おでんのじゃがいも(前篇)
「最近、古都でちょっと話題になっている店があるんだ」
そう聞いただけでハンスの腹が鳴った。
厳しい訓練の後である。
ハンスは安月給で雇われている古都の衛兵で、給料の中には訓練を受ける義務も含まれていた。お陰で多少は体つきがしっかりした気がしないでもないが、茶色の癖っ毛と大きな目の所為で、二〇を過ぎたのに年よりも少し若く見られる。
新しい百人隊長は傭兵上がりで、訓練は滅法厳しい。今日も今日とてハンスの隊は古都の城壁を出て田園を通り越し、アルブルクの森まで行軍してきたのだ。実戦さながらの訓練は評判が悪い。
が、それはともかく今は晩飯である。
何とも嬉しいことに今日は給料日で、ハンスの財布の重さも少しばかり頼もしい。
となれば安いばかりが売りの酸っぱいエールを出す馴染みの酒場に義理立てする必要もないだろう。噂になっているという店に足を伸ばすのに、躊躇う理由は無かった。
その店は古都でも辺鄙な場所に建っている。
それも、妙な店構えだ。
石造りの家々が軒を連ねる古都の中にあって、その一軒だけが漆喰と木で作られている。屋根は……帝都で流行りのスレート葺きなのだろうか。妙に波打っていて、不思議な趣がある。
そして、看板。
普通の店であれば街路に突き出すように青銅で作った看板を掲げるものだが、この店は大きな木の一枚板に、異国の文字で何か書きつけてある。
「おいニコラウス。あの看板、なんて書いてあるんだ?」
「ああ、何でも“居酒屋ノブ”って書いてあるらしい」
この店に案内してくれた同じ連隊の<ちょび髭>ニコラウスは何にでも詳しい。
「ノブ? 人の名前か?」
「ああ、ここのマスターの名前らしいな。ノブ・タイショー。店ではタイショーと呼んだらいい」
「へぇ」
ノブ・タイショー。
明らかにこの辺りの名前ではない。辺境諸部族の出身だろうか。
「ところでニコラウス。この店では何が食えるんだ?」
「分からん。日によって変わる」
「日によって? どういうことだ?」
肉を食わせるのか、魚を食わせるのか。店によって特色があって当たり前だ。酒の旨い店もある。全部が全部美味いなんていう店はあり得ない。
そもそも、この古都では料理自体があまり多くは無い。精々が腸詰とチーズとスープとシチュー。それに馬鈴薯、甘藍の酢漬け。
「ま、食ってみりゃわかるさ、ハンス」
「お前がそういうなら信じるよ、ニコラウス。毎日毎日兵営で馬鈴薯ばっかりだからな。馬鈴薯以外ならなんでもいいさ」
その時ハンスは妙な事に気が付いた。
(……これは、硝子か?)
木の引き戸は格子状になっているが、間に硝子らしきものが挟まっている。粗悪なのか曇って向こうが見えないが、父と兄が遍歴の硝子職人をやっているハンスには一目見て分かった。
「……おい、ニコラウス。本当に大丈夫なのか」
「何がだよ?」
「払いだよ、いくら給料日とはいえ……」
「なぁに、心配すんな。ここはな、ツケも効く」
心配そうなハンスの背中を叩きながら、ニコラウスが引き戸を開けて店内に入る。
「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」
店の中から響いてきたのは、二つの声だった。
初めの丁寧な方が、女。後の低い声が、男だ。
店内はそれほど広くなく、カウンターに六席と、テーブルが二つだけ。こじんまりと纏まっているが、明るい清潔感がある。運のいいことに、店内にはまだ客は一人だけだった。
ニコラウスは慣れた動作でカウンターの一席に滑り込むと、「トリアエズナマ! こいつにも、頂戴!」と注文する。
「おい、待てよ。何だよその、トリアエ……ってのは?」
「ああ、トリアエズナマな。騙されたと思って、飲んでみろよ。驚くからさ」
「飲む? 酒か?」
「ああ、エールだ」
エールか。
それなら、文句は無い。ハンスは食事の前にまずエールを飲むのが何よりも好きなのだ。
だが、その分好みにはうるさい。父と兄の仕送りで結構いいエールも飲んだことがある。まずいエールを出す店なら、料理が美味くても御免だ。
「はい、生二丁、お待たせしました。横から失礼しますね」
給仕役らしい女が、エールを硝子のジョッキで持ってくる。
ここにも、硝子。しかもこちらは透き通っていて、そのうえ形も整っている。並の業ではあるまい。陶器や木のジョッキでは分からないが、エールの透き通った黄色、いや、このトリアエズナマの場合は金色がよく見える。粗悪なエールとは違い、泡のきめもこまやかだ。ジョッキの表面の造作を確かめようとハンスは手を伸ばし、
「冷たい!」
思わず、手を引っ込めた。ジョッキが、冷たい。なんだこれは。
「はは、オレも最初は驚いたんだ。ま、取り敢えず飲もうぜ。乾杯!」
「お、おう、乾杯」
ニコラウスが旨そうに喉を鳴らすのを横目に見、ハンスは大きく深呼吸する。
冷えたエール、というのは未体験だが、一体どれほどのものか。
故郷にほど近い街で作られているケーニヒスブロイを越えているとは流石に思えないが。
ぐびり。
ぐびり。
ぐびり。ごくり。ごくり。ごくごくごくごく。
一気に飲み干してしまい、ハンスはジョッキを見つめる。
なんだ、これは。
美味いとか、美味くないとか、そんなもんじゃない。喉越し、キレ、全てが今まで飲んでいたエールと段違いだ。
「ん、どうだ、ハンス? 旨いだろう?」
「……牛の、小便だ」
「は?」とニコラウスが怪訝な顔を浮かべる。
「今まで飲んでいたエールは、牛の小便だ、と言っている!」
「うふふ、そんなに美味しかったですか? お次も生で?」と給仕が尋ねるので、ハンスは大きく頷いた。
「ああ、トリアエズナマ、をもう一杯!」
「はい、有難うございます。生一丁追加!」
ニコラウスは、と見ると、いつの間にか二人の目の前に来ている房入りの豆を美味そうにつまんでいる。
「おい、なんだそれは?」
「これはな、オトーシだ。豆の塩ゆでだな」
「豆か。皮を剥いてないのは、手抜きか?」
「いや、違うね。この皮に塩を振ってあるんだが、これを、こうして食べると……絶妙な塩加減になる」
「……ほほう」
試しに、一口。
皮から指で押しだした豆が、ぷちりとした食感と共に口の中に入る。
ぷちり、一口。
ぷちり、一口。
ぷちり、一口。
面白楽し美味しい。
これは、卑怯だ。例えばこのオトーシ豆が全部皮から出してあって、それを匙で掬って食べるのなら、こんな感動は無いだろう。
「ニコラウス、これは、止まらん」
「ああ、止まらんよな。美味いんだ、そしてこれが、トリアエズナマに良く合う」
「ズルいぞ、お前だけ!」
「はい、お待たせ致しました」
ハンスの要望を察したかのように、また冷たいトリアエズナマが運ばれてくる。
オトーシを口に運び、そのままトリアエズナマを飲むと、
「美味い!」
「だろう?」
何故か嬉しそうにハンスの背中をバンバンと叩くニコラウス。
素晴らしい。素晴らしい店だった。
このトリアエズナマという不思議な名前のエールがどこの醸造所のものかは分からないが、これは実に素晴らしい。
人心地付き、ハンスは店内を見渡した。
給仕係の女は、何もすることがないとすぐに店内のテーブルを拭いたり、コップを片づけたりと小まめに動き回る。
黒髪を後ろにまとめ、白い三角巾を被った姿は、なんともエキゾチックな魅力に溢れている。黒い瞳も特徴的だ。細面の割に体つきは肉感的で、それがどこもいやらしさを感じさせない。
対してカウンターの中に居る“タイショー”は、歴戦の勇者を思わせる。
同じく黒髪をほとんど爪の先ほどの短さで刈り揃え、食材を仕込む目付きはまるで常在戦場といった雰囲気だ。服装も独特で、やはり辺境の民なのだろう。
「そういえばタイショー、今日は何を食べさせてくれるんだい?」
ニコラウスの問いに、タイショーは顔も上げずに応えた。
「今日は、おでんだ」