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晩餐会前夜(前篇)

「いいんですか、本当に」


 深夜。

 夜啼き鳥さえ寝静まるしじまの中、リュービクはハンスと共に厨房の前に立っていた。

〈四翼の獅子〉亭の深奥である厨房。


 本来自分のいるべき場所へ、リュービクは帰還しようとしている。

 懐かしいと感じている自分に、リュービクは驚いた。

 思えば随分と永い間、ここから離れていたという気がする。

 実際には毎夜のように入り込んでいたのだが、それはリュービクの名を継ぐ者としてではなく、一人の料理人としてでしかなかった。


 微かな膝の震えは、秋の夜の寒さからではない。

 戦いを前にした、騎士の震えのようなものだ。


「いいんですか、本当に」


 厨房へ入る前にもう一度尋ねるハンスに、リュービクは背中越しに左手を振った。

 構わない、という合図だ。

 気付かぬ内に、右の口角が微かに上がっている。

 笑っているのだ。こんなに楽しい気持ちは、久しぶりだった。

 他所の店の料理人を聖域である自分の厨房へ招く。そのことの重大さを、この年若い見習い料理人が理解していることが、嬉しい。


 子供の頃、秘密の隠れ家を作ったことがある。

 もちろん、大人たちに内緒だ。

 城壁の外へこっそりと忍び出し、農家の子供たちと一緒に拵えた隠れ家。


 薪炭を置く小屋だったものを改造しただけの代物だったが、今にして思えばなかなかの出来だったという気がする。

 秘密は厳重に守られており、信頼できる仲間だけが招待の栄に浴することができた。

 誰かをそこへ招く時、堪らないくらいにわくわくしたことを、リュービクは今でもしっかりと憶えている。


 他の店の料理人を〈四翼の獅子〉亭の厨房へ招くのは、あの時に似た不思議な愉悦があった。

〈四翼の獅子〉亭の厨房は、言うまでもなくことで最大の規模を誇る。

 帝国の皇帝と東王国の王とを同時に招待できるような店が、この古都に他にあろうはずもない。


 大貴族の随員を含めて全ての宴客の腹をくちくさせてなお、ありあまる量の料理を作り出せるだけの圧倒的な調理能力を、この老舗の厨房は備えていた。

 初代リュービクの頃よりも拡張され、より機能的になった厨房は、今や帝国屈指の規模を誇っているという自負がリュービクにはある。


 貯蔵している食材や調味料の数も膨大だ。

 一般的な古都の家屋の備えている地下室は一層であることがほとんどだが、〈四翼の獅子〉亭では地下に三層の地下室と更にもう半層の貯蔵庫を備えている。

 塩漬け肉に燻製肉、チーズにバター、塩に砂糖。

 買い集めたものだけでなく、自家製のものも多い。


 ここが正に、古都の食の中心。

 そして、偉大なる〈四翼の獅子〉は、リュービクという心臓を得てはじめて咆哮し、大空へ羽ばたくことができるのだ。


 ハンスの顔を見遣る。

 棚に整然と並べられた香辛料の瓶や醤の小壺を見上げる彼の顔は、紛れもなく料理人のそれだ。

 満足げに頷き、リュービクは厨房に部下の料理人たちに支持を出す。

 部下たちの士気は、高い。

 ハンスという他所の店の料理人を伴って来たことへの反感があるかと思ったが、それよりもリュービクが厨房へ立つということの喜びの方が大きいようだ。




「〈晩餐会〉の仕切りは、お前がやりなさい」


 父から重大な仕事を言い渡されるに当たり、リュービクはたった一つだけ、条件を付けた。

 他の店から、助っ人を呼ぶ。

 絶対に反対されると覚悟していたのだが、父の反応は淡白だった。


 好きにしなさい。お前がリュービクなのだから。

 お気に入りの椅子に深く腰かけたままの父の姿は、いつもより小さく、しかし安堵しているように見えた。


 ノヴ・タイショーではなくハンスに大鴉の羽根矢を立てたのは、彼の柔軟さにリュービクが惚れ込んだからだ。

 元衛兵だったというハンスは、恐るべき速さで料理のコツを掴む才を持っている。

 作業が叮嚀で、言われたことに一つの誤りもないというのも、リュービクは気に入った。

 同じ厨房で作業をするのなら、ハンスだ。


 本当を言えばノヴ・タイショーと同じ厨房で技比べをしてみたいという欲求がまるでないと言えば、嘘になる。

 だが今回の晩餐会は〈四翼の獅子〉亭の、そして古都の名誉のかかった一席だ。

 競演よりも、協演を。

 ハンスを選んだ人選は、間違いではなかったと信じている。


「まずは宴席全体の流れを教えて頂けますか」


 ハンスの問いに、リュービクは手首で鼻をこすった。

 これだ。ただ言われたことをするではなく、はじめに全体像を把握しようとする。

 父の下で一糸乱れぬ厨房として整えられた〈四翼の獅子〉亭には、いなかった人材だ。


「今回の料理は〈獅子の四十七皿〉を出す」


 四十七の料理名を、リュービクは澱みなく数え上げる。

 古都らしい味、その極みがここにあった。

 他の街から来た豪商や商会主たちを満足させるには、これしかない。

 偉大なる初代リュービクは〈獅子の四十七皿〉を一夜一夜の主役として四十七晩の宴席を作り上げて見せた。


 代々のリュービクはそれぞれの皿に改良を加え、四十七皿を一つの宴に出しても煩すぎないように調整したのだ。

 一族の誇り、と言ってもいい。特にリュービクの父の功績は大きく、彼によって全てのレシピは分かりやすい形で書物にまとめられた。

 まさに〈神の舌〉の仕事だろう。


 塩を入れるのはいつでどのくらいの量か。

 鍋の火はどう見ればよいか。

 豚肉のどの部位をどのように切って炒めればよいか。


 これまでなら経験によって手に憶えさせていたものの全てを、父はほとんど病的と言ってもいい偏執さで書物へ残すことに拘った。

 レシピ帳を収めるために、専用の頑丈な箱まで設えさせたほどだ。

 あの一冊さえあれば、誰が作っても〈獅子の四十七皿〉は〈獅子の四十七皿〉になる。


「ボルガンガの旨肝煮、オックステールシチュー、プルトンのアイスヴァインは支度に時間がかかるから、これから先に取り掛かる」


 号令一下、料理人たちは動きはじめた。

 四十七皿もの料理を明日の晩餐会に提供するためには、適切な準備とその順番が鍵になる。


「さてハンス。これが〈四翼の獅子〉亭の秘密だ。じっくりご覧あれ」


 長さの違う蝋燭を幾本も立て、そこに火を灯す。

 真夜中だというのに、厨房はまるで貴族の夜会のように煌びやかな光に包まれた。

 獣脂ではなく閼伽蜂(あかばち)水蜜蝋(すいみつろう)を使った、最高級の無臭の蝋燭。一本でも見習い徒弟の一ヵ月分の稼ぎは軽く飛んでいく。


 惜しげもなく火を灯すのは、特別な宴席の前だけ。

 蝋燭に刻まれた目盛りを基に、各料理の調理の段階が分かるという寸法だ。


 長年の指導により、料理人たちはこの蝋燭の燃え具合を見ながら、調理を手順通りに進めることができる。経験と勘を頼りに時間を計るだけでなく、蝋燭という手助けがあることで、料理の手順はより精確になるのだ。

 統率法と準備の段取りこそ、初代リュービクが総料理長の称号を敵国の王から賜った真の理由だった。


「ハンスは、オレの手伝いを」


 そう言うリュービクの前には、蝋燭がない。

 父のレシピ帳にも、今から何をすべきかは記されていなかった。


「それでリューさん、じゃない、リュービクさん。私たちは、何を?」



「作るんだよ、四十八皿目を」


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