おもいでの味(壱)
「そんなに気にするほどのことでもないと思うけどねぇ」
日替わり定食を片付けながらそういうリオンティーヌの表情はあっけらかんとしている。
昼営業も一段落して、店の中に客の姿は疎らだ。
今日の日替わり定食のいわしフライも好評で、用意していた分はすっかりなくなっている。
話題は当然、裏口から日本へ帰った醤油職人、依田康三郎のことだった。
あれから数日が経つが、未だに帰ってくる気配がない。
もちろん、その日の内に帰ってくるとは思っていなかった。
とは言え、不安はある。
依田の実家がどこにあるのかも聞きそびれていたので、行って帰ってくるまでにどれくらいかかるのか見当も付かない。
しのぶも信之も裏口で物音がするたびにそちらについつい視線が行ってしまう。
リオンティーヌやハンスに言わせれば、まだまだ気にするほどの期間ではないというが、それでも心配なものは心配だった。
「十何年ぶりに故郷に帰るんだろう? 色々と片付けなくちゃならないこともあるだろうし、そもそも行って帰って来るまでの旅程ってものがあるじゃないか。人を待つ時はどんと構えておけばいいのさ。あんまり気に病み過ぎると体に毒だよ」
そう言われてしまうとそうなのだが、しのぶとしてはやはり不安だった。
ただ、よく考えてみれば依田が居酒屋のぶに連絡を取る方法もない。携帯電話も持っていないし、そもそも連絡先さえ知らないのだ。
「大将が連絡先を依田さんに伝えておいてくれたらなぁ」
「面目ない……」
信之の話では餞別のお金と一緒にここの連絡先が書いた紙も包んでおいたというのだが、肝心の封筒を渡し忘れたのだという。
「誰にでも失敗はありますって。ところで何の話です?」
話に入ってきたのは元遍歴商人のマルコだ。
北方の出身で長く故郷を離れて商売していたが、今は帰郷して小さな商会を立ち上げようと奔走している。今回はビッセリンク商会との交渉のために古都を訪れているらしい。
「古都から故郷に帰った人の話なんですけどね。なかなか戻って来ないんですよ」
しのぶの説明にマルコはこの日最後のいわしフライ定食を頬張りながら、訳知り顔で頷いた。
「気持ちは分かるな。私も長く実家から離れていたから」
マルコもつい最近帰郷したばかりだから、口調にも実感が籠もっている。
「そういうものですかね、やっぱり」
里帰りというものが、しのぶにはよくわからない。
高校も大学も地元だったから、一人暮らしは今がはじめてだ。
「そりゃそうだよ、シノブさん。私でも帰った時にはそれはもう大変な騒ぎだったから。その人ヨダって人に係累があるのかどうかは知らないけど、十数年も家を空けていたなら、そうそうすぐには戻って来られないんじゃないかなぁ」
確かにそういうものかもしれない。心配し過ぎだと言われればその通りだ。
不安なのは、どうしても自分を重ねてしまうからなのだろう。
ある日突然、裏口が日本と繋がらなくなってしまったら、どうだろうか。
信之は達観しているようだが、しのぶにはまだ決心が付いていない。
こちらで暮らすということを今まで漠然とは考えてきたが、依田のように帰れなくなってしまった人がいざ目の前に現れると、頭が想像することさえ拒んでしまう。
依田の使っていた“道”は燃えてしまったから使えなくなったということは信之から聞かされている。そのことを聞いた晩から火元の始末をいつもよりも厳重にするようになった。
「それにしても幸せ者だね、そのヨダさんも」
定食を食べ終わったマルコが銀貨をカウンターに置く。
「幸せ者?」
「そりゃそうさ。こっちでも心配して待ってくれている人がいるんだから」
マルコの言葉に、しのぶは大きく頷いた。
依田には待っている家族がいる。だから、必ず帰ってくるはずだ。
昼営業最後の客が店を出たところで、暖簾を下す。
店の外は夏らしい暑さで、道往く人も皆汗ばんでいた。
慣れてきたとは言え、夜よりもお客さんの回転が速いので疲れが出ないと言えば嘘になる。
ただでさえ客の多いところに居酒屋のぶは涼しいという噂がたっているらしく、最近では満席に次ぐ満席という繁盛具合だった。
皿洗いの終わったエーファが、神棚にお祈りを捧げている。
今日お供えしている五目稲荷はエーファたっての希望だった。弟妹に持って帰りたかったのだろう。持ち帰り分もハンスがもう準備している。
「……やっぱり、探しに行こうかな」
天井の隅を見ながら、信之がぽつりと呟く。
「探すって、ヨダさんをかい?」
尋ねるリオンティーヌに、信之は曖昧に頷き、項垂れた。
「……とは言え、探しに行くと言っても、方法がないからなぁ」
日本全国、どこを探せばいいのか。十数年前に廃業した醤油工場というだけでは、手がかりにもならない。
依田という苗字も、本人を特定するほど珍しいものでもなかった。
「呆れたね。そんなあやふやなことで店を何日も空けられたらこっちが困るよ。まぁ私も人のことは言えないんだけどさ」
長い間ベルトホルトを探し続けていたリオンティーヌが自嘲気味に笑う。
信之が煩悶の唸りを漏らした。
送り出した身としては責任を感じているのだろう。
「タイショー、ニホンっていう国がどれくらいの大きさかしらないんですけど、そんなにすぐに端から端までいけるような大きさじゃないんですよね?」
ハンスに聞かれ、信之は人差し指で顎を掻く。
「そりゃまぁ、ね」
「それなら心配することないと思います。旅が長引くのはよくある話ですし」
旅慣れたハンスにそう胸を張られると少し勇気が湧いてくる。
確かに、依田の故郷が北海道や九州なら、確かに行って帰ってくるだけでも大仕事になるだろう。数日に一度しか便のない離島という可能性もあった。
「それにほら、何か別の用事があるのかもしれないしね」
励まそうとしてくれているのか、リオンティーヌがしのぶの背中を叩く。
「別の用事?」
「例えばそうだねぇ。他のショーユ職人がどうやってるのか調べるとか、そういうことだよ」
その可能性はしのぶも考えていた。
醤油について調べることや大豆の新しい品種の仕入れ、農業書を買い集めているということもありえるだろう。
問題なのは、事件や事故に巻き込まれている可能性だ。
依田康三郎という人物が日本でどういう扱いになっているのかは分からないが、下手をすれば死人として扱われていることもありうる。職務質問をされれば、面倒なことになるだろう。
それよりも心配なのは、こちらに帰れなくなってしまっているという事態だ。
しのぶにも信之にも、裏口がどういう原理で繋がっているか分からない。
不思議なことを当たり前のこととして捉えてしまうと、何ができて何ができないのかが分からなくなってしまう。
そもそもどうして異世界に居酒屋のぶがあるのかも、謎に包まれているのだ。
ひょっとすると依田は一方通行で日本へ戻れただけなのかもしれない。そうなると、もう依田は戻ってこられないのだろうか。
濡れ布巾を絞るしのぶの手にも、知らず力が入る。
エーファの提案で依田が帰ってきたらすぐに分かるようにほんの少しだけ裏口は開けてあるが、それもどこまで効果のあることかは分からなかった。
「結局、待つしかできないってことだよ」
リオンティーヌの言葉に、皆頷く。
しのぶには依田の無事を神棚に祈ることしかできなかった。