盗人(前篇)
月に煙るような雲がかかっている。
新緑の芽吹く季節になったというのに、一向に寒さが抜ける気配がない。
古都の天候は気紛れだ。なかなか空気が温んでこないのは今年に限ったことではなかったが、それにしてもこの肌寒さは骨身に沁みた。
昼間はまだしも、日暮れ時ともなれば思わず襟を寄せてしまいたくなる。
昨日など、雨に混じって霙まで降ったのだ。火を焚く薪の値段は下がるどころか上がり続ける一方だった。
本当ならこういう晩には美味い肴で一杯やりたい。
冬のはじめにあの店を見つけてから、ニコラウスは完全に居酒屋ノブの虜になっていた。
おでん、唐揚げ、刺身に湯豆腐。どの料理も美味しい上、エールもとびっきりと来ている。こういう寒い日には、まだ頼んだことのない小鍋立てというのを試してみたい。
その居酒屋に、ニコラウスは向かっている。ただ、気は全く乗らない。
渋面の原因の大部分は、隣を歩く僧衣の老人だった。
「ニコラウス、あなたはどうしてそんな風に顰め面をしているのですか」
「ああ、いえ。今から行くのは馴染みの店なもんでして。仕事で行くよりはエールでも引っ掛けたいなぁと」
ニコラウスの言葉に助祭のエトヴィンは白い髭の口元を楽しげに歪ませる。
剃髪してつるりとした禿頭の分まで顎に蓄えたような豊かな髭の老人は、ニコラウスたち衛兵の詰所に隣接する小さな教会に赴任して来たばかりだ。
枯れ木のように細い身体のどこにそれほどの力が有り余っているのか、精力的に動き回る勤勉な聖職者として知られている。
「飲めば良いではありませんか。もちろん、この仕事の終わった後で」
「そうですね。仕事の終わった後で」
答えながらニコラウスは小さく溜息を洩らした。
聖職者と一緒に酒が飲めるはずがない。
エトヴィンさえ着いて来ていなければ仕事の終わった後、エールで喉を潤してから詰所に戻ることもできるのだろう。だが、そんなことを言い出せるような相手ではない。何と言っても聖職者なのだ。
ハンスがいればこんな仕事は賭けのツケで押し付けてやれるのに、こういう日に限ってあの男は非番だった。運のいい奴だ。
こうなれば報告のために一度戻ってからあの店に行くしかない。だが、そんな時間からノブに行っても一杯引っ掛ける間に夜が明けてしまう。
そもそもこんな夜に事件を起こす奴が悪い。
居酒屋ノブに泥棒が入ったなんていう報せさえなければ、ニコラウスの勤務時間はついさっき終わっていたはずなのだ。
おまけにそのことを聞きつけたエトヴィンが現場を見学したいというので、話が余計に面倒くさくなっている。
通報者が酔っ払っていたので要領を得ないが、事件としてはもう解決しているらしい。金目の物を盗ってとっくに逃げてしまったのだろう。
助祭様まで連れて出かけて行っても、ニコラウスのすることはほとんどないはずだ。
ニコラウスより頭一つ分小さいというのに妙に足の速いこの老人に合わせるために、春の月をゆっくりと堪能することもできやしない。
そうこうしている内に、居酒屋ノブが見えてきた。
見慣れたガラス戸からは灯りが漏れ、楽しそうな笑い声まで聞こえる。
「妙ですね」
エトヴィンが立ち止まり、顎鬚を撫でる。
「何かおかしなことがありますかね、助祭様。見たところいつも通りの居酒屋ノブですが」
「ええ、どこからどう見ても通常営業中の居酒屋だ」
「ならそれで良いじゃないですか」
「普通、盗人が入った後もあんな風に営業できるものでしょうか」
タイショーとシノブなら、と言いかけて、ニコラウスは言葉を飲み込んだ。
いくら常識はずれのあの二人とは言え、盗人に入られたのだ。そのまま暖簾を出し続けることなどあり得るのだろうか。
何か普通の事件ではないような気がする。エトヴィンの方を見やると、この老聖職者も同じ意見のようだった。黙って二人で頷き合う。
なるべく音を立てないように引き戸に近付き、一気に戸を引き開けた。