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盗人(後篇)

「いらっしゃいませ!」

「……らっしゃい」


 返って来たのはいつも通りの出迎えの声だった。

 店内には特に変わった様子もなく、馴染みの酔客が美味そうな料理を肴に酒を酌み交わしている。和やかな雰囲気からはとてもさっきまで盗人騒動があったようには思えない。


 時間が遅いからか店内の客はまばらで、テーブルもカウンターも綺麗に片付いている。繁盛している晩は食器を洗うのが間に合わないこともある居酒屋ノブだが、今夜はそういうこともないらしい。


 ニコラウスとエトヴィンは顔を見合わせる。

 やはり何もなかったのだろうか。酔客の悪戯だったと言われれば、そんな気もしてくる。


「さぁ、お二人さん、カウンターが空いていますよ」


 促されるままにカウンターの席に着くと、シノブがオトーシを運んできた。

 ニコラウスの目の前に置かれた器には赤身魚の刺身が乗っている。ただ、以前この店で食べた刺身とはどこか少し違う。


「ニコラウスさんのお通しは鰹のタタキです」

「タタキ?」

「身を軽く炙ってから刺身のように切っているんです。美味しいですよ」


 あらかじめタレが掛け回してあるのか、ショーユの小皿はない。

 口に含んで一噛み。なるほどこれは刺身と違う。


「こりゃ美味いな」


 身の柔らかさはそのままに、香ばしい風味が口の中に広がった。

 刺身よりも食べやすいかもしれない。

 今でこそ食べ慣れて好物になったものの、他の常連の例にもれず、ニコラウスも最初は刺身が苦手だった。


 生の魚を食べていると考えると、どうしても生臭さを感じてしまったのだ。それが、このタタキにはまるで感じられない。

 注文するより前にシノブが気を利かせて運んできたトリアエズナマとも、実によく合う。


 見るとエトヴィンはタタキではなく、別のオトーシを出されていた。なんだかねっとりした臭いのきつい小鉢だ。いつのまに注文したのか、酒はトリアエズナマではなくサケを飲んでいる。

 その表情は好々爺然として、とてもさっきまでと同じ人物とは思えない。


 鰹のタタキを半分まで食べてしまってから、ニコラウスはふと気が付いた。自分がここに何故いるのか。それは、居酒屋ノブに入った不届きな盗人について調べるためだったはずだ。

 暖簾を潜った途端に僧侶としての謹厳さまで脱ぎ捨ててしまったようなエトヴィンに向き直り、低く声を掛ける。


「助祭様」


 ニコラウスの声の調子から用件を察したようで、エトヴィンは猪口の中身を綺麗に干し、

「ん、ああ、すまん。出された物を断るのも神の意思に反するからな」

 と悪びれた様子もなく僧服の襟を正す。


 シノブの給仕の手隙を見計らって、ニコラウスは小さく手招きをした。

 空いているとはいえ、他に客がいない訳でもない。盗人が入ったということを知られたくないかもしれないという配慮だった。


「シノブちゃん、一つ聞きたいことがある」

「はい、何でしょう?」

「……今日、この店に盗人が入らなかった?」


 その言葉を聞いた瞬間、シノブの目が泳いだのをニコラウスは見逃さない。

 平静を装っているが、やはり何かあったのだ。店内をぐるりと見回すが、怪しいところはない。


「何か、あったんだね?」

「ええ、まぁ、泥棒というか…… ねぇ、タイショー?」


 突然話を振られたタイショーがカウンターの中でゲホゲホと噎せ返る。

 ニコラウスはそのタイショーの隣に、何者かが動くのを見た。


「誰だ!」


 逃げようとしていた影が声に射竦められたように小さくピクリと震え、立ち止まる。ニコラウスがカウンターの中を覗き込むと、そこには小動物のように怯えて蹲る十二歳くらいの赤毛の少女がいた。


「あちゃー…… 見つかっちゃったか―」


 シノブが呟くのを無視して、ニコラウスは少女に声を掛ける。


「お前が今日、この店に入った泥棒か?」


 蹲りながらも少女はコクコクと何度も頷いた。

「名前は?」

「え、エーファです」


 震えている少女を見て、ニコラウスは内心で首を捻った。物を盗るような娘には見えない。タイショーとシノブが庇うのを見ると何か事情があるのだろうが、エトヴィンの前だ。一応仕事らしくしておかねばならない。

 タイショーの方を見ると、やれやれといった風に頭を掻いていた。


「タイショー、この少女は?」

「ニコラウスさんの言う盗人だよ。この店から無断で物を持ち出そうとしたっていう意味ではね」

「それが事実なら、法に従って衛兵の隊舎まで出頭して貰い、市参事会の裁きを受けて貰うことになる」


 ニコラウスの剣幕にタイショーが慌てる。


「そういう大きな話じゃないんだ。結局、物は盗られていないんだし」

「未遂でも罪は罪だよ、タイショー。何を盗ろうとしたんだ?」


 タイショーは小さく肩を竦め、カウンターの中の洗い場を指差した。


「うちの店の蛇口だよ、エーファが盗ろうとしたのは」


 言いながらタイショーはニコラウスに蛇口を開けたり閉めたりして見せた。捻るたびに、水が出たり止まったりする。

 それを見て、ほうと声を漏らしたのはエトヴィンだった。


「汲み貯めて置いた水に圧をかけて、簡単に出したり止めたりしているわけか。面白い工夫じゃな、タイショー」

「このエーファという娘は、蛇口を持って帰ろうとしたんだ。これさえあれば、水がいくらでも出てくると思ったんだろうな」


 タイショーの言葉に、ニコラウスは口を挟む。


「水ならいくらでも汲めばいいだろう。川でも運河でも」

「ニコラウス、汲むことはできても飲むことはできんよ。一度沸かさんとな」


 エトヴィンの言う通り、古都の水は不味い。

 臭いがきついので、どんな庶民でもまともな人間なら一度沸かしてから水を飲む。井戸を掘れるのは一部の金持ちだけだった。


「それなら沸かせばいい。何も居酒屋からそんな蛇口? みたいなものを盗まなくても」

「そうもいかん。今年は特に、薪の値が、な」


 エトヴィンの言葉にシノブもうんうんと頷く。


「うちのお客さんも、今年は春が遅いから薪が高いって言ってましたよ」


 薪の値は確かに上がっている。それはニコラウスも感じていることだ。春になって寒さが和らげば薪の値も落ち着くのだろう。だが、今夜もこの冷え込みだ。春の訪れにはもう少しかかる。

 おまけに今年は古都近くに領地を持つブランターノ男爵が森での薪ひろいを禁じたために、値段は余計に吊り上っていた。


「だからと言って……」


 エーファという娘の方を見ると、大きな目に涙を浮かべてニコラウスの方を上目づかいに見上げている。

 まるで、捨てられた猫か何かのようだ。


「じゃあ、タイショーはどうするっていうんだ? この店で見逃しても、次は薪代欲しさに別の店に盗みに入らんとも限らないんですよ」

「それは大丈夫ですよ!」


 タイショーの代わりにシノブはそう言って、洗い場の皿を一枚取り出した。


「エーファちゃんにはこの店で皿洗いをしてもらうことになりました!」

「皿洗いってことは、この子をノブで雇うってことか?」

「そうなんですよ、ニコラウスさん。最近は有難いことにお客さんも増えて、私だけで給仕も皿洗いもっていうのは難しくなってたんですよね」


 言われてみれば、今日は店内がいつもより片付いている。

 皿洗いをエーファに任せられる分、シノブも自由に動けるということなのだろう。

 良い考えかも知れない。店は事を荒立てたくないようだし、少女は薪代を真っ当に稼ぐことができる。ついでに綺麗な店内で酒が飲めるとあれば、いうことはない。

 ニコラウスは頭をバリバリと掻き、盛大に溜息を吐いた。


「タイショーとシノブちゃんがそれで良いっていうんならそれで良いですよ。どうせ市参事会もこんな女の子を裁いている暇なんてないでしょうし」

 やった、とシノブが小さく飛び上がり、エーファの顔に笑みが戻る。

 タイショーは口元を緩ませながら、次の料理の支度に取り掛かっていた。


「さて、助祭様」

「何じゃろう、ニコラウス」

「ずっと気になっていたんですが、どうして今日に限って現場に付いてこられたんですか?」


 猪口を持つエトヴィンの手が止まる。


「何のことじゃろう。私はただ、衛兵の働きを見ておきたいと思ったからこそ、こうやってついてきただけじゃ」

「そういえば春分までは教会の中では粗食しかできないんでしたっけ?」

「ま、まぁ、そういうことになってはいるな」


 ここに来るまでにエトヴィンに抱いていた堅苦しいという印象はニコラウスの中ではすっかり氷解していた。


「この店にも来たことがあるんでしょう?」

「さ、さぁ…… 何のことじゃろうのう」

「そうじゃないと、この店のサケなんて知るはずがないですもんね?」


 エールでもワインでもない居酒屋ノブのサケといえば、一度はまるとやめられない酒として常連の間ではよく知られている。だが、店を一歩出れば知っている人間はほとんどいない。


 クスクスと笑い声がするのでそちらを見ると、シノブが口元を抑えて笑いをこらえている。


「どうした、シノブちゃん」

「だって、ニコラウスさん。エトヴィン助祭はうちの常連さんですよ。割と早い時間に来るから、衛兵の方たちとは会わないと思いますけど。オトーシも、助祭だけはいつも酒盗って決まってるくらいですし」

「シュトウ?」

「さっきニコラウスさんが食べた鰹の内臓を漬け込んだものですよ。あまりに酒が進むんで、酒を盗むっていう意味なんです」

「へぇ、聖職者が酒を盗まれたら大変ですね」


 とんでもない聖職者もいたものだ。

 衛兵の働きを見るなんて適当な理由を付けて、結局は酒を飲みに来ただけだったということか。


「助祭、このことは帰り道でしっかり説明して貰いますからね」

「分かった、分かった。ところで報告はどうするつもりだね。一応、盗人が出たという知らせを受けて出動したことになっているはずだが……」

「盗人ならいるじゃないですか」


 そう言ってニコラウスはまだ残っている酒盗を取り上げる。


「酒を盗んだ重罪人ですからね。この小鉢は衛兵隊が責任を持って捕縛いたします」

「ああ、まだ残っておるのに……」


 しょぼくれた助祭の姿にタイショーやシノブが噴き出すのを、エーファだけがきょとんと見つめていた。


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