大市(後篇)
なんということだろう。
リオンティーヌの運んできたレーシュを啜りながら楽し気に目を細めるビッセリンク商会総帥の言葉に、マルコは打ちのめされた。
周りの音が急に遠くなる。
世界が色を失い、身体が鉛のように重くなった。
店は、売ることができない。ウィレム・ビッセリンクの言っていることは、そういうことだ。
金の卵を持っているのに、売ることができない。
こんな屈辱は商人になってはじめてのことだ。どんな商品も、人から人の手に渡ってこそ価値が出る。自分の手の内にあるだけでは、この権利書は単なる羊皮紙と何の変りもない。
今朝まで有頂天だった自分を、マルコは愧じる。
商いの幸と不幸は畑の畝を横切るようなもの、とはよく言ったものだ。
上りがあれば、必ず下りがある。
沈痛な面持ちのマルコの肩を、老商人がポンと叩いた。
「別に命を取られたわけでもあるまい。こういう時は、美味いものでも食って元気を出すといいのではないかな」
そう言うと、ウィレム・ビッセリンクはシノブに註文する。
「こちらの前途洋々たる商人氏に、例の料理を」
はい、とシノブが応じ、厨房へ何事かを伝えた。
確かに今は、何かを腹に詰めなければやっていられない気分だ。
「ストロガノフ流の煮込み、お待たせしました!」
食慾をそそられる香り。
シノブの運んできたのは、牛肉を煮込んだ料理だった。
「〈獅子の四十七皿〉に新しく加えられる四十八皿目だそうだよ」
その噂は、マルコも聞いている。
悲劇の天才料理人が立ち直り、亡き母の味を思い返して作ったという四十八皿目。
この料理の凄いところは、〈四翼の獅子〉亭がそのレシピを無料で公開したことだ。たった一つの隠し味を除いて、全ての作り方をどこの誰でも見ることができる。
多くの料理人が〈四翼の獅子〉亭の新料理長、リュービクに賛辞を贈ったのも頷ける。
母の旧姓から、ストロガノフ流と名付けられた料理を、マルコは頬張る。
牛肉の旨み、玉葱の甘み、そしてサワークリームの、酸味。
一口食べて、浅ましいな、と思った。
人生最大の博打に負けて、打ちひしがれていたのではなかったか。
それだというのに、匙が止まらない。
二口、三口。
自然とこぼれる涙を拭いながら、マルコは匙と口とを動かし続ける。
美味い、美味い、美味い。
喉の奥から叫び出したいような気分の時でも、美味いものは美味いのだ。
瞬く間に皿を空にしたマルコにラガーの入ったジョッキを勧めながら、ウィレム翁はにこやかに微笑みかける。
「いい食べっぷりだ。よい商人は、どんな時でも飯を食えねばならん」
手渡されたジョッキの中身を、一気に干す。
腹の中にどすんと入った、肉と酒。
そうだ。動かなければ、という気分が沸き上がってくるような気がした。
「よし、若者よ。よい面構えになったな。……ところで、起死回生の策は思いついたかね?」
悪戯っぽくウィレム・ビッセリンクが微笑む。
「……え?」
「金の卵を売ることができないなら、孵して雌鶏にすればいい」
ウィレム・ビッセリンクに言われた通り、マルコは金の卵を孵してみることにした。
その結果が、目の前にある大量の封筒だ。
住居兼店舗兼倉庫の一室で、マルコは机の上に積みあがった封筒の山を一通一通開封している。
封蝋のぱきりと砕ける感触が指先に心地良い。
以前よりも封筒の数は多く、問い合わせてくる商店の格も高かった。
一通一通に叮嚀な返事をしたためながら、マルコは呟く。
「金の卵が孵って、金の卵を産む雌鶏になった、か」
運河沿いの店舗を、マルコは「売る」のではなく、「貸す」ことにした。
売ってしまえば利益は一度きりだが、貸すことにすればずっと収益を望むことができる。
まさに、金の卵を産む雌鶏だ。
保有一年未満での物件売却を禁じた勅令も、物件の賃貸までは禁じていない。
店舗の貸し借り自体は当たり前のことだし、古都でも日常的に行われている。大金を手に入れる好機に曇って、常識を見失っていたのだ。
古都の成長に賭けてみようと思っている商会や貴族は多いが、物件を購入するところまで踏ん切りの付かない人々にとって、マルコの提案は大いに受けた。
連絡用の事務所としては適当な大きさの物件だし、運河に近いというのも好条件だ。
古都の法令は、マルコに好都合に働いている。
複雑な契約書を交わしてマルコから店舗や土地の権利を掠め取ろうという悪辣な手紙は、ほとんど来なくなった。短期的な転売が難しい土地柄だということをマルコは懇切叮嚀に伝えている。
賃貸の問い合わせは続々来ているが、目星をつけている商会が三つある。破格な条件というほどではないが、マルコのことを契約相手として尊重してくれる文面だった。
既に面談も済ませ、感触も悪くない。これ以降、よほどいい条件を持ち掛けてくる相手がいなければ、そのいずれかと商談がまとまりそうである。
“商いの幸と不幸は畑の畝を横切るようなもの。下りがあれば、次は上る”
この俚諺には、実は続きがあることをマルコは知っていた。
“本当に賢い商人は、畝を横切らずに種を撒いて耕すんだがね”
ウィレム・ビッセリンクは、種を撒いて耕す商人だったのだろう。
自分も、そうありたい。
手をインクの匂いに染めつつ、マルコは商人としての決意を新たにした。
部屋の窓からは浚渫作業の進む運河が見える。
古都の秋空は、今日も高い。