ベルトホルトvs烏賊、居酒屋の大決闘(後篇)
「本日の居酒屋ノブは烏賊尽くし、か」
ベルトホルトの隣でエトヴィン助祭が顎鬚を撫でた。
入口の引き戸に貼られた紙に書かれている文字を、ベルトホルトにとってはありがたいような死刑宣告のような複雑な思いで見つめている。
「いい店じゃないか、ベルトホルト。これはお前さんのためじゃろう?」
「シノブお嬢ちゃん辺りが楽しんでやってるような気もするが、とにかく今は助かるな。何せ見合いまであまり日がない」
「最近は随分ときな臭くなって来ておるからな」
帝国はその成立から幾つかの火種を抱えていた。
帝室の紋章である三頭竜の紋章に表されるように、母体となった血筋が三つあるのだ。開闢から三百年を経た今になっても、千々に乱れた血脈は帝国に属する領邦の相続を巡って血なまぐさい争いが続いている。
帝国の直轄都市であり、高度な自治を認められている古都にはあまり関係のないことだが、近隣の両方の中には帝国からの離脱を掲げて暗躍しているものさえあった。
古都の衛兵隊を一部とはいえ預かるベルトホルトにとっては、何が起こっても対処できるようにしておきたい事態である。
「ああ、見合いはそれもあって前倒しして貰っている」
「今日で克服できればええがのう」
エトヴィンが戸を開けると、中から漂ってきた烏賊の匂いがベルトホルトの鼻を襲う。
帰りたくなる気持ちを必死に抑え、ベルトホルトは店内に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」
いつもの挨拶に迎えられ、予約していたカウンター席に腰を下ろす。
シノブが差し出すオトーシも、もちろん烏賊だ。
「いかそうめんです」
小さな平皿に盛られた烏賊は細く切られ、麺のようになっている。見た目からすると烏賊らしくない料理を選んでくれたのは店の配慮だろうか。
エトヴィンの前にはいかそうめんではなく、何か臭いの強いねっとりとした小鉢が置かれている。
「助祭、それは?」
「烏賊のシオカラ。烏賊の切り身と内臓を塩で漬け込んだ料理なんじゃが、これがまた酒とよく合ってのう。どうじゃ、お前さんも食べてみるか?」
「……いや、遠慮しておく」
ただの烏賊も食べられないのに、この上更に烏賊の内臓というのはベルトホルトにも難易度が高い。まずはとにかく、烏賊と名の付くものを食べられるようにしなければならないのだ。
いかそうめんの次はいか団子、いかの生姜煮、ホタルイカの沖漬け、イカリングフライと続いていく。ベルトホルトが食べられなかった分は、責任を持ってシノブとエーファが賄い代わりに食べていくという方式だ。
「ベルトホルトさん、このイカフライ本当に食べちゃって良いんですか?」
「良いんだよシノブちゃん、どうせオレは食えないんだから」
「じゃあ遠慮なく。エーファちゃんも食べよ」
「は、はい」
サクリ、と小気味のいい音を立てて、シノブとエーファがイカリングフライを頬張る。シノブは空いた方の手を頬に当て、目を瞑って感激したように身体をふるふると揺すった。
「サックサクの歯触りの後に来る柔らかいながらもしっかりとしたイカの歯応え。やっぱりイカリングフライは揚げたてが一番!」
「シノブさんの言う通り、サクサクもっちり美味しいです」
二人が美味しそうに食べるのを見て、ベルトホルトはもう一度箸を持つ。
だが、手は止まったままだ。
「駄目だ。どうしても食べられない……」
「烏賊の何が駄目なんですかね?」
いかそうめんをちゅるりと啜りながらシノブが首を捻る。
横でイカ団子をはむはむと食べていたエーファが、ふと思いついたように呟いた。
「あの、私の勝手な想像なんですけど…… ベルトホルト隊長って昔、烏賊で何か嫌なこととかあったんじゃないですか?」
それを聞いて、ベルトホルトがぴくりと震える。
「……何か、あったんですか?」
顔を覗き込んで問い質すシノブに観念したのか、ベルトホルトはぽつぽつと語り始めた。
「オレが育ったのは傭兵しか特産品のない山奥の小さな村だったんだが、曾爺さんってのが変わり者でな。若い時分に船乗りをやってたんだ」
船乗りと言っても木の葉のような漁船に乗って魚を獲ってくるようなのとはわけが違う。五十人も百人も乗り込んで、西へ南へと荷物を運ぶ冒険商船の乗組員だ。
命はいくつあっても足りないが、その分しっかり稼ぎは良い。引退するまでは大層羽振りが良かったそうで、ベルトホルトの実家は村でもちょっとした素封家として知られていた。
お陰で子供の頃のベルトホルトは食う着る寝るに不自由した記憶がない。
「シノブちゃんは知ってるかどうか分からないが、オレ達の乗っかってるこの世界っていうのは、実は丸いらしいんだな」
ベルトホルトの話の内容が危なっかしくなりそうだと判断したのか、猪口と自分の皿を持ってエトヴィン助祭が適当なテーブル席に退避する。
聞かなかったことにするという意思表示なのだろう。
「丸いんですか、へぇ……」
少しわざとらしい返事をするシノブとは打って変わって、エーファははじめて聞くこの世界の話に興味津々の様子で烏賊の煮付けを頬張っている。
「丸いってことの証拠はいくらでもあるって曾爺さんは言うんだ。例えばオレは見たことがないんだが、遠くの船が見えるようになるのは、決まってマストの先だ。全体がぼんやりと見え始めるんじゃない。ということは、丸いってことになるんだそうだ」
「ほー…… 凄いですねぇ」
「エーファちゃんは凄さが分かるか」
「はい! 世界が丸いなら、ずーっと西に進んで、東から帰ってきたりできるからとっても便利だと思います!」
エーファの的を射た回答に、ベルトホルトはうんうんと頷く。
「そうなんだ。ところがここに大きな問題がある」
曾爺さんの雇い主もエーファと同じことを考え、新しい航路を開拓しようと盛んに船を出した。ところがそれらは戻って来なかったり、酷い事故に巻き込まれたりしたのだという。
「一体、何が原因なんですか?」
ホタルイカの沖漬けを食べながらシノブが尋ねる。
「……烏賊だよ」
船乗りたちの行く手を阻んだのは、無数の烏賊だった。
世界の果てと船乗りが呼ぶその海域では、海が青く見えない。海面を埋め尽くすほどの烏賊の群れがひしめき合っているのだ。
「青が三分に、白七分。つまり海面の七割がたを烏賊が埋め尽くしている。そういう光景を見たって船乗りが、何人もいるってことだ」
話しながらベルトホルトの顔は完全に青ざめていた。
勇猛果敢、剣を取っては古都でも五指に入ると言われる鬼隊長ベルトホルトが、見るも無残に縮こまっている。
「オレは曾爺さんからその話を聞いて、怖くて怖くて堪らなくてな…… そのせいで今でも烏賊が一切食べられないんだよ」
「そういうことだったんですか……」
貰い泣きしそうになっているエーファに、ベルトホルトは袖を捲って左腕の古傷を見せた。
「この傷も、烏賊のせいでついたんだ」
「えっ、ベルトホルト隊長は、烏賊と戦ったことがあるんですか?」
「いや、そういうわけじゃない。戦場で出会った傭兵の兜飾りが烏賊だったんだ…… 烏賊を見て怯みさえしなければ……」
店内を重い沈黙が支配する。
単なる好き嫌いなら、荒療治で何とかなるかもしれない。だが、ここまで重度の恐怖心に支配されているとなれば、並大抵のことで烏賊嫌いを克服させることはできないかもしれない。
そんな雰囲気が、場に漂い始めていた。
「そんなに烏賊が怖いんですか……」
呟くように言うエーファに、ベルトホルトは大きく頷く。
「オレも腕には自信がある。少なくとも、そのつもりだ。そうでなければ衛兵隊の中隊長なんて務まらんからな」
「そうじゃろうのう」
いつの間にかカウンターに戻ってきたエトヴィンが、ホタルイカの沖漬けに箸を伸ばしながら相槌を打った。
「そんなオレでもなぁ、自分の身体より大きな腕が一〇本も生えたような化け物は、正直言ってこわい」
「……えっ」
店内にいた客と従業員の全員が、ベルトホルトの言葉に首を傾げる。
「ん、オレ今、何かおかしなこと言ったか?」
全員を代表して、シノブがおずおずと手を挙げる。
「烏賊の話、ですよね?」
「烏賊の話だろ?」
ベルトホルト以外の全員が、気まずい表情のまま口を噤む。
沈黙を破ったのは、エーファだった。
「タイショーさん、丸のままの烏賊って、まだ残ってます?」
「あ、ああ、残ってるよ」
そう言ってベルトホルトの前に差し出されたのは、大振りのスルメイカだ。
もう死んでいるが、先程まで生きていたかのような迫力がある。
「ベルトホルトさん、これが烏賊です」
「ああ、烏賊の幼体だろ? これくらいの大きさなら、オレも何とか直視できるんだ」
「……いえ、これで成体です」
きっぱりと断言するエーファに今度はベルトホルトが口元に手をやり、考え込む。滅多にしない貧乏ゆすりまで始める始末だ。
「じゃあ、とびきり小さな種類、だとか……?」
「いえ、これくらいが普通です。小さな種類というと、エトヴィン助祭が食べているホタルイカなんかがそうです」
ベルトホルトが黙り、他の皆もそれに倣う。
顎鬚を撫でながら、エトヴィン助祭が言いにくそうに口を開いた。
「ベルトホルト、お前さん……曾爺さんにからかわれてたんじゃないか?」
二回大きく息を吐き、天井を見つめたベルトホルトは手近な皿に残っていた烏賊の刺身を浚うようにして箸で掴むと醤油に付けて口の中に放り込む。
独特な歯応えとねっとりとした、甘味に近い旨味を堪能する。
「タイショー! さっきのアレ、アレをもう一度作ってくれ!」
「アレってどれだい?」
「シノブちゃんとエーファちゃんが食ってた丸いあれだよ。サクサクの!」
「ああ、イカリングフライ」
カウンターの上に残った烏賊料理を、ベルトホルトは次々に口に放り込んでいった。流し込むのはトリアエズナマである。
「美味い。ビールの当てに、よく合う」
炙ったスルメにたっぷりのマヨネーズを付けて齧ると、幸せな噛み応えが次の一杯のエールを誘う。
「くっそー! 曾爺さんめ…… 烏賊がこんなに小さいってならそう言えばいいっていうのに」
ぶつぶつと文句を言いながら、ベルトホルトは居酒屋ノブの烏賊尽くしを次々と平らげていく。
「これでもう、見合いの心配はないかの」
「そうですね。嫌いどころか、好物になっちゃったんじゃないですかね?」
「本当に良かったです」
安堵する面々の前で烏賊を完全克服したことを誇示するベルトホルトの表情は、何の不安もなくなった者にのみ許される満面の笑顔で彩られていた。
見合いの当日、相手の父親が史上最大級のダイオウイカを水揚げすることは、また別のお話である。