鮭ときのこの炊き込みご飯、あがったよ」
ハンスが盛り付け、しのぶが、配膳すると、コンラートとセレスがおぉと声を上げた。
「秋をそのまま炊き込んだような料理だな」
「さっそく食べましょ、コンラート」
ぱくり。
息の合った動きで同時に木匙を口に含むと、目を細める。
ぱくり、ぱくり。
ぱくりぱくりもぐもく。
んん、と嘆声を漏らしたのは、コンラートだ。
「正直なところ、米という穀物を甘く見ていたな」
米は帝国でも食べるが、甘く煮て菓子にすることがほとんどだった。
しかし、穀物なので腹に溜まる。
経世済民について常に考えているコンラートにとっては、莫迦にできない問題だ。
「東王国では食べるところもあるけれど、どうしても小麦や大麦、ヨルステン麦、後は馬鈴薯や、ソバよりも、ちょっと食べられていれる地域が少ないのは確かね」
帝都に帰ったら調査させてみるか、とコンラートが呟けば、レシピも調べさせると普及に役立つかも、とセレスが応じる。
美味しそうに口を動かしながらも政治の話に直結するのは、さすがに皇帝夫妻だ。
「さてここでセレスティーヌさんにプレゼントがあります」
茶碗を空にしたセレスティーヌに、しのぶがにっこりと微笑む。
「プレゼント? ……まさか」
「じゃっじゃーん」
マイセンの小皿に盛られているのは、まごうことなきモン・ブラン・オ・マロン。
「セレスティーヌさんが来るって手紙をくれたから、準備をしていました!」
「……シノブ」
感動に打ち震える、セレスティーヌ。
しのぶとしても、ちょっといい百貨店のケーキ屋さんに予約して頼んでおいたモンブランをこれだけ喜んでもらえると、ちょっと嬉しい。
小さな銀のフォークで、モンブランを味わうセレスティーヌ。
その笑みは、帝国、いや、三国随一の笑みかもしれない。
「古都に暫くいらっしゃるなら、ジャン=フランソワさんの栗でも御菓子作りますね」
シロップの古漬けを使った本式のモン・ブラン・オ・マロンには間に合わないかもしれないが、〈栗剥き名人〉コンラート五世の剥いてくれた栗を使えば、洋菓子だけでなく、和菓子もいろいろ作れるはずだ。
「是非頼むよ、妻に故郷の味を堪能させてあげたい」
柔らかく微笑む、コンラート。
帝国皇帝の笑顔には、異国で暮らさざるを得ない、愛する妻に少しでも寂しい思いを抱かせたくないという、夫の真摯な気持ちが刻まれている。
その一方、店の隅では助祭のエトヴィンがジャン=フランソワ・モーント・ド・ラ・ヴィニーの人生相談を受けていた。
「それは大変じゃったのう……」
「ええ、まあ」
レーシュと湯冷ましの水。
酌み交わす盃の中身は違えど、積もる話はあるのだろう。
いつの間にやら二人の席には秋野菜の天ぷらから酒盗、そしてもちろんポテトサラダまで酒席の彩りに加わって、ジャン=フランソワ・モーント・ド・ラ・ヴィニーの人生相談は続く。
自分と同じ職に就きたいという甥になんと言うべきなのか。
結構な激務なのに、給金が上がらないのは何とかならないものか。
そもそも、自分は組織に必要とされているのだろうか。
「分かる、分かるぞ」
内容の一片たりとも分からないはずのエトヴィンだが、そこは豊富な人生経験が武器になる。
ジャン=フランソワの悩みを引き出し、愚痴を吐かせて、解決策のヒントを提示してやった。
いつの間にやら意気投合する二人の話は盛り上がり、話題は四方八方へと広がりを見せる。
古都のこと、帝国のこと、東王国のこと、河賊のこと……
二人の話は夜更けまで続き、皇帝夫妻が〈四翼の獅子〉亭へ戻ってからも、暫く続いた。




