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薬師と生姜(前篇)

「いやぁ、それにしてもよく働いたよ」


 カウンターに腰を下ろすなり、イングリドはだらしなく突っ伏した。

 居酒屋のぶと同じく〈馬丁宿〉通りに店を構える、腕利きの薬師だ。

 助手のカミラと一緒に色々な薬を調合し、古都の人々の健康に一役買っている。


「とりあえず、ラガーをおくれ。それとカミラ、よく頑張った。今日だけは何か好きなものを頼んでいいよ」


 やったーと嬉しそうに歓声を上げたあと、小さくこほんと咳払いをするカミラを、しのぶは微笑ましく見つめた。

 暖簾を掲げて数時間。ちょうど客足の引いてきた時間だ。

 今晩は冷え込みが厳しいからか、客の数もほどほどだった。

 飲食店にとっては寂しい時期だが、どうやらイングリドの薬品店はそうではなかったらしい。


「今日もお忙しかったんですか?」


 お通しの筑前煮を出しながら尋ねると、イングリドは顔を上げ、情けない声を出した。


「忙しいなんてもんじゃないよ……」


 弱々しい声でイングリドが指折り数える。


「今日の患者は、頭痛、発熱、咳、喉、鼻。歯痛、腹痛、目のかすみ、いぼ、トゲ、夜泣きに食欲不振。悪寒、脱臼、(あかぎれ)に……あとなんだっけ」


「犬の不眠が抜けてます」とカミラが指摘した。


 どうやらこれらは全て、今日一日でイングリドが薬を処方した患者の病状のようだ。

 商売繁盛と喜んでいい類いのものではないかもしれないが、それにしても凄まじい。


 考えてみれば古都では日本のように病院や歯科医、整骨院があるわけではないから、身体の不調を感じれば、我慢するかイングリドのような薬師に頼るしかないのだ。

 それにしても犬の不眠は管轄外だという気がするが。


「そうそう、それだ。まったく……人のことを、万能の医者か薬師の神様か何かと勘違いしているんじゃないのかねぇ……こちとら万能薬(エレキシル)も賢者の石も持ってないていうのに」


 事実、イングリドの人気は大したものだった。

 はじめこそ他所からやって来た魔女のような薬師だなんだと陰口を叩かれていたが、確かな腕前が伝わると、処方の依頼が引きも切らないという話はしのぶもよく耳にしている。

 居酒屋のぶの常連の中にも、イングリドの世話になっている客は少なくないはずだ。


 以前、しのぶもイングリドの調合した手指用の軟膏を分けてもらったが、日本で市販されているものよりもよく効いたし、香りもよかった。

 カミラの話によると、どれだけ忙しくても、イングリドはよほど基本的なもの以外の薬の作り置きはしない。客の話を聞いてから一人一人に合わせて薬を練るのだという。


 薬は、簡単に毒にもなるものだ。

 傍から見ればまったく同じような症状に見えても、体質によっては処方を変えねばならないし、そもそもの原因が違うことも当然ある。


 だからこそ、イングリドは直接患者を診て、話を聞き、その上で薬を調合するのだ。

 評判になるのも当たり前だとしのぶは思っている。


「それだけイングリドさんが信頼されているっていうことですよ」


 註文だれたビールを出しながらしのぶが褒めると、イングリドは何も答えずにジョッキに口を付けた。

 見れば、少し頬が赤くなっている。ひょっとすると、照れているのだろうか。


「こんなに忙しいのなら森へ帰っちまおうとも思うんだけど……」


 そう口にした瞬間、イングリドの袖をカミラが強く握った。

 森へは帰りたくない。

 何も言わないが、目には強い感情が湛えられている。


 薬師の助手として立派に働いているが、カミラはまだ若い。エーファとほとんど変わらない年の頃のはずだ。せっかく友達もできた古都から離れたくないのだろう。

 イングリドはその目を見て、やれやれと肩を竦めた。


「古都の住民はカミラにこそ感謝すべきだね。魔女みたいな薬師が森へ隠遁するのを防いでいる影の功労者は間違いなくカミラだよ」


 それを聞いてカミラが漸くイングリドの袖を離す。カミラのことを心配そうに見つめていたエーファも、満足そうだ。


「ま、何にしても飲まないとやってられないよ。ああ、この一杯のために生きているのかもしれないねぇ」


 周囲の目など気にもせず、ぐびりぐびりと喉を鳴らすイングリドの豪快な飲みっぷりは、見ているこちらまで気持ちがいい。

 あっという間に一杯目を空にし、追加でもう一杯註文しながら壁の品書きに視線を巡らせる。


「そうさねぇ、こういう日は身体の温まるものがいいんだが……」

「何かご希望はありますか?」


 鰤を煮つけながら、信之が尋ねた。


「身体を温めるには生姜(インガー)がいいんだけどねぇ……」


 苦笑するイングリドの言葉を補うように、オムそばと格闘中のカミラが口を挟む。


「店ではずっと生姜湯を飲んでるから、師匠もちょっと飽きてきちゃって……」


 加熱した生姜が身体を温めることはしのぶもよく知っていた。

 古都の冬は、とても寒い。

 身体を温める生姜の存在は、確かに頼もしいに違いなかった。


 医者の不養生という言葉があるが、古都にも“薬師の風邪っ引き”という似たような言葉があるらしい。そうなると信用問題だし、何より風邪なんか引きたくない。

 だからこそ、イングリドとカミラは生姜を常食しているのだという。


 なるほど、と信之が頷いた。

 確かに生姜は身体が温まる医食同源のとてもよい食材だが、毎日そればかりだと飽きてしまうだろう。


「生姜は美味しいんだけどね。そればかりだとさすがにちょっと飽きもくるってもんさ」

「では、生姜の珍しい食べ方を試してみますか?」


 信之の提案に、イングリドの口角が妖しく上がった。


「ほう、珍しい食べ方とは大きく出たね。こちらも薬師の端くれなんだ。生姜みたいな食べ物とは切っては切れない間柄さ。……面白い。その挑戦、受けて立とうじゃないか」

「承りました」



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