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翼の折れた獅子(壱)

 秋の食い気は限り知らず。

 パトリツィアの田舎で冗談のように使われる言葉だが、全くの真実でしかない。

〈四翼の獅子〉亭で働く下働きたちには夕食がたっぷり振る舞われているのだが、それでも夜半になるとお腹の中で耳無梟(みみなしふくろう)がくぅくぅと鳴き始める。


「で、今晩は誰が取りに行く?」


 下働きとは言ってもほとんどが年端もいかぬ少年少女。空きっ腹を抱えて眠りに就くのは我慢が出来ない。パトリツィアと同じ部屋で寝起きする女中の間では、夜中にこっそりと夜食を頂戴しに行くのが、もはや慣例となっていた。


 もちろん一流の宿である〈四翼の獅子〉亭がこれに気付いていないはずなどなく、半ば以上黙認されている恰好だ。不満を抱えて妙な接客をされるくらいなら、少しくらいの役得は大目に見るという度量も、老舗の宿屋の亭主には備わっていなければならない。

 そういう次第で厳正な籤引きの結果、今晩はパトリツィアが屋根裏から厨房まで降りていくこととなったのである。


 皆が寝静まった真夜中。

 寝ぼけ眼のパトリツィアが客の通らない方の階段を抜き足差し足で下っていくと、目当ての厨房にぼんやりと明かりが灯っている。


 先客だろうか。

 男部屋の方も似たようなことをしていることは、パトリツィアも知っていた。女部屋より少々大胆に、底の方に少しだけ中身の残った酒瓶を持って上がることさえあるという。

 ひょっとすると、先輩のシモンがいるかもしれない。


 急に頭に血が回り始めたパトリツィアは、物音を立てないようにこっそりと厨房を覗き込んだ。

 違う。

 蝋燭の明かりに浮かび上がる人影は、シモンのものよりずっと大柄だ。

 神経質そうな後ろ姿には、見覚えがあった。


 小リュービク。


 そういう風に呼ばれている〈四翼の獅子〉亭の副料理長は、今は病気か何かでずっと自室療養しているとパトリツィアは聞いていた。

 見つかると、まずいだろうか。

 料理長である大リュービク翁が目と足を患ってから、厨房の主はこの小リュービクのはずだ。

 今は療養中とはいえ、主人のいる部屋からものをくすねていくのはさしものパトリツィアといえ些か憚られる。


 それでもなんだか立ち去りがたいものを感じて、パトリツィアは息を潜めた。

 小リュービクが包丁を使う小刻みな音だけが、秋の夜を満たしている。

 背中越しに見ているだけではっきりと分かるほど、小リュービクの手際は良い。一つの料理だけに専念するのではなく、いくつもの手順を段取りよくこなしている。


 いったい、小リュービクのどこが悪いのだろう。

 これほど動けるのなら、厨房に立ってくれれば良いのに。いや、監督してくれるだけでもいいかもしれない。


 今の〈四翼の獅子〉亭には、大きな問題があった。

 料理だ。

 かつて〈神の舌〉とまで讃えられた大リュービク翁が引退し、跡を継いだ小リュービクも自室で療養となると、残った料理人だけでは心許ない。

 そういう話は、単なる新入りの下働きに過ぎないパトリツィアの耳にも聞こえてくる。


 実際、なんとかという商会の御曹司が古都に訪れた際には、〈四翼の獅子〉亭を定宿に指定したというのに料理は余所から取り寄せる羽目になったのだという。

 これは大変な失態で、老舗の名誉を甚く傷つけることになった、と年嵩の女中たちからもっともらしい顔での講釈を下働きにも何度となく聞かされている。


「そんなところに突っ立ってないで、入ってきたらどうだ」


 思わず声を掛けられ、パトリツィアはびくりと震えた。

 当たり前のことだが、気付かれていたのだ。どうして良いか分からずにそのまま立っていると、小リュービクが生ハムの切れ端をひょいとつまみながら振り返った。

 持ち上げて下の端から食べるという行儀の悪い食べ方だが、妙に美味そうに見える。


 本当に病人なのだろうか。

 くすんだ金髪に、厳しい表情が張り付いたような顔。

 しかし蝋燭の明かりに照らされた顔色は、それほど悪く見えない。


「上でお仲間が待っているんだろう? 何か適当に持って上がれ」


 そう言って小リュービクが指し示した調理場の机の上には、様々な料理が並んでいる。

 ただの料理ではない。

〈四翼の獅子〉亭で晩餐を飾るに相応しい料理ばかりだ。


 牛肉、豚肉、鶏肉に、鹿肉やディーグの肉もある。

 魚に卵、野菜に果物。

 ふんだんな素材を使って、調理の仕方も千差万別。

 焼く、煮る、揚げる、蒸す、炒める。

 本来なら〈四翼の獅子〉亭の厨房を全力で動かしてやっと作り上げることのできるような料理が湯気を上げているのだ。


 これを全て一人で作ったというのだろうか。

 だとすれば、小リュービクという人物は世評の通りの天才というよりほかない。

 驚きもあるが、パトリツィアは並べられた皿から目が離せない。

 料理の手際の良さもさることながら、小リュービクの作り上げた料理はどれもこれも美味しそうなのだ。


 食欲をそそる香りがパトリツィアの鼻腔をくすぐり、胃の腑の活動を活発にする。

 夕食のスープ(ズッペ)は美味しかったが、少し量が足りなかった。

 このままでは明日の仕事にも障るだろう。

 本当にこの料理が食べられるなら、これほど幸せなことはない。


「……えっと、あの、私は下働きのパトリツィアと言います。本当にこれ、持って上がって良いんですか?」


 パトリツィアが名を名乗ってから尋ねると、小リュービクは小さく鼻を鳴らした。

 表情は相変わらず厳しいままで、何を考えているのか窺い知ることは出来ない。

 何かまずいことを言っただろうかと、不安が胸にのし掛かってくる。

 だがそれも、パトリツィアの取り越し苦労だったようだ。

 小リュービクは首を竦める。


「夜食をくすねに来て、名前を名乗った下働きはお前さんがはじめてだ」

「あ、す、すみません……」


 慌てるパトリツィアに、厨房の主はフォークの柄を差し出した。


「気に入った。ちょっとだけ付き合ってもらおうか」


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