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遠い海から来た男(前篇)

 父のローレンツが長く遍歴職人を生業としていたので、子のハンスも随分と色々な場所を旅して大人になった。

 海こそ越えたことはないが、暮らした街の数は両の手指では数えきれない。

 親子が古都に腰を落ち着けたのはハンスがほとんど独り立ちできる年になってからのことだ。


 元同僚のニコラウスに言わせれば、古都は帝国でも北寄りなのだから他の土地に比べて夏は涼しいはずだということなのだが、ハンスはそうは思わない。

 どこにいても、夏は暑いし冬は寒い。

 暑ければ北へ行き、寒ければ南へ下るというような生活ができるわけではないのだから、結局はその土地土地での寒暖に身を委ねながら暮らすことになる。


 居酒屋ノブではこのところ、暑さの厳しい昼過ぎになると店の前に水を打つ。

「打ち水っていうの」と笑うしのぶは何だか楽しそうだ。

 故郷では夏の風物詩らしい。

 はじめは何をしているのか分からなかったが、こうすると確かに少し暑さが和らぐ。

 通りの地面が乾いて舞う砂埃も抑えられるので、すぐに周りの店々も真似しはじめた。


 こういう季節になると、トリアエズナマがよく出る。

 特に居酒屋ノブではキンキンに冷えたものが出て来るというので、夏の夕暮れ時は仕事帰りの客で店の中は大賑わいだ。

 ノブだけが繁盛するのは見過ごせないとばかりに、<馬丁宿>通りの他の店もこの時期になると営業に力が入る。お陰で一帯には美味しそうな匂いがそこかしこから立ち上り、道往く人々の鼻腔と胃袋に痛撃を加える魔の通りと化していた。


 周りの店が客を集めるようになるとノブも負けじと肴で対抗する。

 補助とは言えハンスも調理に回ったので、これまでよりも素早く料理を提供できるようになったのは他の店に対する強みだ。

 注文を取るシノブとリオンティーヌの二人は少々客が増えても捌き切れる余力があった。

 ハンスの作った自信作、豚のタツタアゲや、餃子(ペリメニ)もひっきりなしに注文が入る。


 だが、侮りがたいのはエダマメだ。

 オトーシマメとして常連に親しまれているこの豆に、ハンスは密かな対抗心を燃やしていた。

 すぐ出て来るし食べやすく、美味しくて飽きが来ない。ついでに言うならトリアエズナマとの相性も申し分ないのだから、これは強敵だ。


「打倒エダマメ、だな……」


 そう小声で呟くハンスに、タイショーが不思議そうな顔を向ける。


「でもハンス、枝豆は大豆だぞ。お前の探していた」


 タイショーの意外な言葉に、ハンスは思わず聞き返した。


「え、それじゃあエダマメからショーユやミソができるんですか?」


 あの緑色の豆からそんなものができるとは俄かには想像しがたい。シノブに聞くところではトーフやアツアゲもダイズからできているということだから、ますます信じがたかった。


「いや、もう少し成熟したら大豆になる。枝豆は未熟な大豆を取って食べているんだ」

「なるほど。ルンビアの実とエリンビアみたいなものですか」

「うん? あ、ああ、そういうもの、なのか、な?」


 タイショーと話していると、たまにこういうことがある。あちらとこちらで常識が違うというのは不便でもあるが、それを愉しむだけの余裕が今のハンスにはあった。


「ハンス、豚のタツタアゲ、二人前! 大急ぎで頼むよ!」


 リオンティーヌに「はい」と応え、豚肉を揚げ油に躍らせる。

 揚げる音、そして切り分ける音も、御馳走だ。

 ザクザクと切り分けていると、自分でもトリアエズナマをぐいっと呷りたくなる。


 今のハンスは、とても満たされていた。

 ほんの少し前までショーユを探しに海を渡ろうと考えていたのがまるで嘘のようだ。

 タイショーの背中を見ながら、自分でも新しい品書きを考える。調理に携わるようになって、見ているだけでは分からなかった細かな技も身に付いているという実感があった。


 楽しい。

 毎日がこれほど楽しくていいのだろうか、と疑問に思うほどに楽しい日々だ。

 ビッセリンク商会が手配をしてくれているから、ショーユももうすぐ手に入る。

 ミソやトーフも自作したいので、ダイズも手に入ればいうことはない。

 だが、これについてはまた別の方法を考える必要があるだろう。連合王国に大豆があるのなら、種を分けて貰って古都近くで育てるという方法もある。

 エーファの家で今育てているのは麦と馬鈴薯らしいが、何とかここにダイズも加えて貰えないだろうか。ノブで買い切れない分は市場で売れば良い。


 考えれば考えるだけ、やりたいことが新しく湧いてくる。それでも今は、料理の修業だ。

 掛けられている期待に、応えたい。それがハンスの今の目標だった。

 夏の夜が更けると、客足はぱたりと止まる。

 日が暮れるのは遅いが昇るのもまた早いからだ。

 <馬丁宿>通りで一日の疲れを労い寝酒を引っ掛けるような職人や人夫には、日の出と日の入りが仕事の合図だ。明日が早いとなればいつまでも飲んでばかりではいられない。

 さっと飲んで、さっと帰る。店の側ではありがたい飲み方だ。


 静かになった店内に、エーファが皿を洗う音だけが響く。


「今日もよく働いたねぇ」


 肩と首とを回しながらリオンティーヌが満足げに笑った。

 シノブが茶を淹れて、みんなに配る。

 こういう季節でも、疲れた時には温かい飲み物は心が落ち着いた。


 人心地ついて、そろそろエーファを送って行こうかとハンスが思い始めた頃、表の硝子戸が控えめに敲かれた。

 皆、顔を見合わせる。

 ノレンはもう仕舞ってあるから、客ではないだろう。こんな時間に、いったい誰が何の用事で来たのだろうか。

 椅子から立ち上がったシノブが、恐る恐る硝子戸を開ける。


「……どちら様ですか?」


 硝子戸の向こうの男は、疲労の中にも喜びを隠しきれない笑顔で恭しく頭を下げた。


「居酒屋のぶ、というのはこちらで間違いありませんか?」


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