〆のたらこ茶漬け
「ハンスも、やっぱり来られないんだって」
残念そうに口を尖らせるしのぶをカウンターに座らせながら、信之は網を熱する。
炙っているのは、たらこだ。
これまで仕入れた中で、一番かそれに匹敵する、上物だった。
今日は居酒屋のぶの休業日。
エーファは農作業の手伝い、リオンティーヌは趣味と実益を兼ねて〈四翼の獅子〉亭で敵情視察という名の酒盛りに出かけている。
「ね、私たちでこんな美味しそうなたらこ、食べちゃっていいのかな」
うきうきとした表情を隠しきれないしのぶに苦笑いしながら信之は答えない。
料理人が最後に信じられるものは、自分の舌だけだ。だから、いいものをちゃんと味わっておく必要がある。
師である塔原の教えだ。
料亭ゆきつな時代、つまみ食いはもっての外だったが、新しい食材や料理は仲居に至るまで必ず全員に試食をさせていた。
自分が美味しいと思えないものを、お客に出すことは失礼にあたる。
塔原はそう言って、無駄な技巧に走ることや、必要のない高級食材を意味もなく加えることには断固として反対してきた。
その背中を見て育った信之だ。
最高級のたらこが仕入れられれば、まず自分たちで食べなければならないというのは、ごくごく自然な判断だった。
「理由はなんだって?」
店休日に店を顔を出せない理由なんて、何でもいい。
信之はそういう考え方だが、もし体調が悪いというのなら、何か見舞いでも持って行ってやりたりたかった。
「なんかね、女性用の眼鏡が大変なんだって」
ああ、と信之は納得する。
居酒屋のぶの常連客、ロンバウト・ビッセリンクの女性用眼鏡は大成功を収めつつあるそうだ。
貴族の娘を、賢く見せる。
社交界でそういうブームができているらしいと教えてくれたのは、情報通のニコラウスだ。
いつの間にか水運ギルドの秘書のような立場に収まった彼は、水を得た魚のように活き活きとエレオノーラの手伝いをしている。
そういうわけで、今日のハンスは父と兄の手伝いをしているらしい。
手伝いと言っても硝子職人ではないから、検品や出荷の補助だそうだ。
叮嚀に箱詰めし、紐で結んで、封蝋を施す。
細やかな気配りは、上流階級相手の仕事には不可欠だろう。
「さ、いい具合だ」
焼き色のついたたらこを、皿に取る。
お客に出すなら切り分けるところだが、こういうものは行儀悪く食べる方が美味いものだ。
おー、と言いながら、しのぶが淡い色のたらこに箸を伸ばす。
「あふっ」
はふはふと口の中で冷ましながらたらこを食べるしのぶの姿は、とても幸せそうだ。
自分の分も、一口齧る。
魚卵の濃い旨みが口の中一杯に広がり、笑みがこぼれた。
ああ、ハンスにも食べさせてやりたいな。
そんなことを考えていると、キッチンタイマーが米の炊き上がりを知らせてきた。
今日は趣向を凝らし、土鍋炊きだ。
「あれ、ご飯炊いてたんだ」
「そりゃあもちろん。たらこを焼いたら、ご飯がいるでしょう」
さっすが大将としのぶが破顔する。
美味いたらこと、美味い白飯。
お茶を掛けまわせば、たらこ茶漬けだ。
こんなに簡単な料理がどうしてこんなに美味しいのか。
たらこの身を崩しながら、さらさらと口へ流し込む。
おこげがちょうどいい具合に食感を変えてくれるのも嬉しい。
「美味しいねぇ」
「うん、美味しい」
「ね、大将。こないだのすだちと明太子で、〆にパスタを出すのはどうかな」
「いいね。それも美味しそうだ」
古都にももうすぐ冬が訪れる。
秋には秋の、冬には冬の、美味しいもの。
どんな食材をどんな風に料理して、お客を喜ばせようか。
二人の相談は、日の暮れるまで続いた。