肉詰め茄子(前篇)
「再会に」
「再会に」
ジョッキの打ち合わせられる小気味のいい音が響いた。
夕刻の店内は仕事帰りの客で混み合っている。
トマスが今晩居酒屋ノブに招いたのは旧友であるアリイル・ブロスナンという男だった。貴族の三男坊だがちょっとした財産を持っており、天文学に造詣が深い。
がっしりした体格のアリイルが持つとノブのジョッキも小さく見える。ゴッゴッゴッと巨躯の喉が鳴り、ジョッキの中身が瞬く間に空になった。
肴はトマスの好物であるナスを使ったニクヅメナスだ。トマスとしては遠方より来たる旧友を迎えるのにこれ以上ないという選択だった。
肉厚のナスの食感が挽き肉を優しく受け止め、トリアエズナマと実によく合う。
「ところでトマス、あの観測記録は本当か?」
「ああ、手紙を読んでくれたのか」
「そうでなければわざわざ帝国くんだりまで来たりはせんさ。しかし、あそこまでの精度が出せるもんなんだなぁ」
フーゴに依頼した望遠鏡を手に入れてからというもの、トマスの観測制度は飛躍的に向上している。これまでは目視に頼ることが多く、過去の記録と付き合わせても不明なことが多かったものが、今ではかなり正確な記録をつけることができるようになった。
その記録の精査を、トマスは各国の知己に依頼している。アリイルもその一人だった。
「望遠鏡のお陰だよ。後は、目にいい食事かな」
「目にいい食事、ね。確かにここの肴は美味いな」
貴族としての遠慮を母親の腹の中に忘れてきてしまったと豪語するだけあって、アリイルの食べっぷりは獣か何かのようだ。
空になった皿を見せ、リオンティーヌに追加を注文する。
「それで、アリイル。あの記録についての私の私見を読んでどう思った?」
本題を切り出すトマスに、アリイルは常にない苦々しげな表情を向けた。
「美味い酒と、美味い肴。それに旧友との再会を愉しんでいる席の話題には向き不向きがあるとは思わないかね、我が友よ」
そう言ってナスのテンプラを纏めて口に放り込む。トリアエズナマはもう三杯目だ。
アリイルに手紙を出したのは、第一にフーゴの望遠鏡の売り込みが目的だった。
だが、折角来てくれたのだから観測についての話もしたいというのが人情だ。
トマスの真剣な視線に絆されたのか、アリイルが口を開く。
「……トマス、あの私見はオレにだけ送ったのか? まさか他の奴にも送ったわけではあるまいな」
「信用できる何人かには送った」
ふぅむとアリイルが腕を組む。鼻息が荒い。
「あの考えは危険だ」
「それは分かっている。誰よりも」
あの考えとアリイルが言っているのは、地面が動いているという考え方だ。
不動であるはずの大地が、動く。それも太陽の周りを回っているというのがトマスの仮説だった。
その考え方は、教導聖省の見解に反したものだ。
天文学の先進的な研究を進めている占星術からしても、認められる種類のものではない。
若くして司祭の地位にあり、将来を嘱望されているトマスが発表するにはあまりに危険な説だということは、他ならぬトマス自身が一番よく知っている。
「悪いことは言わん。トマス、あの考え方は封印しろ」
リオンティーヌの持ってきたニクヅメナスを鷲掴みにしてアリイルが頬張る。
今度はトマスが手を挙げてお代わりを注文した。
「今は発表しないさ。まだ観測が不十分だ。それでも、いつかは」
「いつかなど来ない。発表するにしても、それはお前ではない」
大男だがアリイルが声を荒げるのは珍しい。何事かと他の客がこちらを伺っている。
「どうして。真実は広く知られるべきだ」
「あの考え方が真実かどうかを確かめるにはまだ確定的な観測が不足している。違うか、トマス」
「それはそうだが、そうと疑って観測した方が真実に近付くのが早まるはずで……」
「分からん奴だな。それが危険だ、と言っておるんだ」
アリイルの大きな掌で肩を掴まれた。
教導聖省の解釈に疑義を挟み、それを司祭の地位にある者が先導する。聖職の剥奪だけではすまない可能性すらあった。
「それでも、この大地は回っている」
何故かその言葉にタイショーとシノブがこちらを見る。少し声が大き過ぎただろうか。
「お前の意見は理解できる。その考え方に従った方が解釈しやすい現象があることも事実だ。だがまだ仮説だ。お前が全て賭けるほどのことはない」
「だが!」
そこでまたニクヅメナスが運ばれてきた。今度はトマスが皿を引き寄せ、齧りつく。
美味い。こんな議論をしていても、美味いものは美味いから不思議だ。
トリアエズナマを呷っていると、まだ皿にナスが残っているのにアリイルが追加を注文した。
味の嗜好が似通っているとは昔から思っていたが、ナスのことも気に入ったらしい。
「はいはい。次は三人前くらい盛って来ようか?」
腰に手を当て、呆れたようにリオンティーヌが注文を取る。有り難い申し出だ。
確かに、大地が動くと言う考えにはアリイルの言うとおり不確かな部分もまだ多い。
以前からトマスが不思議に思っていたいくつかの疑問点を無理なく解決することができるのだが、それ以外の部分では従来の考え方でも何の問題もない。
「要するにトマス、お前の意地なんだよ」
親友のアリイルにそう言われてしまうと、そうなのかもしれないという気がしてくる。
「オレはお前の考え方が好きだ。だが今発表しても良いことはない。もっと証拠を集めて、万全になってから発表しても遅くはないはずだ」
「でも、それだと」
「他の奴が先に発表する? いいじゃないか。お前の目的が真実を明らかにすることなら、何の問題もない。真実は明らかになり、お前の地位は損なわれない。それともお前は真実を解き明かすことよりも名声の方が目的なのか?」
アリイルの言葉に、トマスは何も返すことができなかった。
そうなのだ。真実を明らかにするだけなら、他の人間の手によってでも何の問題もない。
今は観察記録を積み重ねるのが最良の方法だと、頭では分かっていたのだ。
「……落ち着いたようだな」
頷くと、アリイルの掌が頭に置かれる。莫迦みたいに大きな掌だ。
丁度良い具合に三人前のニクヅメナスが運ばれて来る。二人で分けて食べようとしたところで、シノブが小瓶を差し出した。
「これを付けて食べても美味しいですよ」
受け取って、小皿に取る。確かショーユという調味料だ。
それを見たアリイルが、ぽつりと呟いた。
「何だ。ショーユと言うのは帝国にもあるのか」