キスの日(後篇)
キス、というシノブの言葉に、店内の客が一斉にぎょっとした表情で振り向いた。
居酒屋ノブは飯も酒も美味いが、シノブ目当ての客もいる。常連客の中でも独身男性のほとんどはシノブに給仕をして貰えるからこの店に来ていると言ってもいい。
そんな中でキスなんていう不穏当な言葉が飛び出せば、店の中が騒然とするのも無理からぬことだった。
「き、キスの日?」
「そう、キスの日! 私、キスに目がないんですよ!」
今にも踊り出しそうな表情でそう言われてしまうと、ハンスもつられて苦笑いを浮かべてしまう。
キスの日とは何なのか。意中の相手と接吻を交わす祭りのことだろうか。
そういえばこの店のものは異国情緒に溢れている。異教の地には、ハンスには思いもよらない不思議な習慣があるのかもしれない。
ハンスの背にじわりと嫌な汗が滲む。
衛兵の隊舎の隣に小さな教会があり、そこに新しい助祭が赴任して来たばかりなのだ。見るからに堅物そうな老人で、話しかけづらい雰囲気がある。
そういう人が来たばかりの時に、教会絡みのゴタゴタに巻き込まれるのはあまり好ましくない。
「キスっていうのは、魚の名前だよ。ハンスさん」
見るに見かねたのか、タイショーが割って入った。表情はいつも通り読めないのだが、よく見ると口元が微かに震えている。多分、笑いを噛み殺しているのだろう。
白身の魚に布を掛けながらタイショーは続ける。
「キスっていうのは俺達の国では“喜びの魚”という意味合いの名前で、めでたい魚だ。刺身にしても美味いが、何と言っても天ぷらが格別だな」
タイショーの助け舟にほっとした雰囲気が店内に広がる。
おかしな異教の祭りに巻き込まれなかったのもありがたかったし、何よりも今日の料理には期待が持てそうだ。
「そいつは何とも縁起が良い名前だな」
「でしょ、その上とっても美味しいの!」
シノブがそう言うとどんな料理か知らなくてもついつい食べたくなってしまう。この娘は看板娘としての才能を天から授かったような娘だ。
「タイショー、こっちにキスの天ぷら一つ!」
「あいよ!」
先陣を切るようにハンスが注文すると、こっちにも、こっちにもと注文の手が上がる。みんな、目新しいものには興味があるのだ。
重なる注文に慌てもせず、タイショーは見事な手付きでキスに衣を付けていく。衣を付けて焼くコートレッタという料理なら古都にもある。
だが、これだけたっぷりの油で揚げる料理はあまり見ない。しいて言うならノブの名物でベルトホルト隊長の一番のお気に入り、若鶏の唐揚げくらいだろうか。
熱した油に泳がせると、キスはじうじうと美味そうな音を立てる。
その音がカラカラという音に変わるか変わらないかというところで、シノブがハンスの前に妙なものを持ってきた。
「シノブちゃん、器の上に置いてあるのは何?」
木で編んだ細工物の器の上に、シノブは薄っぺらな何かを敷いている。
「えっ、これは紙ですよ」
「紙? オレは少しだけ字が読めるけど、名前以外は書けないぜ」
「ああ、何かを書くためにお出ししたんじゃないんですよ」
「でも、紙って物を書くものだろ? 羊皮紙より高いって聞くけど」
羊の皮を使う羊皮紙と比べて、木を原料とする紙は軽い。その上、持ち運びがしやすいということで最近教会関係者や学者の間で広まり始めているという話はハンスも聞いたことがある。
「これを、器に敷くんです」
「シノブちゃん、そんなことしたら…… 勿体なくない?」
「大丈夫ですよ。こっちの方が天ぷらは美味しく食べられるんです」
他の客の器にも惜しげもなく紙を敷いていくシノブの後ろ姿に、ハンスは首を傾げる。まだ出回り始めたばかりの紙だ。こんな居酒屋が大量に仕入れることができるものなのだろうか。
「はい、キスの天ぷらお持ちどう!」
細かい疑念を打ち払うように、タイショーの声が響く。
キスの油が手際よく切られ、シノブがそれを皿に盛って行く。揚げたての衣はまだちりちりと小さな音を立てていて、いかにも美味そうだ。
「シノブちゃん、これはどうやって食べたらいいの?」
「天つゆに付けて食べてもいいですし、お塩で食べても美味しいですよ」
言われた通り、塩に付けてみる。
白身魚を揚げたものだから、味の予想はつく。それでもシノブが好物だというのだから、意外に美味しいのかもしれない。
サクリ。
一口食べてみて、その食感に驚いた。
カラリと揚がった衣と、中に包まれる柔らかな白身魚。
口の中に広がる未知の感覚に、箸が震える。
サクリ。
シノブが器に紙を敷いた意味が、今になってよく分かった。
この上品な味わいに、油は多過ぎてはいけないのだ。紙が油を吸い、絶妙な具合になっている。ここまで計算し尽くされた料理なのだ。
そして、トリアエズナマ。
この絶妙な食感と適度な油っ気がエールに実によく合う。
塩の上品な味わいを堪能した後は、天つゆにたぽんと漬けて口に運ぶ。
これも、美味い。
白身魚の繊細さを引き出すのは塩の方が上手だが、天つゆのしっかりとした旨味もキスの天ぷらによく合う。これならいくらでも食べられそうだ。
「タイショー、お代わり!」
「ちょ、ちょっとハンスさん! あんまりたくさん食べたら私の賄いの分が減っちゃうじゃないですか!」
シノブが泣きそうな顔になるが、これだけ美味いなら譲れない。
それどころか、周りの客もどんどんとお代わりの注文を上げていく。
「キスの天ぷら、こっちもお代わりね」
「こっちも頼む。大盛りでな」
「ちょっと待ってよ、皆! 私の賄いは? 私のキスの日はどうなるの?」
隅のテーブルには珍しく子供連れの客もいた。エールにもよく合うが、子供の好きそうな食べ物でもある。
タイショーがどれだけキスを仕入れているのか知らないが、シノブの取り分は随分と少なくなりそうだった。