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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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邂逅(後篇)

 店の入り口に威風たる様子で立つセレスティーヌを見てジャン=フランソワは一度席を立とうとし、止めた。今は動かない方が良い。

 今日の変装は完璧だ。シノブにこそ見破られたが、元王女摂政宮にそれはできないだろう。


 セレスティーヌが事実上支配下に置いていた奇譚拾遺使に属していながら、ジャン=フランソワ・モーント・ド・ラ・ヴィニーが御目通りの栄に浴したことは一度しかない。

 居酒屋ノブのクシカツについて報告をした時のみだ。


 であれば、元王女摂政宮の記憶にジャン=フランソワの事が残っているとは考えにくい。あの日は珍しく変装することなく宮中に参内したのだ。今の自分の姿とは似ても似つかぬ姿だった。

 今は心を平静に保ち、ただの客としてやり過ごすしかない。


 いや、待て。

 これは千載一遇の好機ではないのか。

 東王国と帝国の国境が形だけ封鎖されて以降、奇譚拾遺使は全力を挙げて帝国の情報を収集するように厳命されている。

 しかし、ジャン=フランソワの知るところ、目立った功績を上げられた者はいない。

 肝心の元王女摂政宮セレスティーヌ・ド・オイリアの位置が分からないからだ。


 その噂の渦中の人物が目の前にいる。

 一挙手一投足に到るまでを記憶し、本国へ報告せねばならない。ジャン=フランソワの中の密偵魂がそう告げていた。


「お久しぶりね、シノブ」

「御無沙汰をしております、セレスさん」


 カウンターの席を勧めながら、シノブは全く物怖じすることがない。

 相手は貴賓中の貴賓、元王女摂政宮にして現帝国皇后であるというのに、まるで遠方に住む文通相手との再会のように自然な雰囲気で話をしている。

 さすがにお忍びと見えて街娘のような衣装に身を包むセレスティーヌはカウンター席に腰を下ろすと、シノブからオシボリを受け取った。その所作の一つ一つにまで気品が溢れ、美しい。


「それでシノブ、手紙での質問なのだけれど」

「ああ、大豆のことですか?」


 ダイズ? ダイズとは何だ。聞き慣れない言葉だ。それこそがセレスティーヌ自らわざわざこの店に出向く理由だとでもいうのだろうか。


「私個人で調べられる範囲は調べたのだけれども、それらしいものは見つからなかったの」

「やはりそうですか」

「ごめんなさいね、お役に立てなくて」

「いえ、良いんですよ。多分帝国にも東王国にもなさそうですし」


 帝国にも東王国にも存在しない、ダイズ。何故それを探さねばならないのか。

 しかしこれは幸先がいい。情報収集は奇譚拾遺使の得意とするところ。ダイズの正体を突き止めることができれば、帝国に対して優位に立つことができるかもしれない。


「一応、硝石収集局と図書寮にも引き続き調査を命じてあるから、何か分かれば手紙で連絡します」


 硝石収集局、という言葉が出た瞬間、ジャン=フランソワの背筋に冷たいものが走った。彼らは東王国の奇譚拾遺使とは敵手に当たる組織で、情報収集と防諜に特化している。まさか収集局まで動かすほどの情報だとは。これはますます本国へ伝える価値があるに違いない。


「そんな大層なことじゃないから良いですよ」

「私とあの人を引き合わせてくれたお店ですもの。少しはお礼がしたいの」


 そう言って微笑みながら硝子の器にセレスティーヌが口を付ける。中身は林檎の果汁だ。


「ありがとうございます」

「……ところでシノブ」

「ええ、分かっています。アレですね」


 女給仕が店内にそれとなく視線を走らせる。ジャン=フランソワはその視線にすら気づかぬふりをして、トリアエズナマを口に運んだ。

 何かある。セレスティーヌがこの店に足を運ばねばならなかった理由だろうか。


「はい、お待たせしました」

「……これが」


 セレスティーヌ・ド・オイリアの前に運ばれてきたのは一片のケーキ(ガトー)だ。

 スポンジの上にクリームが乗り、上に苺が鎮座している。


「如何ですか?」

「……素晴らしいケーキね」


 銀のフォークを片手に目を輝かせるセレスティーヌの表情は元王女摂政宮にして現帝国皇后のものというよりも、歳相応の若い娘のそれだ。

 緊張と期待との入り混じった表情で、セレスティーヌがフォークをケーキへ延ばす。

 柔らかなケーキをそっと口へ運び、食べた。


「んん!」


 恍惚とした表情を浮かべるセレスティーヌに、思わずジャン=フランソワの喉も鳴る。

 いったいどれほど美味いケーキだというのか。

 その為に新婚の帝国皇后が古都にまでやってくるほどのケーキというものが、この世に存在するというのか。


「やっぱり目を盗んで食べる甘いものは格別ね……」


 うっとりとケーキを見つめるセレスティーヌにシノブが尋ねる。


「まだ甘いものは制限されているんですか?」

「結婚式と皇后冠の戴冠式で少しお腹周りが、ね? あの人はそんなこと気にするなって言ってくれるのだけど、シャルロッテがね」


 シャルロッテというのはセレスティーヌの御付侍女だ。体調管理も担当しているのだろう。


「それでわざわざおしのびで古都まで?」

「さすがにそこまではね。仕事です。仕事」


 仕事の内容までは漏らさないが、その点については他の奇譚拾遺使から情報が入っている。

 皇帝が東王国の王女を娶ったことに対する反対派貴族への締め付けと懐柔だ。

 その辺りは貴族を帝国よりも上手く飼い慣らしている東王国の舵取りをしていただけあって、巧妙かつ大胆な手法で巧くやっているという話だった。

 苺のケーキをもう一つぺろりと平らげ、セレスティーヌは席を立つ。


「今日はありがとうね、シノブ」

「いえいえ。いつでもまたお越しください。今度は旦那さんと御一緒に」

「しばらくは忙しくなりそうだけど、いつか隙を見て」


 笑みを交わしながら、シノブがセレスティーヌを硝子戸まで見送る。

 今宵の情報収集はこれまでのようだ。何とか正体も割れなかったようだし、収穫もあった。まずは成功と言って問題ないだろう。


「そうそう、シノブ。次に来た時なのだけど」

「はい、なんでしょう?」


 瞬間、セレスティーヌの視線がジャン=フランソワを射抜いた。


「……クシカツが食べたいな」

「串かつですね。ご用意いたします」

「よろしくね」


 軽やかに手を振って店を出るセレスティーヌの後ろ姿を、ジャン=フランソワは目で追うことができない。まさか見抜かれていたというのだろうか。それとも単なる偶然か。

 王女摂政宮と御目通りの機会を得たのは、クシカツの報告の時だったのだ。

 背中をじっとりとした汗が流れ落ちる。


 速く居酒屋ノブを立ち去りたいが、ここで慌てて外へ出るとセレスティーヌと鉢合わせする恐れもあった。

 どうすることもできずにトリアエズナマをもう一杯頼みながら、明日纏める予定の報告書について考える。重大な情報を掴んだのだ。余さず伝えなければならない。




 東王国の王都には毎日膨大な量の報告書が届けられる。

 <幼王>ユーグがそうさせているのだ。

 これまで王女摂政宮は各地の代官に任せるべきところは任せていたが、それでは非効率な部分がかなり大きい。能力のあるものが状況を把握してこそ、正されるものもある。それが今のユーグの施政方針だった。


「陛下、本日の報告書が参りました」

「ご苦労」


 執務室で午前に裁可すべき書類を片付け終えたユーグの元に、ラ・カタンが羊皮紙の束を運んできた。予め部下が目を通し、緊急性の高い物には印が付けてある。


「おや、殿下。これには印が付いておりませぬな」

「ほう?」


 珍しいこともある。今日の報告書確認の当番はユーグも信を置いている文官の筈だ。こういう些細なしくじりをするような者ではない。


「後できつく叱責をしておきましょう」

「いや、良い」


 笑って制しながら、ユーグは印のついていない報告書を開いた。

 そこには“ダイズ”というものに関する調査の必要性と、帝国に嫁いだ王女摂政宮が苺のケーキを食べる姿がありありと描き出されている。


「……このような報告書、やはり緊急性はないものと思われます」


 鬼首草を噛み潰したような顔で言い放つラ・カタンを諌めながら、ユーグは報告書を抽斗に仕舞った。姉はどうやらあちらで巧くやっているようだ。

 それが分かっただけでも、この報告書の緊急性は確かに高かったのだ。

 ユーグは不意に、苺のケーキを食べてみたくなった。


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― 新着の感想 ―
ジャンさんはセレスが報告書を楽しみにしているのを知らないのよね 皇妃だって串カツ食べてみたいよねぇ
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