栗と二人(前篇)
「セレスティーヌさん、私はやっぱり、モンブランがいいと思うの」
「シノブさん、その気持ちはとてもよく分かる。でも、よく考えて」
居酒屋のぶの一角で、非常に重要な会議が催されていた。
東王国前の王女摂政宮にして、現帝国皇后セレスティーヌが列席しているといえば、その重大さの一端が伝わるだろう。
「シノブさん、本式のモン・ブラン・オ・マロンには、シロップ漬けにした栗が必要なの……」
「ああ……それはさすがに今すぐ用意できない……」
議題は、栗。
ジャン・フランソワ=モーント・ド・ラ・ヴィニーという名前の親切な人がわざわざ東王国から届けてくれた、立派な栗だ。
どうしてここに皇后セレスティーヌがいることが分かったのか。しのぶは訝しく思ったのだが、尋ねてみてもセレスティーヌは眼鏡の奥で「ふふふ」と微笑むだけだった。
きっと、高度な諜報戦が行われたのだ。
そして今、ここでも高度な戦いが繰り広げられている。
「となると、栗きんとんかなぁ」
「クリントン?」
「栗きんとんっていうのは、私の国のお菓子でね、二種類あるんだけど」
楽し気に会話するしのぶとセレスティーヌの横で、栗の皮を剥く男が、一人。
名を、コンラートという。
神の恩寵により、同じ名前を有する五人目の帝国皇帝だ。
そのコンラート五世が、栗の皮を剥いていた。
巧い。
いや、その手際は、巧過ぎるとさえいえる。
料亭〈ゆきつな〉で修業した信之が、驚嘆するほどの手際だ。
同じように挑戦したハンスが一つ剥き終えるまでに、皇帝は五つと半分の皮を剥き終えていた。
「ねぇ、コンラート」
皇后セレスティーヌが、皇帝コンラートの手元を覗き込む。
「なんだい、セレス」
栗の皮を剥く手を止めずに、帝国皇帝は返事をした。
「貴方ひょっとして、栗の皮剥きの天才なんじゃないの?」
「……自分でもそうじゃないかと、疑いはじめたところなんだよ」
栗の山が、次々と剥かれていく。
その速さは、とても人間技とは思われない。
「今思いついたんだけど、貴方の皇帝称号に、”それ”を加えるべきだと思うの」
「……栗の皮剥きについてかい?」
ええ、とセレスティーヌは指を折りはじめる。
「〈十三の民の支配者〉、〈ルーオ帝国の正統なる後継者〉、〈信仰の庇護者〉、〈不錆鉄冠を継ぐ者〉、〈帝国等族会議の総覧者〉、〈社稷の守り手〉、〈大陸第一の統治者〉……」
「そして〈栗の皮剥き名人〉?」
コンラート五世が鼻で笑った。
「付け足すとさすがにちょっと多過ぎやしないか」
「今でも十分多いから、誰も気付きやしないわよ」
帝国の皇帝ともなると呼び名が随分とたくさんあるものだ、としのぶはちょっと感心した。
「そうだ。それなら、どれか一つ外しちゃえばいいのよ。〈大陸第一の統治者〉とか」
帝国は巨大な版図を有しているが、国力で言えば東王国と然して変わらない。
統治権や裁判権、徴税権が三百以上も存在する各諸侯に分割されているので、東王国の方が若干強いという話もあると、しのぶはエトヴィンに聞いたことがあった。
大公国や聖王国、連合王国などと比較すればその力は懸絶しているが、〈大陸第一の統治者〉と帝国皇帝が名乗ることは東王国では揶揄の対象となっているらしい。
「実態とかけ離れていると言えばかけ離れているけどなぁ。代々名乗っているものだし」
「何か問題が?」
愛らしく小首を傾げるセレスティーヌに、コンラートが苦笑する。
「もしもゼバスティアン辺りに提案したら、嬉々としてその日の内に内務寮の全員を説得して、〈大陸第一の統治者〉と〈栗の皮剥き名人〉を交換しかねない」
コンラートが口にしたゼバスティアンの名に、しのぶは思わず噴き出した。
帝国内務卿の重鎮にある老人だが、飄々としていて茶目っ気がある。
若い頃には吟遊詩人クローヴィンケルの恋愛詩の偽造までやったという不思議な人物だ。
セレスティーヌに提案されれば、慇懃な態度でコンラートのことを〈栗の皮剥き名人〉陛下、と呼びそうな人物である。
「でもやっぱり、今までの称号は大切にしたいよ」
「あら、他の称号は肩書としては立派だけれど、最後の一つだけは実際に役に立つじゃない」
「他の称号もたまには役には立つよ」
そうかしら、とセレスティーヌが眼鏡を指で押し上げた。
どんな役に立つのか、コンラートの口から聞いてみたいという表情だ。
「……例えばね、世界で一番の女性と求婚するときに、誰にも文句を言わせないとか、さ」
帝国皇帝が、帝国皇后の掌を包み込むように、握りしめた。
「……もう」
セレスティーヌの頬が染まり、それが感染したようにコンラートも赤くなる。
その様子をぼんやりと眺めていたしのぶがぽつりと漏らした。
「ねぇ大将。私まだモンブラン食べてないんだけど、口の中が甘い」
「……オレもだな」
ハンスとエーファ、腹痛から復帰したリオンティーヌも同意する。
リオンティーヌの腹痛の原因は、食べ過ぎだったようだ。
秋の味覚は美味しいが、いったい何をそれほど食べたのか、しのぶには不思議で堪らなかった。
「コンラートさんの秋鮭の塩焼き、おまたせ」
信之の焼き上げた秋鮭をしのぶが運ぶと、コンラートは満面の笑みを浮かべる。
「これこれ、これを食べに来たんだ」
聞けば、晩餐会で何か美味しいものが出るたびに、コンラート五世の祖父である先帝コンラート四世が「しかし、あの店で食べた塩鮭の皮は美味くてなぁ」と繰り言のようにいうのだという。
「そこまで言われてしまうと、食べたくなるのが人情というものでね」
しのぶは思わずクスリと笑った。
帝国の皇帝となれば、贅を尽くしたご馳走も食べ放題だろう。
それなのに、どうしても食べたいのが鮭の皮、というところにおかしみがある。
さすがに、このためだけにわざわざ古都まで来たわけでもないだろうが。
「そうそう、鮭の皮といえば、笑い話があってね」
塩鮭を口にしながら、コンラートが口元を綻ばせた。
「タイショーとシノブは、お爺様のあの約束を知っているかい?」