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ハンスとすだち

「そろそろ、すだちかな……」


 ハンスの呟きに、しのぶは思わず振り返ることができなかった。

 忙しかった大市も過ぎ、居酒屋のぶはいつもの平穏を取り戻しつつある。

 昼営業と夜営業の間の、仕込みの時間。


 少し空気の緩んだ矢先の一言だ。

 しのぶの視線の先、エーファもリオンティーヌも凍り付いている。


 ハンスが、巣立つ。


 もしそうなったら、居酒屋のぶはどうなるのだろう。

 ようやく軌道に乗ってきた昼営業は、ハンスなしでは考えられない。昼の仕込みと夜の仕込みはハンスの助力なしでは回らないほどになっている。

 今ここで厨房が信之だけになれば、迎えることのできるお客の数は、これまでよりも随分と減らさざるを得ない。


 いやいや、としのぶは頭を振った。

 ハンスのことを、第一に考えなければ。

 しのぶの祖父は常々言っていた。来る者は拒まず。去る者は追わず。


 料亭を差配していると料理人を厨房の一員として捉えてしまいがちだが、一人の料理人はあくまでも一人の料理人だ。一人ひとりにそれぞれの人生があり、生き方がある。

 居酒屋のぶがハンスにしてあげられることと、ハンスが居酒屋のぶにしてくれること。

 長いハンスの人生のこれからを考えた時、何が最善なのかはハンス自身の決めることだ。


 暖簾分けについては、常に考えている。

 ハンスの成長は、思ったよりも圧倒的に速かった。

 失敗はしても、同じことは二度と繰り返さない。

 毎日の賄いにも次々と新しい料理で挑んでくるので、しのぶも信之も舌を巻いている。


 真面目で努力家、研究熱心なハンスの腕前はめきめきと上がっているし、いずれは信之としのぶの元から巣立っていくのは間違いない。

 大市の少し前、常連のリューさんから妙な依頼があった。


「ハンスを、二晩貸して欲しい」


 訳も分からずに信之と問い質すと、リューさんは〈四翼の獅子〉亭の副料理長なのだという。

 帝国から多くの商人や貴族の集まる晩餐会という大きな宴席を取り仕切るに当たり、ハンスの力をどうしても借りたいのだ、と。


 信之は、二つ返事で承知した。

 ハンスはもっと広い世界を見るべきだというのがその理由だ。

 事実、晩餐会の手伝いに行ったことで、ハンスは大きく成長した。


 使われる側の料理人としての立場からの視点だけでなく、使う側の料理人としての視点も、身に着ける必要を感じたようだ。

 これだけは居酒屋のぶの規模ではどうやってもハンスに教えることができないと思っていただけに、よい刺激になっただろう。


 リュービクという料理人は、天才だとしのぶは聞いた。

 努力と研鑽でここまでやってきた信之とは、対極に位置する。

 天才の料理と、努力家の料理。

 二人の料理人の仕事を間近で見ることのできたハンスは、幸せ者なのだと思う。


 日本と古都という二つの料理を学ぶ上でも、今ここで居酒屋のぶから巣立つことは、間違いではないのかもしれない。

 信之は、どう考えているのだろうか。


 いずれは暖簾分けを、という話には乗り気だったが、それがいつという話を信之としのぶはしたことがなかった気がする。

 醤油や味噌、酒というのぶでしか手に入らない食材の問題もあった。

 だが、ハンスはその熱意で醤油の問題を解決したのだ。

 それに、味噌や日本酒、みりんがなくても、ハンスは手に入る食材だけでお客の舌と心を喜ばせる料理を作ることができるだろう。


 信之はきっと、気持ちよく送り出すことを選ぶに違いない。

 料亭ゆきつなの時も、信之は後輩たちの味方だった。

 独立したい、別の店で修業したいという声にはしっかりと耳を傾け、本人の知らないところで塔原や社長に頭を下げていたことも、しのぶは知っている。


 箒を握る手に、知らず力が籠った。

 ハンスはニコラウスと並んで、居酒屋のぶの古い常連だ。

 お客から、従業員に。

 付き合いの長さ、深さを考えると、古都の住人の中でも一、二を争う。


「すだちかぁ」


 言葉にしてしまってから、慌てて口元を抑えた。

 幸い、誰にも聞かれていなかったようだ。

 まだ決まったことではない。だが、覚悟はしておかねばならない。


 ハンスがいなくなったあと、昼営業はどうするべきだろうか。

 せっかく定着してきたし、新しい常連も来てくれるようになったが、そのままの形で続けることは難しいだろう。

 信之の負担も大きいし、質の低下したものをお客にお出しするのは、料亭の娘としてのしのぶの美学に反する。求められて賄いを出すのとこれとでは、問題の質が違うのだ。

 夜営業も少し考えなければならないかもしれない。


 検討すべき課題は無限にある。

 しのぶが頭を悩ませている間に、暖簾を掲げる時間になった。


 意識を営業用に切り替える。

 自分にどんな悩みがあったとしても、お客には関係のないことだ。

 常に最善の接客を。

 しのぶがハンスに見せることができるのは、その接客態度だけなのだから。


「いらっしゃいませ!」

「……らっしゃい」


 今日はじめてのお客は、まだ初々しいカップルだった。

 シモンと、パトリツィア。

〈四翼の獅子〉亭の従業員である二人は、先日念願叶って付き合うことになった。

 晩餐会の後、シモンが勇気を振り絞ったのだそうだ。


 どうしてしのぶがそんなことを知っているかと言えば、べろべろに酔う度にシモンがそのことをパトリツィアに感謝するからに他ならない。


「今日は何を食べさせてくれるんですか」


 すっかり居酒屋のぶの味に慣れ親しんだパトリツィアは、信之にとってもハンスにとっても腕の振るい甲斐のあるお客だ。

 椀物の吸い口や、些細な工夫も残らず言い当てる。


「今日はいい太刀魚が入ってるよ」


 信之の目利きで仕入れてきた太刀魚はとても綺麗で、焼いても揚げても美味しそうだ。

 太刀魚をまな板にのせた信之が、ハンスに尋ねる。


「ハンスならこの太刀魚、どうする?」

「炙り、はどうでしょう?」


 間を置かず、ハンスが答えた。

 返事の仕方がいい。

 尋ねられる前から食べ方を頭の中で挙げ、何が一番よい選択肢かを考え抜いた返事だ。


 ハンスもいよいよこういう返事ができるようになったのだ、としのぶは胸がいっぱいになった。

 料亭ゆきつなで多くの料理人見習いを見てきたが、何年経ってもこういう返事のできない者は少なくない。


 炙り、というのもいい。

 しのぶも好きな食べ方だった。何と言っても塩焼きの美味しい太刀魚だが、炙って食べるのもまた格別だ。

 醤油と柑橘で頂くと、実に美味しい。


「いいショーユと、スダチもありますし」


 あ、としのぶの顔が赤くなる。

 すだち、酢橘、巣立ち。

 ハンスの「スダチ」は「巣立ち」ではなく「酢橘」だった、というわけだ。


 そう言えば、そろそろすだちの美味しい季節だった。

 料理の名脇役、すだち。

 仮にも料亭の娘がその存在をうっかり忘れていたのだから、ひどい失態だ。


 それにしてもとんでもない勘違いもあったものだ。誰にも相談しなくてよかった、としのぶは胸を撫でおろす。

 赤くなった顔を盆で隠し、しのぶは小さく咳払いをする。

 自分の恥ずかしい勘違いを、一刻も早く忘れ去ってしまいたい。


 ああ、それにしても。

 太刀魚の炙りに、すだち。

 絶対に間違いのない、美味しい組み合わせだ。


 火に網がかけられ、三枚に下ろした太刀魚が炙られる。

 じゅっという音と共に、脂の乗った太刀魚の匂いに、胃の腑が締め付けられた。

 信之の焼き加減を盗もうと、ハンスがじっと見つめている。


 これ以上ないという絶妙のタイミングで火からおろされた太刀魚に、信之の包丁が吸い込まれていった。

 綺麗だな、と思う。

 ハンスが独り立ちするまでに、この技を身につけて欲しい。

 そして、胸を張って信之の弟子だと名乗って欲しいと思う。


 技の継承というのは、そういうものではないだろうか。

 身につけた技で何を切り、何を料理するかは、ハンスに委ねられる。

 料理人も、硝子職人も、鍛冶屋も、商人も。

 みんな、誰かから何かを継承し、誰かに何かを継承しながら働いている。


 そう考えると、ハンスを育てることこそが、信之を古都の舌の記憶の一部に留めることにつながるのかもしれない。

 そんなことをぼんやりと考えながら、パトリツィアに頼まれたレーシュを注ぐ。

 盛り付けられた太刀魚の炙りを、リオンティーヌが二人の前に並べた。


「それでは……」


 パトリツィアとシモンはすだちを絞り、ほんの少しだけ醤油を付ける。

 炙り色のついた太刀魚を二人はゆっくりと口へ運んだ。


「んふぅ」


 幸せそうな、吐息。

 蕩けるパトリツィアの表情を見れば、それだけで感想など要らない。

 もう一口。

 さらにもう一口。

 そこに、レーシュをキュッと流し込む。


 空気が幸福に包まれた。

 この表情を見るために、居酒屋をやっているのだ。

 ふと見てみると、手を動かす信之もハンスも、口元が綻んでいる。


 信之の一挙手一投足に合わせ、ハンスが阿吽の呼吸で仕込みを手伝う姿は、見ていて気持ちのよいものだ。

 暖簾分けの話は、しばらくしないでおこう。

 ハンスにとってその時が訪れれば、熟れた実の落ちるように、自然とそうなるはずだから。


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