招かれざる客(前篇)
古都にはとにかく橋が多い。
運河による水運で成り立っている街だから、どこへ行くにも橋を渡ることになる。石造りの立派な橋、誰かが倒木で作った安っぽい橋。
色んな橋を渡りながら、しのぶは古都を散歩するのが好きだった。
日課にしている散歩から帰ってみると、居酒屋のぶの引き戸の前に見知らぬ男が立っている。自慢ではないがしのぶは一度来た客の顔を忘れるような不作法はしない。店の前に立っている男は間違いなく一見さんだ。
「すいません、お店は夕方からなんですよ」
後ろから声を掛けると男は振り返り、ふんと鼻を鳴らした。
しのぶよりも身長の低い小男で、貧相な顔に精一杯の威厳を付けようとしているのか似合わぬ髭を口元に蓄えている。
「そんなことは分かっている。何もこんなに陽の高い内から場末の居酒屋で貧乏くさいエールを啜ろうというつもりはない」
開口一番、店のことを痛罵されてしのぶのこめかみに青筋が浮かびかけたが、驚異的な自制心でそれを抑える。
「では、どういったご用件でしょうか。生憎店主はただいま留守にしておりますが」
「店主は不在か…… まぁいい。娘、この居酒屋を今晩貸し切る。そのつもりで用意をしておけ」
「えっ、お客様、急にそのように申されましても」
貸切ることも不可能ではないが、今日の今日というのは急すぎる。そもそも大将の信之は色んな人に美味しい肴と酒を提供したいと思って店を開けているのだ。貸し切られるというのは、その精神に反するような気がする。
「何だ、金か? ちゃっかりした娘だ。いくら欲しいんだ?」
「いえ、料金の問題ではございません」
「料金以外にも金を取るのか。居酒屋風情が随分と生意気なことだ」
「そうではございません。当店は広く街のお客様にお食事を愉しんで頂くお店です。急に貸し切りたいと申されましても、お受けいたしかねます」
流れるようなしのぶの返事に男は頬を歪めてから地面に唾を吐き捨てた。
「大層な口上を垂れる娘さんだ。私はさる貴族の方の使者でな。我が主がどういうわけかこの店の食事を食べたいと仰るものだから、わざわざ来てやったのだ。舌は回るようだが高位の方の御厚意を無駄にするとは、商売人として少々頭の方が足りていないのではないかな」
「申し訳ございません、浅慮浅学な街娘でございます。御無礼のほどは平に御容赦を」
男の舌鋒に怯むことなくとびきりの笑顔を浮かべて見せるしのぶに、男の方が却ってたじろいだようだ。だが、しのぶが折れたと思ったのだろう。小さく咳払いをして、念を押す。
「分かったようならそれで良い。今夜の貸し切り、しっかりとな」
だが、ここで引き下がるしのぶではない。
「お断りいたします」
「なんだと?」
男の眉が憤怒に吊り上る。
「お断りします、と申し上げました」
「お前は今の話が理解できなかったのか?」
「理解した上でお断り申し上げております。たとえ相手が貴族の方であろうと、店を馬鹿にする方にお出しする料理もお酒も当店にはございません。きっとそういう方にはもっと相応しいお店があるはずです。どうかお引き取り下さい」
「貴様の言ったその言葉、もう元には戻らんぞ。私と主への侮辱として受け取っておこう。後で吠え面かかないことだな」
捨て台詞を残して足早に去る男と入れ違いに、通いの皿洗いエーファがやってくる。
不思議そうに男の背を見送るエーファに、しのぶは
「エーファちゃん、塩持ってきて塩!」と思わず声を荒げた。
男の捨て台詞が具体的な形を伴って居酒屋のぶの目の前に現れたのは、開店少し前、陽の傾きかけた頃のことだ。
いつもなら行列などできるはずのない店の前に、どこからともなく男たちが並び始める。一目見て素性の良くない連中と分かる男たちだ。
彼らは他の客が店の中に一切入れないように間を詰めて並び、物珍しさに近付く通行人にも鋭い視線を飛ばしている。
「すいません、大将! 私がついつい売り言葉に買い言葉で……」
「良いんだよ、しのぶちゃん。俺だってそんな客にはうちの飯を食って欲しくない。よく言ってくれたと思う」
そう言いながらも、大将である信之の視線は既に仕込みの済んだ今日の食材の上を彷徨っている。男たちがこのまま立ち去らないなら、無駄になってしまうものも少なくない。
特に昨日の春分の祭りで作り過ぎた煮抜き(茹で卵)は、できることなら今日中には使ってしまいたかった。
エーファはマヨネーズを付けて食べるのが甚く気に入ったようで、煮抜きの消費に微力ながら貢献してくれている。小さな両の掌で落とさないように齧る姿はどこかハムスターを連想させて愛くるしい。
さて、どうやって使ったものかとしのぶと信之が頭を捻っていると、ガラスの引き戸を敲く音がした。普通の客のする訪いの入れ方ではない。勿体ぶったやり方だ。
戸を開けて入って来たのは案の定、昼間の小男だった。
その後に入ってきた根暗っぽい痩せぎすの中年男が、“さる貴族の御方”だろう。
「約束通り来てやったぞ、娘」
「……ご来店有難うございます」
しのぶは顔に笑顔を無理矢理貼りつけるが、虚勢に過ぎない。
まさかここまでやるとは思わなかった。完敗だ。
一番奥のテーブル席に、貴族の男が踏ん反り返って座った。見るからに陰険そうな男で、細い口髭を指先で弄んでいる。
「さて、今日こんな店に来たのは外でもない」
男の声は妙に甲高くそれでいてねっとりと絡みつくような声音で、耳障りは良くない。
「先日とある貴族の結婚披露宴に招かれて参列したのだがね。尊い血筋に連なる方の結婚式というだけあって料理も実に素晴らしかったのだが、その場でこれまで食べたものの中で何が一番美味だったかという話になったのだ」
貴族の好きそうな話題だ。どうせ、居酒屋では目にすることのない高級な食材だけをふんだんに使った料理の名が挙げられたのだろう。でもそれがどうしてこの店に来るという話に繋がるのだろう。
「この私も栄えあるブランターノ男爵家の当主としてこれまで様々な料理を食べて来た。こう見えても私は帝都の生まれでね。三国の美味珍味は食べ尽くしていたという自負があったのだ。ところが」
「ところが?」
「よりにもよって、年若い花嫁の挙げた料理を私は食べたことがなかったのだ。もちろん、私だけではないよ。その場にいた貴族の全てが、だ」
「それが当店と何か関係があるのでしょうか」
男爵が突然、芝居がかった動作で椅子から立ち上がる。
「“ユドーフ”」
指差した先の壁には、漢字と古都の文字で湯豆腐と書かれていた。
「麗しき花嫁の挙げた料理は“ユドーフ”という名前だった。それは臭くなくて辛くなくて酸っぱくなくて苦くなくて固くなくてパンでも芋でもお粥でも卵でもシチューでもない美味しいものだという。たったそれだけの手掛かりだったが、私の優秀な部下はその料理が提供されている店をやっと見つけ出したというわけだ」
「なるほど」
「そういう訳だから、給仕のキミ。私に早く湯豆腐を持ってきたまえ」
いちいち勿体付けた話し方をする男にしのぶはかなりげんなりしていたが、注文されれば相手は客だ。他の客にするように、丁重に頭を下げた。
「申し訳ございません。湯豆腐は冬限定のメニューなんです」