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翼の折れた獅子(参)

 討ち入りなどとは少々大袈裟なことを言ってしまった。

 月夜の古都を足早に歩きながら、小リュービクの口数は少ない。

 そもそもが、居酒屋ノヴとやらに大した関心はなかった。

 自室まで飯を運んでくる従業員がやたらめったらとその名前を口にするので憶えていたというだけに過ぎない。


 どうせ、ただの居酒屋だ。

 伝統と格式に裏打ちされた〈四翼の獅子〉亭を脅かす店であるはずがない。

 確かに、今の〈四翼の獅子〉亭は以前ほどに繁盛しているとは言い難かった。


 目先のことに囚われた従業員達は、やれ〈飛ぶ車輪〉亭の何とかいう揚げ物が美味いからだ、とか〈居酒屋ノヴ〉の〈やみつき馬鈴薯〉が古都っ子の心を鷲掴みにしているなどと騒ぎ立てるが、そんなものは全てまやかしだ。


 リュービクの名を持つ者が、厨房に立っていない。

 それが全ての原因であり、唯一無二の解決策なのだ。小リュービクたる自分さえ厨房に立てば、全ての問題は雲散霧消する。

 新しく古都に店を構えた居酒屋風情、恐れることは何もない。


 パトリツィアという娘に誘われるままに、小リュービクは古都の夜を歩く。

 アイテーリアは旧い街だ。

 歴史を幾層にも重ねた街並みは昼と夜では違う顔を見せる。

 月明りに照らされた道を進んでいくと、小リュービクの鼻腔を微かに甘い香りがくすぐった。

 何の香りだろうか。


「さ、着きましたよ」


 振り返り微笑むパトリツィアが一軒の店を指し示す。

 古都ではあまり見ない様式の店構え。

 木と漆喰で建てられた店には、大きな一枚板の看板が掲げられている。店名は異国の文字で書かれているから小リュービクには読むことができないが、これでノヴと読むのだろう。


 硝子の引き戸の奥から、柔らかな匂いが漂っていた。

 甘い、あの香り。間違いない。

 砂糖だ。

 芋を煮るのに、砂糖を使っているらしい。他にも幾つかの調味料を巧みに組み合わせてあることを小リュービクの嗅覚は嗅ぎ取ることができた。


 父である〈神の舌〉大リュービクほどでないにせよ、小リュービクも一級の料理人として味覚嗅覚には自信がある。

 芋を煮ているのは、なかなかの腕前の料理人なのだろう。


 なるほど、そういうことか。

 店に入る前に、小リュービクは全てを察した。

 考えを改める必要がある。この居酒屋はただものではない。


 腕の良い料理人に、砂糖や恐らくは胡椒などといった古都では少し値の張る調味料や食材を扱わせる。

 古都っ子は新しい物が好きだから、たちまち人気となるだろう。

 そうやって、店と仕入れの名を古都へ浸透させる策だと小リュービクは当たりを付けた。

 きっと名のある商会が手引きをしているはずだ。


「いらっしゃいませ!」

「……らっしゃい」


 引き戸を開けると、涼風と共に豊かな芋の香りが街路へ漂い出る。

 まだやっていますか、というパトリツィアの問いに、女給仕は愛想よく答え、カウンターの席へと二人を案内した。


 好都合だ。

 小リュービクにとって、料理人の手仕事を窺うことのできる席は敵情視察のために絶好の場所だといえる。

 夜も更けているというのに、店の中にはまだそこそこの数の客の姿があった。


 清潔感のある店内は、思ったよりもこぢんまりとしている。

 古都で最も由緒ある〈四翼の獅子〉亭と較べるのは些か不憫ではあるが、小リュービクの目には本当にただの街の居酒屋としか見えない。


 店主らしき男が鍋で煮ているのは、やはり芋だ。

 丸く小ぶりな芋はこの辺りでは見かけない種のものらしい。「里芋ですよ」

 さっそく質問したパトリツィアに、シノブと名乗った女給仕が鍋の中身を答えた。


 ひくり。

 堪えようとしても、小リュービクの鼻が動く。

 皮を剥いた芋をただ煮転がしているだけだというのに、どうしてこうも香りが芳しいのだろう。

 しかしそれも全て、材料が良いからに他ならない。


 生まれてこの方、小リュービクは料理という分野で誰かの風下に立ったことがなかった。

 父が長い料理修行の果てに苦心して習得した〈獅子の四十七皿〉でさえ、小リュービクにとってはそれほど難しい課題ではなかったのだ。


 天才、という言葉で周囲は讃えたし、小リュービク自身もそのことに何の疑問も抱かなかった。

 何度かこの店を利用したというパトリツィアに倣い、トリアエズナマという名のエールを註文する。透明なジョッキに黄金色のエールが運ばれてくるが、然して驚きもしない。


 この店がどこかの商会の差し金だという確信が深まるだけだ。

 美しく透き通った硝子のジョッキを普段使いするなどという贅沢、〈四翼の獅子〉亭のような名の通った宿でもなかなかできないのだから、ましてこの規模の居酒屋においてをや、である。


「……ほう」


 ジョッキを握る小リュービクは、自分でも知らぬ内に賛嘆の声を漏らしていた。

 冷たい。

 器を冷やす、という工夫を今の今まで思いつかなかったことを、小リュービクは恥じた。

 恐らくは井戸水か流水にでも浸けてあったのだろう。

 氷室を設えているということもないではないが、たかだか居酒屋のためにそこまでするということがあるだろうか。


 いずれにしても、この工夫は面白い。

 晩夏とはいえ、まだ暑気の残る夜にこの心遣いは何とも嬉しいではないか。

 一口だけ、と口を付けてみて、また驚いた。


 微かに苦みのあるエールは、驚くほどキレのある味わいだ。

 ぐびり、ぐびり、ぐびり。

 ジョッキから口を離すことができない。

 身体の芯に溜まった澱を溶かすような喉越しに、小リュービクは思わずジョッキの半分ほどを飲み干してしまう。


 横を見ると、パトリツィアが何とも嬉しそうな表情でこちらを見つめていた。


「美味しいでしょう?」

「……うん、なかなか美味いな、このトリアエズナマという奴は」


 本当はナマと言うのだ、とシノブに教えて貰いながら、二杯目を頼む。

 すると頼んでもいないのに例の芋が皿に盛られて目の前に置かれた。


「これは?」

「お通し、といいます。御註文頂いた料理をお出しする前の間、お客様をお待たせするわけにはいきませんので」


 女給仕の説明は、至極もっともだ。

 料理の支度が整う間に歓談を楽しむ貴族や商人相手の商売をしている〈四翼の獅子〉亭では決して思い浮かばない発想だった。

 この店に来るのは日々の生業に疲れ果てた男たちであり、一瞬でも早く酒と肴にありつきたいという者なのだから、この店の判断は全面的に正しい。


 しかし、もうこの芋が出てくるとは思わなかった。

 砂糖を使った料理なのだから、今日の主菜だろうと小リュービクは見ていたのだ。

 まさか前座に出てくるとは思いも寄らなかったが、それはそれ。

 店主のお手並み拝見、と木のフォークで無造作に突き刺すと、一口に頬張る。



 その時、小リュービクは何かの崩れる音を、確かに聞いた。


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