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ヒエロニムスの戦略的な晩酌(後篇)

〈戦いとは、支度である〉とは古代の名将ウェルキンリスクスの言葉だが、私も同感である。

 確かな戦略に基づいた戦術の組み合わせ。それが、勝利の鍵だ。


 迂闊な註文は全てを破綻させ、一瞬にして台無しにしてしまう。

“モーンブルク城の戦い”も“ホーニヒ湖の決戦”も、戦力的には圧倒的に勝る側が将帥の迂闊な采配によって全軍の瓦解を招き、致命的な敗北を喫したことは論を待たない。


 作戦を練る上で、アキナスのツケモノは完璧な相棒だと言える。

 ザワークラウトのように醸した野菜だというが、摘まみながら精神を落ち着け、周囲を窺うのにこれほど適した肴もあまりないだろう。


〈十地を知り、二十四節を知り、七族を知れ〉という言葉がある。


 まずは店内の様子。

 適度な込み具合だと言える。不必要に目立つことはなく、また註文が出てくるのに時間がかかり過ぎるという心配もない。騒がし過ぎないというのも私には有難かった。


 続いて、時間。

 開店直後の賑わいがひと段落し、二軒目として訪れる人々の波が到達する前の、いい時分だ。


 最後に、人。

 ノブ・タイショーことノブユキとハンスの連携は、完全だ。

 トリアエズナマに口を付けながら、機を窺う。


 今だ。


「タイショー、ウメスイショウ」

「はい、梅水晶ですね」


 私は思わず自画自賛したくなった。

 作業と作業の間に、ほんの僅かに生じる“谷間”を見事に衝くことができたのだ。

 タイショーの手も、ハンスの手も一切止めることなく、自分の註文を伝える。

 店と自分とが一体となったことを感じることのできる瞬間だ。


 一杯目のトリアエズナマを空にし、次はレーシュ。

 (ハイ)の軟骨を使ったウメスイショウに合わせるには、やはりこちらだ。


 状況に合った戦力の投入は、戦術の基本だと言えた。

 コリコリとした食感としょっぱさを、レーシュで流す。

 今日のレーシュはダッサイというそうだが、これはすっきりと飲みやすい、よい酒だ。


 口の中がさっぱりしたところで、ヤマカケマグロ。

 サシミにして、サシミに非ず。

 とろとろとした食感を味わいながら、これもまた、レーシュと合わせる。


 これが実に堪らない。

 帝国東部の田舎で土地持ち貴族の子弟相手に読み書き算法を教える家庭教師をしていた時には、決して味わうことのできなかった至高の喜びがここにはある。


 マグロを食べ終わり、皿の底に残ったトロロをちゅるりと吸う、至福。

 この行儀の悪い背徳的な行いもまた、味に深みを持たせるのだ。


 少し気持ちよくなってきたところで、今日、最大の註文を発動する。

 ここまでの戦術の組み立ては、ほとんど満点と言っていい。

 ここで今日の註文も成功させれば……


 その時、思わぬ伏兵による奇襲を、私は受けた。


「タイショー、こっちにトリテン頂戴!」

「あ、こっちもトリテン追加で」


 トリテン……?

 今日の主力は、チキンナンバンで行くと決めてこの店を訪れたのだ。

 チキン南蛮と、二杯目のトリアエズナマで、完全な勝利を飾る。

 その構想にはまったくの揺るぎはない、はずだ。

 だというのに何故、トリテンという言葉にこれほどまでに心惹かれるのだろうか。


 トリテン、トリテン、トリテン。


 異国の言葉だから当たり前なのだが、居酒屋ノブでは品書きの名前から料理の種類や形態を想像することが非常に難しい。

 ここは当初の予定通りに、チキンナンバンで攻めるべきか。

 あるいは大きな賭けに出て、トリテンを註文すべきなのだろうか。


 策が乱れる。

 このままでは、再び店が混み合う時間へともつれ込んでしまう恐れがあった。

 いずれにしても、決断を急がねばならない。


〈急いて誤る将は多いが、待ち続けるだけでは勝利は得られない〉とも言うではないか。

 よし、決めた。


「シノブさん、チキンナンバンと、トリテンを」


 両方、頼む。

 私にはまだこの手が残されていたのだ。

 しかし、シノブは少し困ったように眉根を寄せた。


「ヒエロニムスさん、よろしいんですか?」

「と、言いますと?」

「チキン南蛮も、とり天も、鶏肉のお料理ですが……」


 なんたることか。

 ここにきて、とんでもない失策だ。

 天は我を見放し給うたか。


 確かに、居酒屋ノブには鶏を使った料理も少なくない。

 このヒエロニムスがその可能性に思い当たらなかったことは、まったくの失敗だった。


 鶏と鶏。

 どちらもきっと美味しいのだろう。しかし、歩兵と歩兵、騎兵と騎兵だけの軍では、両者を組み合わせた敵に勝つことは難しい。


 ここは素直に敗北を認めて、トリテンの註文を取り下げるか。

 口惜しさと、気恥ずかしさと、大いなる敗北感に襲われる。

 考え過ぎなのかもしれない。自分の性格が、こういう時には堪らなく嫌になることがあった。


 やはり、トリテンの註文は取り下げよう。

 本当は少し食べてみたいのだが。

 逡巡を胸に胸に私が口を開こうとすると、不意に後ろから声がかけられた。


「それならばヒエロニムス、私と半分ずつ食べるというのはどうだろう」


 声の主は、イーゴンだ。

 まるで古代の英雄絵巻から抜け出てきたような美男子にして、衛兵隊の期待の新人。

 素性も性格も全く違う私とイーゴンだが、どういうわけか一緒にいて不快ではない。

 私の隣の椅子にサッと腰を落ち着けると、トリアエズナマを註文する。


「というわけでシノブさん、註文はそのままで。あと、ナスノアゲビタシ」


 イーゴンは私の策など気にせずに、気分に応じて臨機応変に行動することが多い。

 ところがそれが機を捉えた妙手であることが少なくないのだ。

 ナスのアゲビタシ、悪くない。


「はい、チキン南蛮と、とり天に茄子の揚げ浸しですね」


 しのぶの表情が綻ぶと、そこだけ空気が春でも訪れたように温かくなった。


「すまん、イーゴン」

「構わん、構わん。オレとお前の仲じゃないか」


 オレとお前の仲、と言われて悪い気はしない。

 給料のことやらなにやらで経理担当者は一般の衛兵と上層部との間で板挟みになりがちだ。

 衛兵なのに剣よりもペンを振るう臆病者だなんて陰口を大っぴらに叩く奴もいる。


 そんな中で、イーゴンのような戦士の中の戦士に友人と思って貰えるのは、素直に嬉しい。

 運ばれてきたトリアエズナマのジョッキを一息に干し、イーゴンはにんまりと笑う。

 仕事帰りのエールを一杯呷っているだけなのだが、こんな表情でさえ立派に画になるのだから、美男子というのは大したものだ。


「それにしてもな、ヒエロニムス」


 急に真面目腐った顔で、イーゴンが尋ねる。


「ん?」

「お前は普段何を考えているんだ? あまりにも無口過ぎて、時々こいつは何も考えてないんじゃないかと不安になるんだが」


 クスリ、と私は微笑んだ。

 内心では饒舌な方だが、確かに私は無口で通っている。

 私が普段何を考えているのか、友人であるイーゴンでさえも知らないというのは、それはそれで面白いことかもしれない。


「そうだな。あまり何も考えていないのかもしれないな」


 やはりそうか、とイーゴンが豪快に笑った。

 背中をバンバンと叩かれるが、不思議と嫌な気分ではない。

 友人との間にも、些細な秘密はあった方がいいのだ。



「さ、ヒエロニムス。今日は飲もう。何も考えずにな」

「そうだな」


乾杯(プロージット)!」

乾杯(プロージット)!」


 その後に運ばれてきたチキンナンバンとトリテン、ナスのアゲビタシが美味であったことは、言うまでもない。


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