魔笛の音
このお話はフィクションです
その世界には、魔笛と呼ばれる笛があった。
その世界にたった一本しかないその笛の奏でる音は、この世のものとは思えないほど美しいものだった。その音色に魅せられた者は数知れず、誰もが一度はその笛に息を吹き込みたいと思うだろう。だが、実際にその笛を手にしようとする者はほとんどいない。
その笛が魔笛と呼ばれる理由は二つあった。一つは、その美しき音色には誰をも惹き付ける魔性の力があること。そしてもう一つは、その笛は、必ず吹き手を不幸にすると言われているからだ。
今、一人舞台に立っている小柄な少年も、その話を知っていた。
少年がその魔笛の音色を聞いたのは、まだ子供の頃だった。少年はその笛の音色を聴いた瞬間に、その虜となった。少年は吹き手に何度も何度も頼み込み、やっとのことで弟子となった。そして、あれから何年もの時が過ぎた今、少年の手にはその魔笛が握られている。
木製の小さな黒い横笛に、少年はゆっくりと息を吹き込んだ。よどみなく息を吹き込み続けながら、流れるような速さで指を動かしていく。
伴奏などいらない。少年の奏でる音色は、ただそれだけで完成している。
客席は異様なほど静まっていた。誰一人として、言葉を発するものはいない。部屋には、ただ少年の奏でる美しい音色だけが響いていた。
曲はいよいよクライマックスへ。少年の指の動きがさらに激しさを増した。
テンポと同様に、少年の気分も高まっていく。彼の感情の波を表わすかのように、その笛は無数の音色を部屋中に響かせた。
少年は、かつてのこの笛の吹き手からあらゆる技術を学んだ。彼がこの笛を渡された時には、既に全ての面で前の吹き手を上回っていただろう。だが、少年は、ただ一つだけ教えてもらえなかったことがあった。
最後の1小節。少年は、全ての技術と気持ちを吐息に込めた。
演奏が終わり、一瞬の完全なる静寂が辺りを包む。そして、その静寂を撃ち破って、轟音のような拍手の嵐が少年を襲った。
少年は客席に向って優雅に一礼すると、魔笛を片手に舞台を後にした。
「素晴らしい!」
舞台袖には、この舞台の責任者である男が待ち受けていた。
「なんという美しい音色!言葉では言い表せない!」
男は感激のあまり、目に涙を浮かべている。
「前の吹き手に全く劣らぬ演奏、また是非ここにいらしてください!」
「ええ」
少年は短くそう答えると、魔笛を真っ黒なケースの中に大事そうにしまった。その顔に、笑顔はない。
「それでは」
少年はろくに挨拶もせず、舞台袖を後にしようと一歩踏み出した。
「お待ちください。お名前をお聞かせ願いますか?」
男は慌てて少年を引きとめる。少年は振り返ると、男を見て僅かに微笑を浮かべた。
「忘れました」