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食わず嫌い(後篇)

 思わぬ言葉に、カミラは目を見開いて師の方を見る。

 だが、イングリドは小さく首を横に振るだけだ。


「ど、どうして?」


 サシミを余程楽しみにしていたのだろう。カミラの目は少し潤んでいる。対するイングリドの口調はにべもない。

「魚をね、生で食べるなんていうのは……薬師のすべきことじゃない」

 言葉を選んでいるのはここが居酒屋ノブだからだろう。それまで生魚を食べたことのなかった古都の人でも、この店に来ればサシミやカイセンドンを頼む。生魚好きは、意外に多い。


 それでもイングリドの言いたいことも分かる。

 エーファの暮らす城壁の外には貧しい人が多いが、焼かずに生で魚を食べる人はいない。お腹を壊すからだ。薪を買えずに生の魚を食べて苦しんでいる人を、エーファも見たことがある。


「カミラ、薬師って言うのは街の人たちの病気を治すのが生業だ。それはよく分かっていると思う。その薬師が腹を壊したとなると、周りの人はどう見る? 腕を疑われるだけならまだいいさ。効くか効かないか分からないってんで、薬を買うのを躊躇うようになるかもしれない。そうなると、治るはずの人が治らない何てことも起きるだろう。違うかい?」


 普段はあまり喋らずに酒杯を傾けている印象の強いイングリドだが、怒ると怖いということはカミラから聞かされていた。

 頭も良いし口も上手いから、反論などできるはずもない。いつも快活なカミラも今はしょんぼりと子犬のように項垂れて聞いている。


「生魚を食べることが悪いと言っているんじゃないんだ。居酒屋ノブのタイショーは大した料理人だから、目利きもしっかりしているだろう。ここで食べて腹を壊すことはない。それは分かっている。カミラが見習いとはいえ薬師だから、食べてはいけないというんだ。それは分かるね?」


 カミラの眦に、大きな涙の粒が浮かびはじめた。

 両膝の上の拳は、しっかりと握りしめられている。

 エーファは不意に、恐ろしい後悔に襲われた。

 一昨日、カミラにサシミを食べさせてあげるべきではなかったのではないか。あの時は、美味しいサシミを食べさせることができて満足していたが、そのことが今、カミラを苦しめている。

 食べさえしなければ、憧れで終わっただろう。

 ほどほどの美味しさなら、焦がれて泣くこともなかったに違いない。


 懇々と続くイングリドの説教を聞いているのに堪えられなくなって、エーファは厨房へ引っ込もうとした。カミラには悪いという気もしたが、怒られるのを見られているのも恥ずかしいだろうと思ったのだ。

 厨房の中ではいつの間にカウンターから引っ込んだのか、タイショーとハンスがシチリンを用意していた。


「よく藁なんてあったね」


 興味深そうにシノブが覗き込むシチリンの中には、炭ではなく藁が入れられている。


「時期が時期だから買っておいたんだけど、今日から出してしまおう」

「鰹はあるの?」

「晩酌用に買っておいたから、大丈夫」


 藁に火を付けるとすぐに回り、もうもうと煙が立ちはじめた。


「うわ、これは凄いな」

「タイショー、今日はいいけど次からは外でやろうね……」


 炭で焼くよりも、火が強い。ハンスはタイショーが何をしようとしているのか見逃さないようにしようと、白煙を堪えながらしっかりと目を開けている。

 藁火の芳しい香りが厨房に漂い始めた。

 カツオの赤い身が、良い具合に焼けて白くなっていく。タイショーは焼き加減を見極めるとさっと日から上げ、氷水に漬けた。


 きっと、美味しい魚料理をカミラに食べさせてあげるつもりなのだ。

 サシミ用のカツオは焼きカツオになった。生ではないから、イングリドも許してくれるだろう。思った通りにサシミが食べられなくてカミラは残念がるかもしれないが、店の勝手でサシミを食べさせるわけにも行かない。


 厨房から出ると、説教はまだ続いていた。

 薬師の心得を熱く語るイングリドの前に、タイショーが氷で締めたばかりのカツオを見せる。


「イングリドさん、これならどうです?」


 焼いたカツオを見せられたイングリドは小首を傾げた。タイショーが何をしたいのか意図を測りかねているのだろう。


「良い焼き色だね。カミラ、これくらいしっかり焼いた魚なら食べても良いよ」


 イングリドの言葉を聞いて、タイショーが静かに微笑む。

 そこからは、速かった。

 普段はハンスの立つ位置に立ったシノブがさっと皿を差し出すと、目にも留まらぬ手際の良さでタイショーがカツオを薄く切っていく。


「あっ」


 声を上げたのは、カミラだ。イングリドは息を飲んでいる。

 切ったカツオの中は、まだ赤かったのだ。藁で外だけを炙ったということなのだろう。

 じっくり焼く炭を使わなかったのは、このためだったのだ。


「イングリドさん、よろしいですか?」


 カミラにカツオを出す前に、タイショーがもう一度尋ねる。

 最初は唖然としていたイングリドだが、くつくつと肩を震わせ、やがて破顔した。


「こいつはやられた。なるほど、一計を案じたという訳だ。いいよ、カミラ。好きにお食べ。それなら生魚を食べたって誰かに後ろ指を指されることもないだろうしね」

「い、いいんですか?」


 確認しながらもカミラの頬はもう期待に紅潮している。


「いいよ。食べたかったんだろう?」


 大きく頷き、カミラが箸を取った。ネギを散らしたカツオを生姜(インガー)ショウユにつけ、まずは一切れ口に含む。


「ほぁあ……」


 カミラの顔が蕩け、吐息が漏れた。

 幸せそうな笑顔だ。見ているエーファも思わず唾を飲む。


「初鰹のタタキ、どうですか?」


 タイショーが感想を聞くと、カミラはにっこりと笑った。こういう顔もするんだと驚くほどに幸せそうな顔だ。


「おぃひぃ」


 次の一切れを口に頬張りながらカミラがそう言った所で、硝子戸が引き開けられた。


「邪魔するよ」


 入って来たのはエトヴィンだ。

 まだ雨が降っているようで、僧衣が濡れた色をしていた。

 オシボリを受け取りながらエトヴィンはカウンター席に腰を下ろす。


「シノブちゃん、何か面白いことでもあったかの?」

「カミラちゃんに鰹のタタキを食べて貰っているんですよ」

「ほぅ、鰹のタタキ。イングリドがよく許したのう」

「えっ」


 皆が一斉にエトヴィンの方を見る。

 一方イングリドは決まりの悪そうな顔であらぬ方を見つめていた。


「どういうことですか、エトヴィンさん」


 タイショーが尋ねるとエトヴィンは昔を思い返すように遠い目をする。

 二人はかつて聖王国で聖職者の卵として学んだ先輩後輩に当たるはずだ。謎の多いイングリドの過去を知る数少ない人物である。


「イングリドは生の魚を嫌っていてな……魚が生焼けだとか生煮えだと言っては調理した人間に文句を言いに行ったり作り直させたりと豪い騒ぎじゃったよ」

「エトヴィン先輩!」

「サシミも食わず嫌いなんじゃないかのぅ。なぁ、イングリド?」


 黙って答えないイングリドはシノブにトリアエズナマを頼み、一気に呷った。

 豪快な飲みっぷりだ。


「生魚って古都ではあまり食べませんけど、聖王国では食べるんですか?」

「牛肉を薄切りにするカルパッチョという料理があってな。海に近いところでは魚でもやったりする。ま、サシミみたいなもんじゃよ、エーファちゃん」


 今度は気まずそうな顔をするイングリドに、皆の視線が集まった。

「……ひょっとしてイングリドさん、生魚を自分が食べられないから?」

「ハンス、お客さまに失礼よ」

「でもそう考えると色々辻褄が合うな……」


 顎に手を当てて思案顔のタイショーが探るようにイングリドの目を見る。

 沈黙の中をカミラがカツオのタタキを食べる音と、感嘆の呻きだけが響く。

 イングリドの頬を、一筋の汗が伝った。


「……まぁ、子供はいろいろ食べて大きくなるのが一番かね」


 過去を持ち出されてはさしものイングリドも弱い。

 こうしてカミラはサシミを食べても良いことになり、時々こっそりノブに来るようになった。


 あまりに美味しそうにサシミを食べるカミラに影響されてイングリドがカツオのタタキを食べてみるのは、また別のお話。


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― 新着の感想 ―
 さっと日から上げ ✕  さっと火から上げ ○
[良い点] のぶのエピソード、史実ベースで解説したら、歴史の面白さ知ってくれる人多そうだよね。
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