喜劇の哲学
警視庁の清掃を請け負っている業者を調べ上げると、早速、そこでアルバイトをすることにした。俺は奇抜なことを遣って退けるつもりだが、何事にも綿密な予習が必要だ。誰も思いつかなかったことをするにしても、そこに確かな下地が存在しなければ上手くいくはずがない。仮に上手くいったとしても、それは運が良かっただけで本人の実力ではない。俺はそういったことが嫌いだ。自身の実力と努力に見合った報酬が得られた時にだけ絶え間なくエクスタシーに達することができるのだ。
清掃のアルバイトと同時にやらなければいけないことは山ほどある。一つは失踪した捜査官の調査だ。もう一つは武器の調達だ。どちらも根気のいる作業ではあったが、前者は思っていたよりも早く片が付いた。捜査官の名前は瀬戸猛、今年の春に警察学校を卒業した新人君だ。時空間移動を用いて過去に潜入し、そこで未解決事件の捜査をするなんて面倒くさいことを年配の捜査官がやるとはとても考えられない。そこで、警視庁の警察学校の卒業生を虱潰しに調べていたら判明したのだ。こんなに早く辿り着くとは思っていなかった。もしかしたら、俺には探偵の素質もあるのかもしれない、と言っても、各々の警察学校卒業後の配属先を調べただけなのだが。
この瀬戸猛という男には卒業後の配属先が記載がされていなかった。この男について同期の卒業生から聞き込みをしてみると、成績が優秀な男だったらしい。しかし、彼が今どこで何をしているのかを知っている者は誰もいなかった。この男が怪しいのは明白だ。増設した留置所にはこの男が監禁されているに違いない。
そして、武器の調達についてだが、これはそんなに難しいことではない。新宿駅にいるブローカーと話を付けるだけだ。帰るべき故郷を失った中国人の中には世界の崩壊を望んでいる者も少なくない。奴らからなら簡単に武器を仕入れることができる。決行日になれば分かることなので今は武器の詳細については伏せておく。どんな時もサプライズは大切だ。
シフトが警視庁の日は建物内の構造を頭の中に叩き込む。これはとても重要なことだ。警視庁内の構造が分からないことには何もできない。
留置所があるのは二階だ。警視庁の二階には見学施設『ふれあいひろば警視庁教室』があるが、見学施設側からは留置所に行けないようになっている。留置所に行くためにはエレベーターホールを通り過ぎた所にある階段を使わなければならない。留置所の出入口付近にまで行くことは簡単だが、そこは事務室でもあるので不審に思われる行動は避けなければならない。タイムトラベラーが監禁されていると思われる場所の情報は何も掴めていない。それ以前にタイムトラベラーだと思われる瀬戸猛のことも分からないままだ。ここからは実際に留置所に入る他ないだろう。俺は様々な女を騙してきたが、まだ留置所の世話にはなっていない。女は騙されているとは思っていないのだ。捕まるわけがない。一度きりの人生だ。留置所の中がどうなっているのかを知っておくのも悪くはない。警視庁内の大体の構造は把握できている。必要な物も手に入れている。後は増設された留置所の正確な場所を確かめるだけだ。
警視庁内の清掃業務が終わると、俺はリュックサックを担いで警視庁を後にする。それがいつもの流れだが、今日は違う。俺は二階の見学施設に寄ると、ダンボールに入れられた荷物を壁際に置く。荷物の詳細はまだ秘密だ。
俺は目だし帽を被るとロビーに向かった。ロビーにやって来ると、そこで担いでいたリュックサックを床に降ろす。そして、中に入っている自動小銃を手にする。これが中国人から仕入れた武器の一つだ。大した額ではなかったのだが、今は使われてない現金を用意するのは面倒だった。電子決済に完全以降してからは紙幣と硬貨は一般的には使われていない。しかし、裏社会では今も現金は使用されている。不法滞在をする外国人は社会保障番号を持たない、当然、マイナンバーカードも所持していないのだ。
本来ならここで「我らの同志を解放しろ」なんて台詞を叫ぶつもりだったが声を発するのは無理そうだ。誰も思いつかないような奇策を思いついたのは良いが、こんなことは二度としたくない。口を開けるだけでもさっき呑みこんだ物を戻してしまいそうだ。早く俺を捕まえてくれ。俺はそう考えながら自動小銃を天井に向け、その引き金を引いた。
目の前で工事が行われているかの様な騒がしい音が鳴り響く。それと共に強い振動が手から腕に伝わり、そして、それが肩に伝わると俺の上半身は自動小銃に支配されてしまった。今まで味わったことのない感覚だ。例えるなら、ペニスが絶え間なく射精し続けているといったところか。この感覚に陥っている間は俺の吐気も治まってくれていた。いつもなら不快に感じる耳障りな騒音も、この時ばかりは気になりはしなかった。
警視庁のロビーは一瞬にして騒がしくなる。そして、どこからともなく拡声器を通した男の声が聞こえてきた。俺はその男の指示に素直に従う。手にした自動小銃を床に落とすと、そのまま手を頭の後ろで組んだ。
ロビーの奥から機動隊が姿を現す。一時は騒がしくなっていたが、今は静寂に包まれていた。彼らはじりじりとこちらとの距離を詰めていく。そして、その距離が三メートルほどになると、背にしていた正面入口の扉が開かれたのが分かった。背後の様子を気配で察知できるほどに緊張感が保たれていたのだ。何人もの大人が背後に忍び寄っている。恐らく機動隊だろう。完全に取り囲まれている。俺を取り囲んでいる機動隊との距離が数十センチほどになると、俺の身体は一気に押し潰される。苦しい。今にも吐いてしまいそうだ。