仕事帰りのヤキトリ(前篇)
とにかく、喉が渇いていた。
滴り落ちる汗を腕で拭う。夏の夕暮れはどうしてこうも喉が渇くのだろう。
仕事帰りともなればなおさらだ。
夕陽に染まる家路を足早に歩きながら、マルセルは今日の夕食と晩酌の肴に想いを馳せていた。
恐妻家のマルセルだが、妻の手料理は文句なしに愛している。
早く家に帰ってエールを一杯ひっかけたい。
古都の最高責任者である参事会議長といえども、仕事が終われば心ゆくまでエールを楽しみたいと思うものだ。
このところ、市参事会はとても忙しい。
元々が高齢で細身のマルセルがさらに小さくなったようだと言われるくらいに疲れてもいる。
多忙のせいで深夜まで帰れず、晩酌もできない日さえあった。
疲れているが、身を引くつもりはない。
なりたくて引き受けた議長ではないが、なってしまったからにはきちんと職務はこなす。それがマルセルの生き方だ。
しかし覚悟していたこととは言え、夏の夜に酒で喉を潤すこともできないとなると、これはなかなか厳しいものがある。
日頃の憂さを晴らすべく全力で仕事を早く切り上げた今日こそは、家でエールを堪能するのだ。
肴は何が良いだろう。
腸詰の良いのがあったはずだから、あれを炙るか。
それとも途中で肉屋に寄って山鳥の腿肉でも買って帰った方が良いだろうか。
密やかな野望を胸に歩いていたマルセルは、ふとあることに気が付いた。
「……今日は家に誰もいない日じゃなかったか」
思い返してみると出掛けに妻がそんなことを言っていたような気がする。
確か娘夫婦の招待を受けたから一緒に行かないか、という話だったはずだ。今日は会議があるから帰りが遅くなると断ったのは、自分だったではないか。
「しくじったな」
娘夫婦の家は隣の街にある。妻は泊まって来るだろうから、家に帰ってもいない。長く雇っている女中も、今日は休みを取らせたはずだ。つまり家に帰ってもマルセル一人ということになる。
エールも腸詰もある。普段は邪魔にしか思わない妻の小言もない。
なのにどうしてこんなに寂しいのだろう。
「そうだ、あの店に行ってみるか」
居酒屋ノブは古都の外れ、〈馬丁宿〉通りに店を構えている。
なんとも変わった店だ。
異国風の佇まいは通りの中でも一際異彩を放っている。
いつ頃からここにあるのか記憶がはっきりしないが、結構な繁盛店になっているようだ。
マルセルも人の招きで何度か訪れ、酒も料理も気に入っていた。
ただ、自分から積極的にノレンをくぐろうと思わないのは、ここに市参事会に名を連ねるお歴々も時々顔を出すと聞いていたからだ。
マルセルも市参事会に長く席を占めている古株だ。根回しの重要性は分かっている。
ただ、マルセルの考えでは根回しと癒着は違うものだ。
前任者もそのまた前任者もその辺りは随分いい加減で、自分のことを臆病な正直者だと思っているマルセルからすると驚くようなことを平気でやっていた。
それと、酒を飲むときくらいは仕事を離れてゆっくり落ち着いて飲みたいという気持ちもある。
「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」
引き戸を開ける気持ちのいい挨拶が迎えてくれた。
店内がほどほどの混み具合なのはまだ時間が早いからだろう。幸い、見知った顔はいない。
促されるままにカウンター席に腰を下ろすと、つめたく冷えたオシボリがさっと差し出される。
こういうさりげない気遣いが嬉しい。
何より嬉しいのは、ここでは店員がマルセルを議長だからと特別扱いしないことだ。
根が小市民のマルセルにはこういう雰囲気の方が性に合っている。
「お久しぶりです、マルセルさん。ご注文は何になさいますか?」
シノブという女給に尋ねられ、ひとまず名物のトリアエズナマを頼む。
さて、肴はどうするか。
ここは不思議な店だ。他では食べられないようなものも出てくるから註文の仕方にいつも迷う。
暑気を乗り切るためにガツンと重いものを選ぶという手もあるが、胃がもたれると厄介だ。
年のせいか、脂身たっぷりの肉を食べると翌日すっきりしないことが増えてきている。
そうかと言って軽く済ませるという気分でもない。
「……鳥、という手もあるな」
今日の会議でも誰かが山鳥の巣立ちがどうのこうのと言っていた。
身の硬いばかりの廃鶏は御免蒙るが、確か居酒屋ノブでは若鶏も食べられると評判のはずだ。
「シノブちゃん、今日は鳥を食べたいんだが」
「それはちょうど良かった。今日は焼き鳥を仕込んでるんです」
ヤキトリとはまた耳慣れない料理名が飛び出してきた。だがここはタイショーを信じることにしよう。味付けは塩とタレがあるらしい。
「ではそのヤキトリというのを貰おうか。味付けは塩で」
はい、畏まりました、とシノブが元気よく応じる。
ほどなくして、オトーシのエダマメとトリアエズナマが運ばれてきた。
その黄金色の液体を前に、思わず生唾を飲む。
夏の盛りの仕事帰りに飲む一杯。値千金の至高にして究極の飲み物だ。
特にこの居酒屋ノブのトリアエズナマは、透明な硝子ジョッキが汗をかくほどに冷やしている。
気持ちを落ち着け、ジョッキに口をつける。
ぐびり。
ぐびりぐびりぐびり。
ああ、堪らない。ほろ苦い黄金色の液体が渇いた喉を流れ落ちていく。
この一杯のために生きている、というとさすがに表現が大袈裟だろうか。本当にそんな気がしてくるから不思議だ。
塩気の効いたエダマメも、トリアエズナマによく合う。
ぐびりぐびりとやっていると、あっという間にジョッキの中身が減ってしまった。
いけない。飲む速さを加減する必要がある。
若い頃はともかく、今では美味しく飲めるのは三杯くらいが限度になった。
料理に合わせて適切な飲み方を組み立てる。それがマルセル流の酒場を楽しむ方法だ。
ちょうど料理が欲しくなったタイミングで、女給のリオンティーヌが皿を運んでくる。
「お待たせしました! ヤキトリの盛り合わせだよ」