晩餐会前夜(後篇)
居酒屋ノブ以外の店で厨房に立つのは、ハンスにとってはじめての経験だ。
古都最高の料理を出すと豪語するだけあって、〈四翼の獅子〉亭の厨房は何もかもが完璧に整えられている。
数えるのも莫迦莫迦しくなるほどの数がある炉に、無数の鍋。
一糸乱れぬ動きで働く料理人たちは蝋燭の刻み目に従って、的確になすべきことをなしていく。
まるで、衛兵隊の練兵のようだ。
包丁を持つ腕の角度まで統一されているかのような動きは、見ているだけで勉強になる。
タイショーの指導とはまったく考え方の異なる教育方法がここにはあるのだということが、説明されなくてもハンスには理解できた。
使っている道具も、一流だ。
トントントンと包丁の音が小気味よく響く。これはホルガーの鍛冶屋の仕事だろう。音だけでその鋭さ、使いやすさが伝わってくるのがよい道具だというのは、父の言葉だった。
「さて、どうしたものかな」
リューさんとして足繁くノブに通っていた常連客が、今ではリュービクとしてハンスの目の前に立っている。
リュービク、という名前は古都に暮らす者にとって、特別な意味を持つ名前だ。
憧れと、懐かしさと、誇りと。
全てが渾然となった響きが、リュービクという名前からは感じ取ることができる。
「リュービクさん、試してみたいものがあるんですが」
「ほう?」
背負って来たものを、ハンスは下ろした。
小ぶりな樽だ。
この晩に間に合ってよかった、と心の底から思う。
中に入っているのは、連合王国のナ・ガルマンから届いたばかりの、ショーユだった。
「ショーユ、か」
とろりとした黒い液体を手塩皿に取り、小指の先に付けてリュービクが舐める。
魚醤に似ているが、臭みはない。使える料理の幅は、もっと広いはずだ。
横に控えたパトリツィアという女中も、同じく味を確かめている。
「面白いな」
口の中で空気を含ませて味わいながら、リュービクはしばし瞑目した。
新しい料理を組み立てているのだろう。
ハンスも同じことをするが、今回のリュービクのやろうとしていることは、もっと大きなことに違いない。
何せ、〈獅子の四十七皿〉にもう一皿を加えようというのだ。
玉葱の皮を剥き、刻み、たっぷりのバターで炒める。
タイショーに教えられた通り、飴色になるまで。
甘い香りが漂う中、サワークリームを作りながらリュービクが昔語りをはじめた。
「オレの母親は、大公国の出身でね」
大公国と言えば、北方三領邦よりさらに北東に位置する。
遍歴硝子職人として遥か東方へと旅をしたハンスの父ローレンツでさえ足を踏み入れたことのない、文明の果てのような土地だ。
聞くところによれば、随分と寒さの厳しいところだという。
昔々は古都との交易路があったというが、北方三領邦との関係がきな臭くなった頃からいつの間にか交流は途絶えがちになり、今では行き交う商人の姿もほとんどなかったはずだ。
衛兵として勤務しているときに、何度か門で大公国出身の商人とやり取りをしたことがあるが、その数はひどく少なかったという記憶がある。
そう言えば、とハンスは思い出した。
何度か常連に訂正されても、リュービクは居酒屋ノブをノヴと発音する。あれは確か大公国の訛りではなかったか。
「父は家で料理をすることはなかったから、自宅では専ら母の手料理を食べていたんだ。人から習い覚えた古都の料理も多かったけど、今にして思えば大公国の料理も多かったんだなぁ」
玉葱と牛肉を一緒に炒め、味を調える。
決め手となるのは、仔牛とディーグの骨から丹念にとった出汁だ。
野菜や香草、香辛料を四十八種類煮込んで叮嚀に灰汁を取り続けたこの出汁こそ、リュービクの言う四十八皿目なのだという。
どんな料理に使うかは、そのおまけでしかない。
いい味だ。
リュービクは手塩皿で味見をするとき、必ずパトリツィアにも味を見てもらう。
まるで儀式のようだ。
かつてはこの位置に父である大リュービクがいたのだろう。
ハンスにだけでなく、厨房全体にリュービクは指示を飛ばす。
今晩の下拵えが明日の晩餐会の成否を分けるのだから、その指示は懇切丁寧で、全てにおいて無駄がない。
居酒屋ノブとは違った意味で、緊張感のある厨房だ。
「どうだ、ハンス。〈四翼の獅子〉亭の厨房もいいだろう」
「はい、勉強させてもらっています」
一晩で百日分ほども学ばしてもらっているとハンスは感じている。
世辞ではなく、ここは古都の味覚の中心なのだ。
「ハンス、お前さんが新しい店を構えたいというなら、〈四翼の獅子〉亭は全力で応援するぞ」
仕上げに使う胡桃の殻を割ろうとしながら、リュービクが笑う。
「ありがとうございます。でもまだ、勉強中の身なので」
即答してから、ハンスは自分でも驚いた。
独立するということは常に考えていたはずだが、ここまであっさりとその機会を不意にした自分の返答に、だ。
今晩、多くのことを学んでいる。
学んでいるからこそ、自分はまだまだ未熟なのだと痛感してもいた。
もっと学びたい。
もっともっと学ぶことがある。
〈四翼の獅子〉亭の厨房で盗んだ技術を、一刻も早く居酒屋ノブで試してみたい。その気持ちを抑えるのにハンスは一所懸命だった。
少しずつ味付けを変え、同じ料理を何度も作る。
加えるショーユの量も、少しずつ変えていた。
「ん……?」
手塩皿で味を見るリュービクと、パトリツィアの意見が割れる。
「私はこちらの方が、深みのある味だと思います」
相手がリュービクでも、パトリツィアは物怖じせずにはっきりと感想を述べた。そこを買われてリュービクの隣にいるのだろう。
「いや、オレはこっちの方が、古都の味だと思う」
はじめて、リュービクが自分の意見を押し通した。
パトリツィアと、その手伝いをしているシモンという宿の従業員が、驚いたように目を瞠る。
料理人が自分の舌で自分の料理の味付けを決めることに、何を驚くことがあるのだろうか。
リュービクが力を掛けていた胡桃の殻が、割れた。
もう一度、リュービクが味を確かめ、小さく頷く。
手塩皿が回され、ハンスも、パトリツィアも、シモンも味を見た。
リュービクが静かに宣言する。
「四十八皿目が、できた」
厨房の片隅から、躊躇いがちな拍手に上がった。
ハンスもその拍手に和する。
さざ波のように広がった拍手は、しばらくの間、鳴りやむことはなかった。