味は見かけによらず(前篇)
「馬鈴薯の美味い食い方なら、儂に一声相談してくれればよかったのにのぅ」
秋の夜長にトリアエズナマが美味い。
居酒屋ノブでの隣席の呟きに、ニコラウスは頬杖をついたまま視線をそちらへ巡らせた。
独酌しながら肴に舌鼓を打っているのは、助祭のエトヴィンだ。
僧服のまま旨そうに酒を呑む姿にはじめこそ圧倒されたものの、それももう遥か昔の話。
居酒屋ノブの常連として、カウンターの一隅に寓居しているかの如く通い詰める老僧にはすっかり慣れてしまった。
僧侶の戒律になどまるで興味のないニコラウスだが、この老僧が出世もできずに助祭という低い地位に甘んじているのかについては概ね見当がつく。
酒好きと怠惰という言葉が僧服を着て歩いているかのようなこの禿頭の老人が要職に就けるようなら、教会という組織の鼎の軽重が問われるだろう。
呑み友達として個人的に付き合う分には大変気のいい爺さんなのだが、出世と無縁なのは仕方のないことだ。
「ほう、エトヴィン助祭はこの〈やみつき馬鈴薯〉よりも良い案があるっていうのかい」
フォークにさしてニコラウスが掲げてみせるのは、先日来あちこちで人気になっている新しい肴である〈やみつき馬鈴薯〉だ。
嘘か本当か、サクヌッセンブルク領の若き侯爵アルヌ閣下が考案したというこの肴は、折よく食用油が値下がりしたこともあって、古都でちょっとした流行を引き起こしている。
凄まじく美味いというわけではないのだが、後を引く。
特に、トリアエズナマの肴に最適だ。
ついつい呑み過ぎて、それほど弱くないはずのニコラウスが今ではほろ酔い加減の良い心地になっている。
「うむ。この儂の考えた、最高の馬鈴薯の食べ方じゃよ」
ニヤリと口元を歪ませると、エトヴィンはタイショーを手招きし、何事か耳打ちした。
カウンターから首だけ出したタイショーが、なるほどと呟き、さっそく調理に取り掛かる。
軽い気持ちで聞いたニコラウスだが、こうなると俄然気になって来た。
衛兵をめでたく退職したニコラウスは、今では古都三大水運ギルドの一角を占める〈鳥娘の舟歌〉で秘書の真似事のようなことをやっている。
馬鈴薯の新しい調理法が見つかれば、相場にも大きく影響するだろうから、これは個人的な興味というだけではなく職務上の関心ということになるに違いない。
そっと首を伸ばし、カウンター越しにタイショーの手元を窺う。
「えっ」
タイショーが嬉々として小鉢に盛り付けているのは、ただの蒸かした馬鈴薯だった。
問題は、そこにどろりと掛けられているもののほうだ。
「どうじゃ、素晴らしいと思わんかね」
笑みこぼれるエトヴィンの前に持って来られたのは、何とも強烈な代物だった。
「蒸かした馬鈴薯にバターを乗せ、その上からたっぷりと烏賊のシオカラをかける。これはもう流行間違いなしじゃな」
心底嬉しそうにエトヴィンが馬鈴薯を口に運ぶ。
そこへすかさず、アツカンをキュッ。
これこれ、この臭みと旨味が堪らんのよ、と独語する老僧を見て、ニコラウスの脳裏に生臭坊主という言葉が過った。
確かにアツカンとは合うだろうことは間違いないが、あれが古都で大流行するというのはちょっと考えづらい。
古都における世間一般の酒呑みの舌というのはもう少し単純だ。
そういう意味でも、ニコラウスはサクヌッセンブルクの若侯爵の慧眼には感心している。
〈やみつき馬鈴薯〉の評判は上々だ。あれほど分かりやすい肴もない。
お陰で来年以降は馬鈴薯の相場が上がるだろう、というのが〈鳥娘の舟歌〉の予測だ。
それにしても、とニコラウスは考える。
このエトヴィンという僧侶は、いったい何者なのだろうか。
元衛兵という職業柄、人相で為人を見抜くことにかけては、ニコラウスも多少の自信があった。それなのに、この老人についてはどういう人物なのか未だに判りかねている。
タイショーが油の鍋に何かを滑らせるように入れた。
肉を揚げる良い香りが店の中に漂いはじめる。
「シロン油、か」
烏賊のシオカラを美味そうに頬張っていたエトヴィンが鼻をひくひくとさせ、独り言つ。
言われてみれば、確かにシロン油の香りだ。
ビッセリンク商会が販路を繋げたこの油は、古都の食用油の相場を大いに下げた。
飲み屋の料理の幅が広がるのはニコラウスにとってこの上なくありがたいが、取引先の紹介の中には内心で臍を嚙んでいるところも少なくないようだ。
バッケスホーフ商会一強時代のぬるま湯に慣れている古都の中小商会にとっては、ビッセリンクの衝撃はしばらく影響が残るだろう。潰れてしまう商会も、出てくるに違いない。
ニコラウスの上司であるエレオノーラとしては頭の痛いところだろうが、それよりも今のニコラウスに気にかかるのは別のことだった。
水運ギルドである〈鳥娘の舟歌〉に勤めるニコラウスとしてはこのところ嗅ぎ慣れた香りだが、エトヴィンはどうして少し嗅いだだけでこの香りが分かるのだろうか。
ひょっとすると、並みの生臭坊主ではないのかもしれない。
いやいや、とニコラウスは小さく頭を振る。
隣の客の過去を決して詮索しない。
それが古都に暮らす呑兵衛たちの仁義だ。
例え隣に座っている男がごろつきだろうと、札付きの悪党だろうと、悪名高い東王国の奇譚拾遺使が抱える密偵であったとしても、店の中では気にしない。
煩わしい生業の憂いは、引き戸の外へ置いておくのが居酒屋で酒と肴を上手く楽しむコツだということを、ニコラウスは骨身に沁みて知っている。
居酒屋での独り呑みは、静かにしみじみと愉しむべきだ。
とはいえ、自儘に想像を巡らせるくらいは罰も当たらないだろう。
実を言えばニコラウスはエトヴィンという助祭のことを高く買っていた。
人生の先輩として、という意味ではない。
呑兵衛としての敬慕だ。
この老爺は隣に座っているのが肉屋だろうと衛兵だろうと照燈持ちだろうと自分より高位の子細であったとしても気にはしない。
どんな人間が隣に座っても、眉一つ顰めずに杯を傾ける。
いつも通りに呑み、いつも通りに食い、いつも通りに冗句を飛ばすだけだ。
普通は司祭であるトマスが隣に座れば少しは恐縮しても良いようなものの、エトヴィンと来たら世間ずれしていない若者に酒の飲み方を教える始末である。
どのような飲み屋遍歴を辿ればこういう御仁となるのかは全くの謎だが、酒飲みの先達としてこれほど心強い人物も他に思い当たらなかった。
それでいて、ただの生臭でもない。
聖堂での課業や規則こそ等閑にしていると聞くが、居酒屋ノブで極稀に誰かから相談を受けた際の受け答えにはさすがと思わせるものがある。
暗い顔をしてノブのノレンを潜った若者が、何かに導かれるようにしてエトヴィンの隣に座を占め、すっかりと晴れ晴れした顔で店を後にするのをニコラウスは何度となく目撃していた。
人生相談や懺悔を聞くのがこれほど上手いのなら、真面目に勤めさえすればそれなりの僧侶として名を知られても良さそうなものだ。
そのとき、ニコラウスの脳裏に妙な考えが過ぎった。
ひょっとすると名のある高僧が身分を偽って市井の様子を窺っているのではないか。