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【閑話】〈幼王〉の密命(後篇)

 馬車が揺れる。

 膝の上に抱えた小包を、ジャン=フランソワ・モーント・ド・ラ・ヴィニーは必死に押さえた。

 運ぶ際に危険はない、と聞かされてはいるけれども、用心に越したことはない。

 街道は東王国と帝国との国境を抜け、古都へと続いている。


「セレスティーヌ・ド・オイリアが極秘に古都を訪れる、か」


 それ自体は不思議なことではない。

 古都は今、帝国北部でも重要度の増しつつある都市だ。

 ビッセリング商会の御曹司、ロンバウトの発表した運河開削計画が本当に実現すれば、あの街は水運と陸運の結節点として、物流と貨幣、そして情報の集積地へ化ける可能性がある。


 本来であれば、今でもそれだけの潜在力を秘めた都市なのだ。

 そのことは実地で調査し、古都の実力を計ったことのあるジャン=フランソワも知っていた。


 問題は、河賊とそれを支援する大河沿いの弱小貴族たちだ。

 野放図な掠奪と、法外な通行税。

 船便の運航を妨げる彼らを黙らせることさえできれば、運河など通さなくてもいいのではないのかとさえ思う。


 とは言え、土台、無理な話だった。

 河賊たちを黙らせることなどできるはずがない。大河の流れが逆にならぬのと同じことだ。

 果たして、古都の運命はどうなるのか。


 小包を持つ手に、自然と力が籠る。

 この一箱が、歴史を変えるかもしれない。

 そう考えるだけで、ジャン=フランソワ・モーント・ド・ラ・ヴィニーの背筋は震えた。


「おい馭者(ぎょしゃ)、もっと揺らさずに行けんのか」


 苛立ちから声を荒げるが、年嵩の馭者は小さく首を竦めるだけだ。

 同じ註文を十度も二十度もしていれば、呆れられるのは無理もないことかもしれない。

 だが、この小包だけは、守らねばならないのだ。






 着いた、というよりも、着いてしまった、という方が正しいかもしれない。

 古都の〈馬丁宿〉通りの一角に店を構える、居酒屋ノブ。

 ジャン=フランソワ・モーント・ド・ラ・ヴィニーにとって、因縁浅からぬ店だ。

 奇譚拾遺使が極秘に入手した情報では、この店に今晩、帝都からセレスティーヌ・ド・オイリア陛下が訪れるということになっている。


 いやに、喉が渇く。

 ここに来てジャン=フランソワ・モーント・ド・ラ・ヴィニーは、迷っていた。

 本当にこの小包を、セレスティーヌに「入手させる」べきなのか。

 秋だというのに首筋を伝う汗は、緊張のためだけか、それとも。


「……お前さん、迷いが出ておるな」


 不意に声を掛けられ、ジャン=フランソワは慌てて後ろを振り返った。

 声の主である老僧には、見覚えがある。確かエトヴィンという名の助祭だ。


「葛藤は、分かる。守らねばならぬものと、己の想いとの争いよな」


 この老僧は、やはり何か知っているのか。

 東王国の奇譚拾遺使に対応する帝国の密偵組織、硝石収集局。その一員ではないかという疑いを抱いたことはあるが、本当にそうなのかもしれない。

 眼鏡の奥の、エトヴィンの瞳が光る。


「そんな悩みなど、運河にでも棄ててしまえ。そうすれば、お主も楽になる」


 やはり、この老僧。

 小包を掴む指先が、震えた。

 エトヴィンとジャン=フランソワの距離は、指呼の間。

 もし相手が何か仕掛けてくれば、ジャン=フランソワには避けようがない。


 店の中から、談笑の声が聞こえる。

 セレスティーヌは、もう店の中にいるのか。

 今振り向けば、〈火精の秘薬〉を店の中に投げ込める。


 しかし、エトヴィンというこの老僧がそれだけの隙を見せるとは思えない。

 焦りと不安、迷いと躊躇いが()い交せとなり、ジャン=フランソワの胸の中に嵐のような濁流を巻き起こす。


 やるべきか、やらざるべきか。

 やれば、モーント・ド・ラ・ヴィニーの旗はあの〈紐帯の間〉を飾ることになるかもしれない。

 当然、その場合、ジャン=フランソワの命はない。

 爆発に巻き込まれるにせよ、エトヴィン翁に刺されるにせよ、衛兵に取り押さえられるにせよ、生きて帰れるはずもなかった。


 やらなければ、どうか。

 ここで踵を返し、エトヴィンの言うように小包は運河へでも棄ててしまう。

 そうすれば、きっと楽になる。

 東王国、それも今の職場である奇譚拾遺使に追われる身となるだろうが、自分の良心を裏切らずには済むはずだ。


 良心。


 その言葉を思い浮かべた時、ジャン=フランソワ・モーント・ド・ラ・ヴィニーは気付いた。

 自分はこの密命を、暗殺を果たしたくなどなかったのだ。

 歴史に名を遺す名誉と計りにかけて尚、少女、かつての主の殺害には加担したくない。


 なんだ、そうだったのか。

 気付けば急に清々としてきた。

 よし、こんな物騒なものはさっさと棄ててしまおう。

 密命に逆らうことに、もはや、躊躇はない。


 その前にエトヴィンに礼を言おう。

 ジャン=フランソワが視線を合わせると、エトヴィンはにぃと人好きのする笑みを浮かべた。


「分かっておる、分かっておる。僧の身分とはいえ、秋分の日までは節制して過ごすべし、というのはやはりきついものなぁ」


 はて。

 話が何か食い違っていないだろうか。

 エトヴィンは小首を傾げるジャン=フランソワには構わず言葉を続け。

 老僧は呵々と笑う。


「酒は心の癒しという。説法もな、伝える者の心が安らかでなければ真意も伝わらんと儂は思うのじゃよ。つまりこれは、お勤めの一環、ということになるかの」


 やはり、この老僧は何か違うことを言っている。

 しかし、何事にも切っ掛けというものはあるものだ。

 ジャン=フランソワの気持ちは既に定まっていた。


「さ、良心の呵責は運河へでも放り投げて、酒と肴に舌鼓を打とうではないか、同志よ」


 バンバンとジャン=フランソワの背を叩き、エトヴィンがノブの硝子戸を引き開ける。

 押し出されるようにして一歩、ジャン=フランソワは居酒屋ノブへ足を踏み入れた。

 恐ろしいような、懐かしいような、不思議な感覚。

 異教の祭壇もいつか見た時のままに祀られている。


「いらっしゃいませ!」

「……らっしゃい」


 次の瞬間、自分の身に何が起こったのか、ジャン=フランソワ・モーント・ド・ラ・ヴィニーは理解できなかった。

 蹴躓いたはずはない。

 エトヴィンに押されたのでもなかった。


 不思議な力。

 何か不思議な力としか言いようのないものに背を押されたジャン=フランソワは、手にしていた小包を中空へ放り出してしまった。


「あ、危ない!」


 自分のものとは思えないほどの大声で、ジャン=フランソワは警告を発する。

 その声に振り返ったのは、紛れもなくセレスティーヌ・ド・オイリアその人だった。

 視線が交錯し、永久よりも長い一瞬が過ぎる。


 小包が地面に激突し、簡素な包装が破けた。


 終わりだ。

 数瞬後には、〈火精の秘薬〉が炸裂し、居酒屋ノブはおろか、この街区一角が吹き飛んでしまうに違いない。


 死を目前にすると、人はこれまでの人生を幻燈のように思い返すのだと聞いたことがある。

 母に焼いてもらったガレット。

 王府ではじめて食べた、仔羊のパイ。

 下宿から少し歩いたところの店で祝祭日にだけ売るガトー・ショコラ。

 居酒屋ノブで口にしたポテトサラダとクシカツも、目の前を通り過ぎる。


 思い返してみれば、悪くない人生だったかもしれない。

 嗚呼、太陽と双月の神よ。

 ジャン=フランソワ・モーント・ド・ラ・ヴィニーは今よりそちらへ参ります。




 覚悟を決めたジャン=フランソワの目の前で、箱から小さな丸いものが転がり出た。


「……(マロン)?」


 眼鏡を掛けたセレスティーヌ・ド・オイリアが愛らしく小首を傾げる。


「……(カスターニエ)、ですね」


 エーファとかいう名の赤毛の少女が、栗鼠のように目を丸くして呟く。

 集まる視線に、ジャン=フランソワ・モーント・ド・ラ・ヴィニーは顔が赤くなるのを感じた。


「く、栗を、お届けに参りました……」













「ラ・ヴィニー郷のジャン=フランソワ・モーントは、無事に栗を届けたであろうか」


 東王国の王城。

 広大な中庭の一角に設えられた東屋で女官たちに傅かれた〈幼王〉の下問に、奇譚拾遺使副長官、シャルル=アレクサンドル・ラ・クトンソンは恭しく口を開く。


「畏れながら、滞りなく届けたに相違ありますまい」


 いくらなんでも栗の入った小包の一つも届けられない男が、奇譚拾遺使にいるはずがない。


「そうか」


〈幼王〉ユーグの声音が、和らぐ。

 群臣の前では決して見せない、年相応の少年の表情だ。

 つられて、シャルル・アレクサンドルの口元も緩む。


 敵国である帝国へ嫁いだ王の姉セレスティーヌ。

 その姉に「栗を食べさせてあげたい」と相談を受けた時にはどうしたものかと思った。


 確かに栗は他の多くの産品と同じように東王国の物が世界で一番優れている。

 それどころか、帝国では栗の栽培さえできない地域が多いと聞いていた。

 過酷なまでに冷涼な国土というのは、かくも憐れなものであるかとシャルル・アレクサンドルの同僚などは嘲笑ったものだ。


 しかし、今問題とすべきは、王の願いだった。

 敵国の君主へ嫁した王姉に栗を贈るには、どうすればよいか。

 それも諸侯から面倒な横槍を入れられずに、となると、通常の外交手段では難しい。


 とはいえ、シャルル・アレクサンドルにしてみれば簡単な話だ。

 帝国皇后セレスティーヌに正規の外交経路を使って贈るのではなく、一人の少女であるセレスに入手させてしまえばいい。

 奇譚拾遺使という組織はそういう仕事に向いていた。


「しかし、ラ・クトンソン子爵、済まなかったな」


〈幼王〉が、詫びる。

 シャルル・アレクサンドルの仕えた歴代の東王国国王は、決して詫びなかった。


 王は、無謬。

 誤らぬからこそ、王。

 臣下は王の輔弼をするだけの存在に過ぎなかった。


 しかしこの〈幼王〉ユーグは、臣下と共に歩もうとしている。


「何がでしょう」


 問うシャルル・アレクサンドルに、ユーグは眼差しをしっかりと向けた。


「密偵たる奇譚拾遺使をこのようなことに使ってしまったことに対して、だ」


 老臣は、〈幼王〉の懸命さと慈愛に、感謝する。

 願わくは、この英明な君主に神の恩寵のあらんことを。


「御心配には及びません」


 ふむ、とユーグが頷く。


「奇譚拾遺使は、またの名を御伽衆。諸国の奇譚を集めて王族のお耳を愉しませることも、本来の仕事の一つにございますれば」


「耳だけでなく舌を愉しませても、職掌の逸脱には当たらない、か」


 左様にございます、とシャルル=アレクサンドルは重々しく返答した。

 秋の園には柔らかな木漏れ日が差し、琥珀鳥が長閑に謳っている。


 東王国は、今日も平和であった。


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