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たそがれローレンツ(前篇)

 珍しく、静かな酒だった。

 硝子職人のローレンツである。最近は長男のフーゴと店を訪れることが多かったが、今日は一人きりだ。カウンターの隅に陣取って、肴も頼まずにお通しのもつ煮込みだけで生ビールのジョッキを傾けている背中には、どこか哀愁が漂っていた。


「シノブちゃん、ローレンツがどこか悪くしたとか聞いていないか?」


 声を潜めてしのぶに聞いてきた鍛冶ギルドのホルガーはローレンツの親友だ。二人は幼馴染の関係で、遍歴職人としていたローレンツが古都に戻ってきたときにいろいろと手助けをしたのもホルガーだった。


「ホルガーさんが知らないなら、私も知りませんよ」

「そういうのでもないだろう。……しかし、気になるな」


 顔を見れば口喧嘩ばかりしている二人だが、相手が塞ぎ込んでいると心配になるらしい。するめの天ぷらを肴に三杯目のジョッキを干しながら、視線はローレンツの方を彷徨っている。


 そういえば今日はローレンツの酒量が少ない。

 普段なら既に何杯もジョッキを空にしているはずの時間帯だというのに、まだ一杯目、それも半分以上残したままだ。

 いや、今日だけではない。このところ、ローレンツの注文は確かに減っていた。

 大市で忙しかったからしのぶもあまり気にしていなかったが、今日のようにビールとお通しだけという日もあったような気がする。

 嗜むようにゆっくりとビールを啜る姿は、どうにもローレンスに似つかわしくない。やはり、豪快にジョッキを次々開けていく姿を見慣れているからだろう。


「ハンスは何か知らないのかい?」


 リオンティーヌが聞くと、鯖のへしこを盛り付けていたハンスは気まずそうな顔をした。


「ハンス、何か知っているんだね?」

「ええ、ああ、いや、兄から聞いたので直接知っているわけでは……」

 そう答えたハンスをホルガーが手招きする。何事かとカウンターを出たハンスの首を、ホルガーが鍛え上げられた腕でがっしりと抱え込む。


「さぁ、ハンス。何があったか説明してもらいましょう」

「は、はい」


 脂汗を流しながら、ハンスは観念したようにぽつりぽつりと話し始めた。

 ハンスの兄、フーゴはローレンツの下で働く硝子職人だ。努力家で、一つのことにのめりこむと凄いものを作る力がある。

 ハンスから見れば才能のあるフーゴだったが、これまであまり陽の目を見なかったのは、父ローレンツに評価されていなかったからだ。

 それが先日、ついに認められた。

 天文学に関心のある司祭のトマスからの難しい依頼に、見事応えたからだ。


「嬉しくなった父さん……じゃない、父は工房に手を入れたんです」


 古くなった炉を修繕し、新しい磨き台を入れた。道具も良いものを随分と新調したという。


「ああ、それはうちの工房に依頼が来た。なるべく良いものを、という条件だったから腕によりを掛けたよ。道具は職人の魂だからね」


 四杯目のジョッキに口を付けながらホルガーが頷く。


「それと、研磨皿です。トマスさんと同じような依頼にも応えられるように、レンズを磨くための研磨皿をわざわざ聖王国から取り寄せたそうで……」


 尻すぼみになるハンスの言葉にリオンティーヌが問い質した。


「私はその研磨皿っていうのがどういう相場の道具なのか知らないけど、高いものなのかい?」


 ハンスは力なく、掌を開く。


「銀貨五十枚か。さすがに聖王国から取り寄せたものは結構値段がするもんだね」

「……いや、金貨五十枚です」


 ハンスの言葉にそこにいた皆が声を失う。時によって変動はあるが、金貨一枚はおおよそ銀貨十二枚に相当する。金貨五十枚といえば、銀貨に換算すると六百枚だ。


「聖王国では、レンズの研磨は特殊な技術だそうで……」


 帝国でも上流階級を中心に掛ける人が増えてきた眼鏡の多くは、聖王国製だという。

 この店のお客さんでいうと、エトヴィン、ゲーアノート、そしてセレスティーヌが掛けているのが聖王国製の眼鏡だそうだ。

 硝子の研磨技術自体が長く、聖王国の硝子研磨ギルドによって独占されてきた。だから、他の国は随分と出遅れている。


 技術の流出を警戒している聖王国では、目の細かい研磨皿の国外への持ち出しを厳重に取り締まっていて、仮に上手く購入できても法外な値段になるのだという。取り引き自体は違法ではないが、よほど強力な伝手があるか、大金を積まないと研磨皿は手に入らないそうだ。


「大した投資だ……」


 搾り出すような声で呟くホルガーはローレンツと同じくギルドのマスターだ。

 職種は違えど、取引があるのだから大体の経済状況は分かるのだろう。目が泳いでいるところを見ると、かなりの大博打だったようだ。


「それで、レンズの研磨の仕事は来たのかい?」


 恐る恐る尋ねるリオンティーヌに、ハンスは首を振る。確かにレンズが要りそうな職業は限られている。腕がいいからといって次々と注文が舞い込むこともないだろう。


「トマスさんが八方手を尽くしてくれているそうなんですが……」


 金銭的にか、これからの先行きにか。元気のない原因は恐らくその辺りだろう。


「大体の、事情は分かった」


 包丁を拭きながら、信之が呟く。


「つまり、ローレンツさんを元気付ければいいっていうことですよね」


 言葉を継いだエーファの顔は、決意に満ちていた。

 ローレンツは居酒屋のぶ開店直後からの常連の一人だ。ハンスの父親でもある。

 金銭的な手助けは出来なくとも、何か応援することは出来るはずだ。

 では、何をすればいいのか。

 ここは居酒屋で、ローレンツは居酒屋の客だ。


「ローレンツさんの好きそうなものを食べてもらいましょう」


 しのぶの言葉に、全員が頷いた。


「ハンス、ローレンツさんの好きそうな食べ物を出来る限り思い出してくれ」

「は、はい、タイショー」

「今回の費用はオレが全部出しましょう」

「いいんですか、ホルガーさん」


 ホルガーも乗り気だ。普段は見せない、良い笑顔をしている。


「あいつがあんな調子だと、喧嘩もできませんしね」


 照れ隠しにそう言うと、五杯目のジョッキの中身を綺麗に飲み干した。


 決行は、翌日。準備は静かにはじめられた。


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