第三話:今さら戻ってこいなんて、どの口が言っているのですか? 〜聖女のいない国の末路〜
1:聖女の祈りが消えた日
王都を象徴する「白亜の噴水広場」は、今や阿鼻叫喚の地獄へと変貌していた。
「……な、なんだ、この臭いは!?」
カイル王子は、あまりの悪臭にハンカチで鼻を覆い、顔を歪めた。 かつて清らかな聖水が湧き出ていた噴水からは、今や粘り気のある、どす黒い泥水がドロドロと溢れ出している。水面に浮いているのは、死んだ魚と、得体の知れない腐敗物の塊だ。
「新聖女! ミラ! 早くこれを何とかしろ!」 「……っ、やってますわよ! でも、何度浄化の祈りを捧げても、すぐに黒く濁ってしまうんですもの……!」
新聖女・ミラは、必死に祈りを捧げているが、その顔は煤け、自慢の金髪は湿り気を含んでボロボロに傷んでいる。 彼女の魔力は、エルナが長年一人で食い止めてきた「土地の腐敗」を押し返すには、あまりに矮小で、あまりに脆弱だった。
「水だけじゃない! 西の農地も全滅だ! 騎士団の武器も錆びつき、魔物を倒せなくなっている! すべて、エルナがいなくなってからだ……!」
側近の報告に、カイルは初めて、背筋に凍りつくような恐怖を覚えた。 自分たちが「代わりはいくらでもいる」と捨てた女が、実はこの国の血管を流れる血液そのものだったのだと。
2.森の境界:氷の精霊
一方、王都の混乱とは対極にある、静寂に包まれた世界樹の森。 その境界線に、一人の男が立っていた。
「……あ、ああ……っ」
王都から派遣された伝令の兵士は、目の前の存在に圧倒され、腰を抜かしていた。 そこには、エルナの前で見せる「甘えん坊な精霊」の面影など微塵もない、死を具現化したような美しき神がいた。
セフィロスは、感情を一切排した黄金の瞳で、泥に塗れた人間を見下ろしている。 その周囲の空気は絶対零度まで冷え込み、彼が呼吸するたびに、足元の草花が凍りついては砕け散る。
「……我が主の眠りを妨げる、不浄な塵め」
「お、お願いだ……カイル王子が、エルナ様に謝罪したいと……! 国が滅びかけているんだ、どうか彼女を返してくれ……!」
兵士の悲痛な叫びを、セフィロスは鼻で笑うことすらしない。ただ、虫の声を聞くような無関心さで答える。
「滅びる? ……それがどうした。君たちの国が、泥を啜り、互いを食らい合って消滅しようと、私には関係のないことだ」
セフィロスはゆっくりと、兵士の喉元に指先を向けた。 その指先から漏れ出る魔力だけで、兵士の心臓は恐怖に止まりそうになる。
「あの子は、あんな汚らわしい場所で、何年も一人で戦っていた。感謝も、休息も与えられず……。……そんな連中に、二度とあの子の指先一つ触れさせはしない」
「ぐ、あああ……っ!」
「死にたくなければ、主に伝えろ。……『エルナという名の救いは、もうこの地上には存在しない』と。彼女は、私の愛で満たされるためだけに、この世に繋ぎ止められているのだから」
セフィロスが手を一振りすると、暴風のような魔力が兵士を森の外へと叩き出した。 森から弾き飛ばされた兵士の背後で、深い霧が立ち込める。 それは、世界との断絶。 エルナという唯一の希望を失った国への、残酷な死刑宣告だった。
◇◇◇
兵士を追い払った直後。 セフィロスの冷酷な表情が、ふわりと、恐ろしいほどの速度で溶解した。
「……おっと、いけない。エルナが起きる時間だ。早く戻って、彼女のために最高に美味しいお茶を淹れなくては」
独り言を呟く彼の声は、先ほどの死神のような響きとは無縁の、恋する少年のように甘い。 彼は鼻歌を歌いながら、エルナが眠る聖域へと、軽やかな足取りで戻っていく。
背後で、一つの国が滅びへのカウントダウンを刻んでいることなど、彼にとっては、推しの朝食のメニューよりも価値のないことだった。
3:欲望1000%隠蔽の「ぎりぎり甘えん坊」
夕食後、暖炉の前でくつろぐ二人。
「セフィロス様、今日は本当にありがとうございました。私、こんなに幸せでいいんでしょうか」
信頼しきった瞳で、無防備に微笑むエルナ。
セフィロスの内側では、「今すぐ押し倒して、その純粋な瞳を快楽で染め上げたい」という欲望が、限界まで膨らんだダムのように軋んでいた。
「エルナ……。少し、寒くないかい?」
「えっ? 私は平気ですけど……」
「困ったな。私は精霊だからね……主である君の体温を直接分けてもらわないと、今夜は凍えて消えてしまうかもしれない」
「ええっ!? そ、そんな! 消えちゃうなんて困ります!」
エルナは「恩人が消える」という恐怖に、自らセフィロスの腕の中に飛び込んだ。 セフィロスは、震えるエルナを「仕方ないね」という聖者のような顔で抱き寄せながら、その顔を彼女の首筋に深く埋める。
(……ああ。なんて柔らかい。なんて甘い。この細い首を、今すぐ噛みちぎって私の刻印を残せたら……!)
「あ、あの……セフィロス様? さっきから、首のあたりが、くすぐったいというか、熱いというか……」
「……気のせいだよ。私の『魔力供給』が、君に馴染もうとしているだけさ……。ねえ、もう少しだけ、強く抱きしめてもいいかな?」
エルナの「信用(100%)」と、セフィロスの「情欲(1000%)」が、一見平和なハグの中で激しく衝突する――。
4:愚王の算段、あるいは喜劇の幕開け
王立会議室。そこには、連日の「異変」でやつれ果てた重臣たちと、対照的に顔を真っ赤にして憤慨するカイル王子の姿があった。
「――ですから! エルナを奪い返せと言っているんだ!」
カイルが机を叩く。その横では、新聖女ミラがボロボロになった爪を気にしながら「そうですわよ、あたくしの魔力が足りないんじゃなくて、あのおブスが何か呪いをかけていったに決まってますわ」と、的外れな相槌を打っている。
「しかし、王子……。偵察兵の報告によれば、森には得体の知れない強力な精霊が……」
「精霊だと? 笑わせるな! どうせ、エルナの奴が魔物でも手懐けて、俺を困らせようと小細工をしているだけに決まっている!」
カイルは本気でそう信じていた。 自分を愛していた(と思い込んでいる)エルナが、自分を忘れるはずがない。あんな地味で取り柄のない女、俺以外に居場所があるはずがないのだ。
「あいつのことだ。今頃、暗い森の奥で、俺が助けに来るのを泣きながら待っているに違いない。『カイル様、私が悪かったわ、どうかお城に戻して』とな。……ふん、全く、手間をかけさせおって。少し反省させるつもりだったが、あいつも可愛いところがあるな」
「は、はぁ……」
重臣たちは絶句した。 国中の井戸が枯れ、農地が死に絶えているというのに、この王子はまだ「エルナの可愛いわがまま」程度にしか考えていない。
「いいか、騎士団を動かせ! 伝令が怯えていたあの『精霊』とやらも、我が国の国宝である『聖騎士の剣』の一振りで霧散するだろう。あれはエルナが昔、魔力をチャージしたものだからな! 彼女の魔力なら、彼女のペット(精霊)にも効くはずだ!」
カイルは、ドヤ顔で名案を口にした。 かつてエルナが、騎士たちが魔物に殺されないようにと、自らの命を削って魔力を込めた武器。それを、彼女を連れ戻すための暴力として使う。それも「彼女の魔力だから効くはずだ」という、あまりにも身勝手で歪んだ論理。
「準備しろ! エルナを連れ戻し、この泥水を浄化させ、俺に土下座して謝らせるのだ。……ああ、そうだ。戻ってきたら、三日三晩不眠不休で働かせてやる。それが王族を翻弄した罰だ!」
カイルは高らかに笑った。 自分の足元が、すでに崩れ落ちる寸前の砂の城であることにも気づかず、彼は「自分を愛する女を迎えに行く、慈悲深い王子」の役を演じきっていた。




