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醤油一瓶(前篇)

「いただきます」


 手を合わせる依田の前には白飯、納豆、卵焼き、海苔、塩鮭、そして味噌汁が並んでいる。

 何とも当たり前の和定食に仕上がった。

 信之一人なら適当に済ませるのだが、今回のお客さまは特別だ。


「こういう何でもない朝食が最高の贅沢ですよ」

「そう言って頂けると作った甲斐があります」

「本当にありがたいなぁ」


 まだ誰も来ていない居酒屋のぶのテーブル席で、信之は依田と向かい合って座っていた。

 こちらの世界に来て十数年。

 それだけの期間、故郷の味から離れて暮らすというのはどういう気持ちなのだろう。

 目の前で一口一口大切に味わいながら食事を摂る依田の姿を見ていると信之の胸まで熱くなる。


「ああ、納豆というのはこういう味なのか」

「納豆がどうかしましたか?」信之が尋ねると、依田は照れ臭そうに笑う。

「実はこちらの世界へ来るまで、納豆は食べたことがありませんで。ただ、行き来ができなくなってからどうしても日本が恋しくなって、大豆と藁で自作をして食べていたんですよ。手本も何もないものですから、味がこれであっているのかどうか、随分悩みました。自作したものとはやはり少し味が違うようですね」

「食べたことがないのに、納豆をですか」

「ええ。大豆だけはありましたから。それを使って作れそうなものはみんな挑戦しましたね。最初の二年くらいはそういう気持ちが特に強かったもので」


 笑いながら油揚げの味噌汁を啜る依田は事もなげに語るが、そういうものなのだろうか。

 それまで食べたことは無くても、少しでも元の世界の(よすが)を感じていたい。

 気持ちは分かるような気がする。いや、安易に分かると言ってしまうと、それさえも侮辱になってしまうようでもあった。十数年というのは、それだけの時間だ。

 もし信之もこちらの世界から帰られなくなれば、そういうことをするのだろうか。


 朝食の時間は静かに進む。

 依田は少し出汁を加えた卵焼きが甚く気に入ったようで、何度も何度も味を褒めた。

 そういう些細なことが、信之にはとても誇らしいし、嬉しい。

 二杯目の白飯を茶碗によそっていると、依田が意を決したように口を開いた。


「ところで矢澤さん、昨日は聞きそびれたんですが」

「日本との行き来のことですね?」


 ええ、と依田が答える。

 いつ聞いて来るかなと思っていたが、こちらの店員、ハンスやリオンティーヌ、それにエーファの耳に入るのを憚ったのだろう。

 彼らに説明していないことも十分にありうるからだ。


「この居酒屋のぶは、裏口で日本に繋がっています」


 信之の言葉に、依田はほっとしたような表情になった。


「ああ、それは良かった。生卵が食べられるので間違いはなかろうと思いましたが、直接矢澤さんの口から聞くと一安心です」


 安堵から笑み崩れた依田はぼりぼりと美味そうな音を立てて沢庵を齧る。これは店に出しているものと違って、信之が個人的に食べている沢庵だ。普通に手に入るものよりも香りが強い。

 これを厚切りにして出した物も、依田は気に入ったようだ。


「……依田さんも昔は行き来できていたのですか?」


 この際だからと、信之は聞き難いことも聞いておくことにした。

 居酒屋のぶは、日本と繋がっている。

 依田康三郎というこの人物がやって来た“道”も、口振りからすると昔は往来ができていたように聞こえた。


 もし、何らかの形で“道”が閉ざされてしまうのだとしたら?

 そうなると少し困ったことになる。

 古都で商売を始めてからもう一年以上が過ぎている。いつか閉ざされてしまうのであれば、信之もしのぶも身の振り方を考えなければならない。


 最悪の場合、信之はこちらへ残っても構わないのだ。

 裏口が閉ざされれば不便はあるだろうが、命をとられるというわけではない。たちまち暮らしが立ち行かなくなるということもなさそうだ。

 今回の依田のように、十数年もすればどこかにひょっこりと道が開くかもしれない。


 それよりも心配なのは、しのぶのことだった。

 残るにせよ戻るにせよ、彼女には選択肢がなければならない。そのためにも、“道”についての情報は少しでも集めておく必要があった。


「ええ、最初はできていました。といってもご心配なく。ある日突然、行き来ができなくなると言うことではないのです」

「と、言いますと?」

「私の通ってきた“道”は燃えてしまったのです。ああいや、燃えてしまったというと少し誤解を招くかもしれません。燃やされてしまった、という方が正しいでしょう」


 燃やされた、という言葉に信之はトリアエズナマ騒動のことを思い出した。

 ラガー密輸の疑いを掛けられ、危うく火炙りにされるかもしれなかったのだ。依田も同じように何かの嫌疑から、そういう苦境に陥ったのだろうか。


「燃やされた、というのは正体を知られたからですか?」


 信之が何を問うているのか分からなかったのか、依田は一瞬きょとんとした表情を見せた。

 だが、塩鮭の身を毟っている間に何を聞きたいが呑み込めたらしく、破顔する。


「ああ、いえ、そういうことはありませんよ。確かに連合王国は古い信仰の息づく土地ですが、異界から迷い込んだ者を裁こうとかそういう蛮信や迷妄の類いはもう残ってはいません。むしろ連合王国でもナ・ガルマンのある西の辺りはそういうものにとても寛容な土地柄でして」

「では、いったい誰に?」


 日本へ帰ることのできなくなった原因だ。さぞかし、恨み辛みも募っているだろう。

 しかしどういうわけか、依田の表情は晴れやかだ。

 とても、怨敵の名を口にするようには見えない。


「私がこちらと日本を行き来できなくなった原因はですね」

「はい、原因は?」


 依田は何とも言えない遠い目をして呟くように言った。


「私の、妻です」


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