【閑話】火噴き山と〈神の舌〉(後篇)
「いや、でも私はそれほど舌の鋭い方じゃなくて……」
まごつくリュービクの背中を、ウィレムはばんばんと叩く。
そこを努力で何とか補うのがお前さんの腕の見せどころじゃないか。みんな知ってるよ、あんたがこの地方の料理を材料から作り方から全部羊皮紙にまとめてることをさ。
説得されて、リュービクは考え込むように俯いた。
料理蒐集者としてのリュービクは非凡なものを持っているが、料理人としての彼は平凡だ。
毎日のようにビッセ村唯一の酒場で彼の作る肴を口にしているエトヴィンの見立てだから、間違いはない。
だが、リュービクは、自分自身が平凡であってはならないという宿命に囚われているようだ。
降ってわいた、〈神の舌〉。
彼はそれを、自分の意志で受け容れた。
「分かりました。私は今日から、〈神の舌〉を名乗ります」
いつもおどおどしていたリュービクの顔に、何かが宿る。
名は体を表すというが、名前が変われば人が変わることもあるのだろうか。
やはりまだまだこの世には知るべきことが多い。そんなことを考えながら、エトヴィンは前髪をまた指先で弄ぶ。
「さて、これで残る問題は一つだけだな」
ふむ、とウィレムの方を見ると、彼は懐から革の水筒を取り出した。
中身はしっかり入っているようで、ちゃぷちゃぷと音がする。
そう言えば、喉が渇いた。
井戸水に雑味を感じた時以来、エトヴィンは一滴も水を飲んでいない。
「ビッセ村で最後に残ったワイン。エトヴィンへの支払いはこれでいいか?」
思わず、吹き出しそうになるのを、エトヴィンは堪えるのに必死になった。
火山の噴火を予知したとなれば、それは奇蹟だ。
少なくとも奇蹟に類する話を売った支払いが、革袋のワインだけ。
だが、そのワインが今は堪らなく欲しいというのもまた事実だった。
「いいよ、そのワインを貰おう」
革袋を受け取りながら、ウィレムの肩をエトヴィンは小突く。
安く買って、高く売る。
商人の基本中の基本をこれだけ徹底できる人間はこの世の中でもほとんどいないだろう。きっとウィレムは大した大商人になるに違いない。
ひょっとすると、一国を代表するような大商人になるかもしれなかった。
「まぁ、エトヴィン。オレが大商人にでもなったら、その時は美酒でも珍味でもなんでもご馳走してやるよ」
期待せずに待ってるよ、と手を振ると、リュービクも話に加わってくる。
「その時は是非、私の店を使ってくださいね」
それは良いとウィレムが笑い、盛大な晩餐会をオレの金で開いてやるよと請け負った。
村が焼け、無一文になったばかりだというのに、なんと気持ちのいい未来予想図だろうか。
「それで、これからどうするんだ?」
ウィレムに尋ねられ、エトヴィンは天を仰いだ。
「ここで焼け出されたビッセ村の人の手伝いをする。その後は、教導聖省にお伺いを立てることになるだろうな」
元々、ビッセ村での任期は終わりかけていた。
聖都に戻れば、次の任地は滞りなく指示されるだろう。ほとぼりも冷めているだろうから、少し変わったところへ赴くことになるかもしれない。
「私は、東の方へ行ってみようと思っています」
遠い目をしたリュービクは、北方三領邦とその先の大公国の名を挙げた。
大公国と言えば、エトヴィンの感覚では地の果ての更に先だ。
理由を尋ねれば、向こうの料理を知りたいのだという。
確かに、あちらの料理はあまり伝わってこない。
寒い地域で、どうやって宴席の料理を冷めないように出すのかにも興味があるそうだ。
東王国こそが料理の中心であるという今の状況を打破する手掛かりを、東に探しに行くというリュービクの熱意は、痛いほどに伝わってきた。
「オレは、帝国西部だな」
毛織物取引に、好機が来ている。ウィレムはそう読んでいるらしい。
商機を読んで、拠点を移す。
いつまでも失った物資のことでくよくよしない、ウィレムらしい判断だ。
確かに、エトヴィンから見ても帝国西部の毛織物は質もいいし、値段も手頃だ。まとめて商う販路を確保できれば、大きな商いができるだろう。
買ったばかりのワインを、エトヴィンは呷った。
大して美味くはないはずのワインが、どうしてこんなに甘露に感じるのだろう。
山の噴火は、もう収まりはじめている。
村は跡形もないが、この分なら放牧地はそのまま使えるかもしれない。
「ワインだけでは、寂しいのではありませんか?」
村人たちの当たる焚火で、リュービクがソーセージを炙る。
肉の焼けるいい匂いが、辺りに漂った。
一度食慾に火が付くと抗いがたいもので、村人たちもチーズやパンを荷物の中から取り出して焚火でちょっと温めたりしはじめる。
ここは節約を、と言いかけた同僚の助祭を、エトヴィンは止めた。
助祭の言いたいことも分かる。
村を立て直すにせよ、別の村へ移るにせよ、しばらくは飢えと窮乏に苦しまねばならない。
だが、切り詰めた生活を迎える前に、鋭気を養うことも大切だろう。
難事を乗り越えるために、まずは生きる活力が必要だ。どんなに辛く険しい時でも、腹に何かを詰めれば、その熱は生きる気力に変換される。
食べるということは幸せなことなのだ。
村人に交じってパンを齧るウィレムの笑いが、丘の上に響く。
またいつか、この気のいい商人と酒を酌み交わしたい。
そんなことを考えながら見上げる空には、もう双月が輝いていた。