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壁の山  作者: 朝霧 瑠璃
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第八章:「守るための牙」

 村は、静謐だった。だが、静寂が過ぎるとき、人は必ず何かを覆い隠す。

 その『何か』は、まだ名を持たなかった。


 秋が深まり、朝の空気は冷ややかに澄み、村の塀を越えて山肌を滑り落ちる風は、どこか乾いた匂いを運んでくる。


 村の平穏はまだ続いている。だが、それは浅瀬の水面のように、僅かに揺れていた。風が吹けば、一気に波紋が広がる――そんな脆弱さを孕んだ秋の朝だった。


 畑の端で、朱莉が布巾を手に、干し肉の入った籠を陽に当てていた。熊肉の脂を確かめながら、丁寧に向きを変える。朱莉はそれを心得ているかのような手つきで、肉の向きを整え、ほのかに鼻を鳴らしていた。


「……朱莉さん。おはようございます」

 声の主は、細身で背の少し丸まった男――江波俊平だ。目だけは妙な慈しみを宿していて、――脆弱な心をそのまま映したような光を湛えていた。


「おはよう、俊平くん。干し網、そっちの角――お願い、いい?」

 朱莉の声は明るく、その中に甘さが混じっていた。


 俊平は、その声に応えるように動く。

『必要とされている』という感覚に、素直に引き寄せられていく。

「はい……もちろんです」

 俊平は網の端を持ち、ぎこちないながらも丁寧に朱莉の手元へ合わせた。


 朱莉はそれを、悪いことだとは思っていない。守られる位置にいることは、彼女にとって自然なことだった。ここでもそれは変わらない。むしろ外の世界より、人の弱みや心の揺れがむき出しになる分、使いどころはいくらでもある。


「ねえ、俊平くん。今日、罠の見回りでしょ。気をつけてね。最近、熊の気配が濃いみたいだから」

「……朱莉さんに言われると、余計、背筋伸びます」

 その答えに、朱莉は、唇の端だけを上げて、満足げに微笑んだ。


 その様子を少し離れた場所で見ていた佐藤は、小さくため息をついた眉間に寄せた皺は小さいが、視線は鋭い。(……また、誰かを『回してる』)

 けれど、朱莉にそれを直接ぶつけるほど、佐藤も無神経ではない。佐藤は、朱莉が悪意のないままに人の情を引き出してしまうことを、前から見ていた。朱莉の周りでは、いつの間にか感情が絡まり、渦を巻く。

 そうして村のあちこちに、目に見えない捻れが、少しずつ生まれていく。

 ――少なくとも今は。誰もそれを名指ししない。

 ただ、佐藤だけが遠くからその気配の気泡を見ていた。

 『平和』を維持するために、見て見ぬふりをする、それだけだ。

 

◆◆◆

 

 秋の陽は短く、朝夕の冷え込みは急に深くなってきていた。


 朝。村の食堂では、蒸した芋の湯気が立ちのぼり、炊き立ての粟粥がかすかに甘い匂いを放っている。鮎川は、その湯気の向こうで澪の姿を見つけた。澪は、痩せた肩をさらに小さくして、器を両手で包むようにしていた。小枝のような指が震えているのは、寒さのせいだけではない。


 近くに立った男の影に、澪の肩がびくりと跳ねた。年配の女が、何も言わずに背に手を添え、そっと撫でてから通り過ぎていく。


 朝比奈は、その様子から目を離せなかった。彼女が男に怯える理由――村ではほとんど語られていないが、その気配だけで十分すぎるほど伝わってきた。

(……俺も、あんなふうに人を追い詰めてたんだろうか)

 ゆるんできたはずの心が、またざらりと音を立てる。


 その数歩先で、朱莉が俊平と話していた。同じ空間にありながら、声の質はまるで違っている。


「俊平くん、それ……この前の小袋。ちゃんと使ってくれてるんだね」

「あ、はい……朱莉さんにもらったやつだから。ずっと、使ってます」

「うん、嬉しい!」

 ……甘ったるい語尾が、やけに耳に残った。朱莉の目尻が下がり、その表情が、俊平の胸に落ちていく。


 朝食を食べる澪を、榊原は少し離れたところから見守っていた。そこへ偶然、朱莉が背後を通りかかる。朱莉は澪に視線を落とし、ふっと表情をやわらげた。瞳の奥に浮かぶのは、同情にも優しさにも見える、よく整った光――。だが次の瞬間、その光の底で、別の色がほんのわずかに滲んだ。澪の反応を確かめるような、本人も気づかない微細な寄せ方。

 朱莉はそれを自覚しないまま、きれいに微笑む。


 榊原は、その一瞬を見逃さなかった。村長として人の表と裏を見続けてきた男の静かな違和感が、じくりと疼く。

(――この女は、また、波を立てる気か)


 夕方。畑の端で、佐藤は俊平と鉢合わせした。

「……俊平くん、今日は狩猟班じゃなかったんですね」

「あぁ……罠の場所、伊佐山さんに教わって……午後は畑の見回りっす」

 言葉の端々に、どこか落ち着きのなさが滲んでいる。朱莉との距離が縮まったことで、俊平の心の軸がふらついているのが、佐藤には分かった。

(……)

 けれど、佐藤は、人に踏み込むことはしない。ただ、心の奥で小石のような不安を転がすだけだった。


 その夜――。宿舎の灯りが落ちた後も、村のどこかが微かにざわついていた。人の気配がひとつ、またひとつ、見えない場所でぶつかり、こすれ合っていた。


 村に生まれた小さな綻びは、まだ誰にも深刻には見えていなかった。

 風は穏やかなのに、空気だけがどこか軋み、破れ目の前触れを孕んでいた。

 

◆◆◆

 

 俊平が最初に盗んだのは、村の倉庫に積まれていた干し肉だった。たった一片。

 だからこそ、引き返せるはずだった。

 しかし、その一片を手にした瞬間、胸の奥で何かが──

「まだやれる」「まだ誤魔化せる」という、昔馴染みの甘い声が、ぞわりと目を覚ました。

(……ああ、また、こういうことしてる)

 良心の痛みはあった。だが、それは薄膜一枚のようなもので、必要に迫られたという言い訳に触れると、すぐに裂けてしまうほど脆かった。


 その夜、俊平は自分の寝台に座り、そっと包みを開いた。干し肉の脂の匂いが立ちのぼる。配られる雑穀粥だけでは、腹を満たせなかった。ここに来てから、食べても食べても空腹が満たされず、常に何かを咀嚼していないと満たされなくなっていた。乾いた砂に水が染み込むように、胃に干し肉の油が染み込んでいく。

(……これだけでいい)

 そう自分に言い聞かせながら、包みを閉じた。


 俊平が目を閉じると、耳元で囁いた朱莉の声が蘇ってくる。

「俊平くんなら、できるよ」

 あの声音は甘く柔らかく、俊平の弱さにすっと溶けて入ってきて、気づかぬうちに、心の底の薄暗い部分を撫でていた。

 

◆◆◆

 

 異変は、ほんの小さな違和感から始まった。

 

 数日後の朝。鮎川が食堂に入ると、いつもより空気が重かった。誰も騒がないのに、木製の長机の間に漂う沈黙は、霜柱のようにきしりと軋んでいた。

「俊平、来てませんね」

「持ち場は?」

「畑の南側です。遅刻なんて珍しい」


 入口近くでは、朱莉が何も知らない顔で粥をすくっていたが、匙の動きだけが僅かにぎこちなかった。


 俊平が見つかったのは一刻ほど後、洗濯場の裏手の使われていない物置小屋の陰だった。

「江波、大丈夫?」

 佐藤が駆け寄ると、俊平は肩を震わせ、目を合わせようとしなかった。

「……すみません。ちょっと、気分が悪くて」

(金森のこと……か?)

「無理しない方がいい。今日は休もう」、佐藤が言いかけた、そのとき。

 空気が、すっと甘くなる。

 茶色の影が視界をよぎり、朱莉が近づいた。俊平を一瞬だけ見つめた瞳に、心配とも憐れみとも違う、説明のつかない薄い光が宿る。だがすぐに消え、彼女は心配そうな顔を作った。

「俊平くん、大丈夫? 顔色、悪いよ」

 俊平は唇を噛み、目を泳がせたまま言葉を失う。

(……これは、よくない)佐藤は思う。

 朱莉の甘い声の奥にある硬さは、本人ですら気づいていないのかもしれなかった。


 榊原は俊平を見舞ったあと、宿舎前で佐藤と並んで歩いた。

「……榊原さん、どう思われます?」

「俊平が揺れるのは自然だ。だが、問題は彼だけじゃない」

 榊原は木々を仰いで息をつく。

「村の誰もが影を背負ってる。弱いところへは、それが寄る」


「弱いところ……ですか」

 と佐藤が呟くと、榊原の視線が横へ流れた。澪が枝を拾い集めている。小さな背中は丸く、影が沈み込むみたいだった。

「澪は……」と言いかけた佐藤に、榊原が続ける。

「大丈夫だ。脆そうに見えるが、芯はある」


(芯、ね……)

 佐藤は思わず鮎川を探した。少し離れた場所で、鮎川が井戸の石列をぼんやり眺めている。そこには鈍い孤独が見え隠れし、佐藤の警戒心が小さく疼いた。

 

◆◆◆

 

 一週間後。その週の倉庫係が、干し肉の在庫に違いがあることに気づいた。冬を越せるかどうか、ぎりぎりの備蓄――一籠、棚から消えている。帳簿の数と合わない。冬の貴重なたんぱく源だからこそ、少ない量は一本たりとも無駄にできず、備蓄は厳密に管理されていた。記録表にズレが出たのは、これが初めてだった。倉庫係はすぐ村長に報告し、鍵と当番表を突き合わせた。

 倉庫は二重鍵で、週番と村長の鍵が揃わなければ開かない。開閉は記帳され、翌朝の棚卸でズレはすぐ露見する。


「先週の担当は誰だったっけ?」

「江波だったかな」

 その会話を耳にしたとき、佐藤の背筋を汗がつーっと伝った。(終わったな……)


 同日、昼。榊原が俊平の前に立った。

「江波。少し、話がある」

 俊平は震える手で膝を握りしめ、必死に言い訳を探したが、言葉にならなかった。沈黙がすべてを語っていた。


「……すみません……村長……俺……」

 榊原は怒鳴らない。怒りの色すら浮かべない。ただ静かに、俊平を見つめていた。


「お前は『必要な分を必要な人間に渡す』役を任されていた。村の要だ。だからこそ、これは許せない」

 俊平は俯いたまま動かなかった。

「今日中に荷をまとめ、村を出てくれ」

 その言葉はあまりにも静かで、逆に鋭く響いた。

(……)

 ふと、朱莉の顔が脳裏に浮かんだ。

(どうして……あの時、あいつの言うこと、聞いちまったんだ……)


 だがすぐに、(……違う。俺だ。俺が弱かった)という声が、小さく、苦く、胸の奥に転がった。

 

◆◆◆

 

 俊平は、誰にも見送られなかった。背中に小さな袋だけを背負い、東側の塀の跳ね橋を渡る。


 山の空気は重く湿っていた。木々は秋の紅葉を終えかけ、足元には湿った葉が敷き詰められていた。どうしたらいいのか、何処へ向かえばいいかのか、迷いながら、俊平は、山の中の川沿いを歩いていた。山の中の川沿い――給水目的のヒグマがよく現れる場所だ。


(……死にたくねぇ)

 初めて、心の底から湧いた生への欲求。だが、その願いは残酷にも裏切られた。藪の中で、ガサリ、と音がした。

 息が止まった。

 黒い影が、ゆっくり形を持って迫ってきた。


 ――ヒグマだ。


 俊平は後ずさりし、足がもつれ、湿った土に背中から倒れ込んだ。

「……嫌だ……! 嫌だ! 死にたくないっ……!」

 立つと自分の背丈以上もあるヒグマの右腕が斜めに振り下ろされた。肉が裂ける音。痛みが脳髄をひきちぎるように走った。目の前を、丸い物がぽんぽんっと転がっていく。


 ――ナンダコレハ?


 理解が追いつかない。

 咄嗟に、熱を放つ所を触る。左目が窪んでいた。

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ――ーっ!」

 叫びは、森に吸い込まれた。熊の影が覆いかぶさる。牙が見えた。


 その瞬間、俊平の視界はふっと白くなり、走馬灯みたいに記憶が流れ込んできた。


 ――薄い台所の灯り。

 ――寝息の荒い母の背中。

 ――ランドセルより先に、薬と請求書。

 ――学校の連絡網に、いつも遅れて入る自分の名前。


 母はシングルマザーだった。働いて、帰って、倒れて、また働く。いつの間にか、母を支えるのは自分の役目になっていた。中学はまともに通えず、高校も出席日数が足りずに終わった。中卒。

「次はちゃんと」――そう思うたび、現実は容赦なく生活費の顔をして押し寄せた。


 バイトを掛け持ちしても、家は浮かばない。帰宅すれば介護。眠る間もなく、朝が来る。そのうち、盗みを覚えた。最初は小さく、次は少し大きく。捕まって、謝って、誓って、また同じ場所に戻る。自分が弱いのは分かっていた。けれど、正しさより先に、今日の金が要った。


 ――そして、最後。

 「高額バイト」の言葉に釣られて、金のために手を出した。

 一度だけのつもりが、終わりだった。気づけば、刑務所。ここまで来て、ようやく分かった。


 いつも、小さな誘惑だった。それに、打ち勝つことが出来なかった。


(……俺は、何が欲しかった……?)


 涙がにじんだ。痛みのせいじゃない。悔しさでもない。ただ、ずっと言えなかった願いが、喉の奥から滲み出ただけだった。


 ――まともな家族。

 ――まともな生活。

 それを、「普通」に欲しかっただけなのに。


 俊平の体は、赤い落ち葉の上に沈み、秋の風が静かにそれを覆っていった。

 

◆◆◆

 

 同日、夕方。食事前に荷物を置きに宿舎へ戻った澪は、自分の寝台、枕の下に、見覚えのない小袋が置かれているのを見つけた。宿舎は二十の寝台が並ぶ大部屋で、布一枚の仕切りすらない。

 だからこそ澪にとって「枕の下」は、唯一、誰にも触れられたくない場所だった。


 澪の指がひどく震えた。恐怖の震えではなく、「知らない何かが自分の領域に入り込んだ」という、もっと根源的な反応。

 誰にも触れられたくない場所が、汚された気がした。

 急に動かなくなった澪に、隣の寝台の年配の女が声をかける。

「澪ちゃん? どうしたの?」

 澪は声を出せず、小袋を指差した。女の表情が固まった。


 ざわり、と空気が揺れた。


「……っ……これ……知らない……」

 声にならない声で震える澪。女が小袋を受け取り、開けると、中には干し肉が入っていた。


 そこに、朱莉が近づいてきた。

「……なにか、あったの?」

 そして、俊平の小袋を見て、驚いて声をあげる。

「これ、俊平くんの小袋じゃない? どうして澪ちゃんが持ってるの……もしかして、盗ったの?」


 言葉が落ちた瞬間、澪の視界が急に狭くなった。


 澪の周りに集まってきた女たちにざわめきが走った。


 ほどなくして、澪は、村長の小屋へ呼ばれた。

 

◆◆◆

 

 宿舎の外。村の空気は重く沈んでいたが、村人たちは、夕餉を囲んでいた。


 咀嚼の音だけが、やけに大きい。


 誰も騒ぎ立てない。だが、咀嚼の音が途切れ、視線だけが硬く交わった。俊平を追放した余波が、まだ続いているようだ。


 焚き火の明かりが、朱莉の顔を照らしていた。炎の光が頬のラインに沿って揺れ、彼女の瞳の奥を、赤く淡く染める。その横顔には、何も書かれていない。ただ、静かな影が、わずかに寄り添っているだけだった。

 

◆◆◆

 

 就寝時間前、朱莉は村長の小屋に呼ばれた。


(俊平の小袋の件は、澪で終わったはずなのに……どうして、次は私なの?)

 疑問を抱きながら、朱莉は村長の小屋へ向かった。

「お呼びでしょうか?」


 村長の小屋に入ると、入口近くの隅に澪とシスターが立っていた。そして――その奥。榊原の背後、壁際に、数人の男女が黙って控えている。各班の代表だ。目が合っても、誰も表情を動かさない。


 途端に、朱莉の背筋に悪寒が走った。

 横目でさっと澪を見つめ、顔を上げた朱莉は、榊原の鋭い、静かな視線に射すくめられた。


「……」


「単刀直入に聞く」

 榊原の声は低く、驚くほど静かだった。

「今日の昼から夕食前まで――一人になった時間はあるか」


 (……それだけ? まだ戻せる。……落ち着いて)

 朱莉は胸の奥で息を整えた。ここを勝ち負けで見ている自分に気づきもしないまま、困惑を滲ませる顔を作る。

「一人……ですか。トイレに行くときは、一人でしたけど」


「それ以外は、ずっとチームの連中と一緒だったか?」

「はい。もちろんです」


 淀みない。綺麗すぎる答えだった。榊原は頷きも否定もせず、少し間を置いてから言った。

「午後の休憩に、君が一度『消えた』と聞いている。その時間はどこにいた?」


(落ち着いて。言葉を揃える)

 朱莉は笑みを薄く保ったまま返す。

「トイレです」


「同じ時間に何人も使ったそうだが、君の姿は見ていないと言っている」

「個室に入っていたので……会わなかったんじゃないですか?」


 榊原は、そこで黙った。


 沈黙が長い。長すぎて、言葉が床に落ちたまま動かない。


 ――息が詰まる。

 沈黙が、朱莉の言葉を秤にかけている。


 朱莉は呼吸の回数だけを数え、背中に流れる汗をないものにした。

(大丈夫。今までだって、これで通った)


 ようやく榊原が息をつく。

「……では次だ。本当に、澪が盗んだと言い切れるか」

 三白眼に凄みが宿る。


 朱莉は即座に視線を小袋へ落とし、また榊原へ戻した。

「俊平くんのものを澪ちゃんが持ってた。……それが証拠じゃないんですか?」


「どうやって盗った?」

「……本人からもらうか、盗むか、です」


「その二つは、澪には難しい」

 榊原の断言に、朱莉の眉が跳ねる。

「なぜ言い切れるんです? 澪がそう言ったから、ですか?」


 榊原は答えを急がない。視線を澪に移し、短く問う。

「澪。話していいか」

 澪は眉根を寄せ、小さく頷いた。


 榊原は、言葉を選ぶふりをした。――朱莉の勢いを待つように。そして淡々と告げる。

「澪とは、入村した時点で取り決めがある」


 朱莉が息を呑む。榊原は続ける。

「自傷に及ばないこと。その代わり、村が見守りを切らさない。澪のそばには常に年配の女が付く。『手の届く距離』だ。男は近づかない。澪が一人になる時間を、意図して作らない。――これは俺の命令だ。取り決めを破れば、付き添い当番は即座に外される。澪の安全は、村の優先順位の最上段だ。金森。澪が『ひとりで動ける状況』は、ない」

 それは同情ではなく、村の管理として組まれた監督だった。情ではなく規則で守る――それが榊原のやり方だった。


 朱莉は反射で叫ぶ。

「でも……トイレは? トイレなら、一人になるはずです」


「ならない」

 榊原は声を荒げない。荒げないから、逃げ道が潰れる。

「トイレも同じだ。澪を一人にはしない。付き添いが外で待つ。女トイレに、男は立ち入れない」


 朱莉の喉がひくりと動く。

(……)

 自分で作った穴に、自分の足が落ちていく感覚。


 榊原はここで、初めて朱莉を正面から見据えた。

「むしろ俺は、君を訝しんでいる。……俊平と、よく二人で山へ行っていたな。――山菜取りだったか」


 朱莉の目に涙が浮かぶ。

(泣けば――)

「わ、私は盗ってません……!」


 榊原は静かに言った。

「盗ったのではないのだろう」


 朱莉の顔がぱっと明るくなる。

「信じてくださっ――」


「俊平に渡されて、受け取った。あるいは突き返された」

 榊原が遮る。朱莉の表情が凍る。

「その小袋は、君が作って俊平に渡したものだろう」


 沈黙。


 朱莉の頭の中で、昼食後の一瞬が再生される。俊平は、昼食後、干し肉の入った小袋を朱莉に返してきた。視界の端に男たちの影が見えた。突き返せず、咄嗟に隠した。午後、追放の話を聞き、焦って置き場を探した。

(澪なら……波風が立たない。……黙ってくれる)

 そう思ったのは、悪意というより、都合のいい弱さを当然のように使う癖だった。


 榊原は、もう結論の目をしていた。

「金森。今日中に荷をまとめ、村を出てもらう。……俺だけで決めたことじゃない。班長会で決を採った」

 背後で、各班の代表が黙って頷いた。


「っ……! ですが、もう夜です!」

「夜がどうした。村のルールは知っているだろう」

 朱莉は膝から崩れ、両手を握りしめて縋った。

「お願い……私じゃない。信じて……!」

 床に額をつけ、拝み倒すように、涙ながらに訴えた。


 泣き声は大きくなる。額が土に触れる。必死さは本物だった。けれど榊原は揺れない。

「金森。そういうのは通用しないと、前にも言った」


 朱莉が足に縋りついても、榊原は振り払う。扉の外へ向かいながら、淡々と指示する。

「門の外まで送れ」


 決定は動かない。守るための牙が、一枚、村の側へ倒れた。


 荷物をまとめる間、朱莉は、涙が止まらなかった。どうにかして村にとどまれるようにならないだろうかと考えを巡らせて、周りにいる女たちに、わたしは何もしていないのにと涙ながらに訴えていたが、あまりの遅さに痺れを切らした女たちは、さっさと朱莉の荷物をまとめ、彼女もろとも北門へ引きずっていき、村の外へ押し出した。跳ね橋はすぐに引き上げられ、内側から錠が落ちた。外からは、門は開けられない。


 目の前に広がる、黒い暗闇と、奥に潜む獣の気配、押しつぶされそうな恐怖が朱莉を包んだ。

 

◆◆◆

 

 夜半前、村を追放された朱莉は、その夜は柵の傍で夜を明かした。


 夜の山は恐ろしい。


 ヒグマがいる、半グレ集団もいる、見通しのできない夜に山に入るのは危険だ。柵の近くに座った朱莉は、夜空に広がる星々を虚脱に見つめていた。

(どうしてこうなってしまったんだろう……わたしは、ただ自分の場所を守ろうとしただけなのに)


 夜明け、水炊き場からあがる白い煙が見えた。


 そして東側の跳ね橋が降りると、女たちが十人ほど、籠を抱えて川へ向かった。朝の冷えた空気の中、朱莉だけが妙に明るい声で追いつく。


「おはようございます」


 返事はない。水音と、洗濯板を叩く音だけが続いた。川辺では澪が黙々と手を動かしていた。灰汁を溶いた桶の水に、澪は布を沈め、何度も揉み、擦り、汚れを落としていく。指先は赤く荒れ、ひび割れた皮膚に灰汁がしみても、顔色ひとつ変えない。目線は布から外れず、誰の方も見ない。


 朱莉はその輪に入り込もうとし、籠に手を伸ばした。その瞬間、籠がさっと移動された。朱莉の指は空を掴む。


「……私も手伝いましょうか?」

「いい」

 短い声が落ちる。言葉は冷たくも熱くもなく、ただ拒否だった。


(ここで引いたら終わる。村へ戻れない)

 朱莉は笑みの形を崩さないまま、一歩近づく。


「あの……誤解があると思うんです。少しでいいので、話を――」


 女たちは会話をしないまま、手際よく洗い終え、籠を持って立ち上がった。朱莉は慌てて追いすがる。

「一緒に仕事して、暮らしてたじゃないですか。……私の話、聞いてください」


 朱莉が一人の袖を掴んだ。

 女が足を止める。

(よし、今だ!)

 朱莉が大きな瞳に涙を浮かべる顔を作りかけた、その前に、言葉が刺さった。


「また、そうやって同情を引く気?」


 朱莉の喉がきゅっと鳴る。

「同情……? そんなつもりじゃ――」


 別の女が、朱莉の言葉を遮った。

「あんたが来たばかりの頃、トイレの前で泣いてたこと、覚えてる?」

「……えっと、それが何か……?」


 女はまっすぐ朱莉を見据えた。目は怒りで熱くない。冷えている。

「同情を引くつもりがないなら、なんで個室じゃなくて、わざわざ洗面台の前で、わざわざしゃがんで、わざわざ人の目に留まる場所で泣いてたの?」


 朱莉は言葉を失った。自分ではただ辛かっただけのはずなのに、相手の口から並べられると、妙に形が整ってしまう。


 袖を掴まれていた女が、朱莉の手を振り払った。

「わたしらを巻き込まないで。俊平にも、去年追放された男にも、同情はする。――でも、あんたにはできない。人を、あんたの不幸の材料にするからだよ」

「あんたが泣けば、周りの手が止まる。止まった分の尻拭いは、いつもこっちだ」

「それで最後に冷たい女だのいじめだの言われるのも、こっち」

「去年追放された男もそう。あんたを庇ったあと、悪者にされて、最後は切り捨てられた」


 朱莉は呆然と立ち尽くす。澪は少し離れたところで、相変わらず灰汁水の中で布を揉んでいる。袖をまくった腕には、火傷で爛れた皮膚と多数のリストカットの跡、手の甲は赤く荒れていた。けれど澪は、誰の目も引こうとしない。痛みを見せびらかさない。助けを求める声も出さない。ただ、今日の分を洗いきる。


 別の女が吐き捨てるように言った。

「泣きたいことなんて皆あるよ。でも、わたしらは誰の視界にも入らないところで泣く。仕事の手を止めさせて、周りを悪者にしてまで守られようとはしない」


「そういうつもりじゃないです」

 朱莉は反射で言う。自分でも、本気でそう思っている。

 ――わたしは同情してなんて頼んでない。


 女は手をひらひら振った。

「頼んでない、じゃない。あんたは頼まなくてもそうなる場所に立つんだよ。ある意味、天性の才だね」

「自分の為に人を陥れても平気なやつは、それが許される所へ行きな」


 女たちは去っていった。朱莉だけが取り残される。川辺に戻ると、澪とシスターがまだ洗濯を続けている。澪が灰汁水を替えていた。手のひびに薄い黄色の液が染み、澪の指が一瞬だけ止まる。それでも澪は顔を上げない。痛みを飲み込み、また布を揉み始める。


 ――陥れる? 騙す? ……私が?

 朱莉は理解できないまま、喉の奥が熱くなった。不意に、昔、会社のトイレの洗面台の前で泣き崩れた自分の姿がよぎる。理由は思い出せない。ただ、その後周りが優しくなったことだけが残っている。


(私は弱いんだから、守られて当然……)

 そう思った瞬間、朱莉の足元の地面が、ひと呼吸だけ冷たく沈んだ。


 朱莉は、わけがわからなかった。

 

◆◆◆

 

 村を追放されて二日目。腹を空かせた朱莉は、食べ物を探しに山に入った。北側は危ない。半グレ集団が住処にしている。西側は墓だ。東側へ足を進めた。


 わかっていたことだが、今年の山には、食べ物がない。それでも、覚束ない足で、森の中を歩き続けた。


 夕暮れが迫った頃、背後から複数の足音が聞こえた。ビクッとして足を止める。振り返ると、目の前に半グレの男が三人立っていた。

(北側には近づいてないはずなのに……どうして、あいつらがここに!)

「おい……なんだぁ、いい獲物じゃねぇか」

「ひっ……来ないでっ!」

 朱莉は大声で叫んで逃げた。だが秋の落ち葉は滑りやすく、足がもつれて倒れる。


「やめて……やめて……!」


 泣き叫ぶ朱莉の声は森に吸い込まれた。


 その夜、朱莉は半グレの拠点に連れ込まれた。

 

◆◆◆

 

 洞窟の中に充満する、草を焦がしたような甘い紫煙。男たちの笑い声。


「……山頂の岩場に、まだ残ってたのが運がよかったな」

 誰かがぼそりと言って、喉の奥で笑った。もう一人が、小さな布袋を指先で弄ぶ。中身は、山頂付近で見つけた大麻を乾かしたもの。布越しに、甘い匂いがわずかに漏れている。短いパイプが暗がりで鈍く光り、火が走るたびに紫煙が膨らむ。煙は洞窟の天井に溜まり、逃げ場を失って、空気そのものを甘く重く変えていく。


 朱莉は、寒さと息苦しさで目を醒ました。

 

 ――苦しくて、息ができない。

 

 喉がひりつき、胸の奥がきしむ。咳を噛み殺そうとしても、甘い煙が肺にまとわりついて離れない。

 笑い声が跳ね、パイプが誰かの手から誰かの手へ、当たり前みたいに回っていた。


 朱莉は、喉の奥が焼けるように痛くて、目を開けた。甘い煙が洞窟の空気を塗り替えていて、吸うたびに肺が重くなる。胸がきしみ、咳が漏れそうになるのを必死に噛み殺した。

 視線だけが、どこにも落ち着かなかった。

 誰かの笑い声。その笑いが、朱莉の方へゆっくり傾いてくる。


「起きたか」


 声が近い。暗がりに人影が屈む。朱莉は反射で、助けを求める言葉を探した。いつもなら、言葉より先に表情が動く。だが煙で喉が塞がり、声が擦れる。


「……お願い、私……」


 男は朱莉を見下ろしたまま、表情を変えない。可哀そうを受け取る顔じゃなかった。ただ、品物の傷を確かめるみたいな目。


「泣くな。うるせぇ」


 それだけ。慰めも、同情も、怒鳴りもない。命令ですらない、雑な遮り。

 朱莉は息を吸ってしまい、甘い煙が胸の奥に絡みついた。咳が噴き出し、体が折れる。涙がにじむ。けれど、それは武器にならない。誰の表情も動かない。


「門の刻限。跳ね橋。見張りの交代」

 男は指を折るみたいに言った。

「知ってんだろ。言え」


 朱莉は口を開いた。言葉が出ない。頭の中にはあるのに、恐怖と煙で喉が詰まって、声にならなかった。


 男が舌打ちする。

「使えねぇな」

 その一言が、朱莉の身体の芯まで冷やした。


 守られる前提が、ここにはない。弱さを見せても、誰も困らない。泣いても、誰も止まらない。


 男が朱莉の顎を指で持ち上げた。乱暴でも優しくもない、ただの確認。

「お前、札が付いてる。――追い出された女だ」


 朱莉の胃が冷える。札。人としてじゃなく、用途として見られている。


「……知らない……」

 絞り出した声は、ひどく小さかった。


 男は肩をすくめた。

「なら思い出せ。……外に出たきゃな」


 朱莉は唇を噛み、声を止めた。泣いても通じない場所で、泣く以外のやり方を持たないことだけが、煙より濃く胸に沈んでいった。


 叫ぼうとしたが、うめき声にしかならない。意識の有無に関わらず、何度も殴られ続け、すべての感覚が麻痺してしまっていた。残された感覚、思考の中で、朱莉は、『わたしは、ただ幸せになりたかっただけなのに』と呟いた。


 意識が薄れると、朱莉の中で映像だけが先に流れ始めた。


 高校の頃、両親が離婚した。母は朱莉と妹を抱えて働きに出たが、正社員にはなれず、生活はいつも綱渡りだった。そのたびに母は言った。

「正社員になりなさい。正社員でなければ、意味がない」


 その言葉が、朱莉の背骨になった。

『正社員』でいること。立場を守ること。守るためなら、使えるものは何でも使う――そういう生き方が、いつの間にか当たり前になっていた。


 結婚のために、事務職へ転職した。離婚だけはしないと決め、家事も育児も全部引き受けた。笑顔も、我慢も、丁寧に積み上げた。夫の帰りが遅くても、疑わないふりをした。疑えば、壊れるから。


 娘が七歳になった頃、夫が言った。

「……重い。尽くしてるんだから愛してくれ、って感じが」

 その瞬間、朱莉の中の地面が抜けた。泣き落としは効かなかった。縋っても、戻ってこなかった。


 だから最後に、家族を取り戻す形を提案した。旅行。三人の家族旅行。笑って、写真を撮って、楽しいはずだった――のに、帰り道、車は不自然に蛇行し、反対車線のトラックとぶつかって炎上した。


 ただの事故。そう処理されるはずだった。けれど、防犯カメラが残していた。コンビニで、コーヒーに粉を入れる手元を。涙でごまかせない場所に、証拠だけが置かれた。


(……死出の旅だったのに)

(うまくいくはずだったのに)

(どうして、私だけ――)


 村で榊原に言われた声がよぎる。

 ――『ここではそういうのは通用しない』


 そういうの。同情。涙。弱さ。守られる顔。朱莉はそれを武器だと思っていない。ただ、そうするのが生き残る形だっただけだ。


 そのとき、佐藤の言葉が耳の奥で木霊した。

 ――人を陥れたら、その分、形を変えて自分に還ってきますよ。


 (……陥れる?)

 朧な意識の底から、会社の光景が浮かぶ。


 朝、出社すると、前日に作ったはずの書類が消えていた。その日の朝に打ち込まなければならない、大事な書類。遅れれば能力を疑われる。正社員の席が揺らぐ。朱莉は焦りを怒りに変え、矛先を探した。

 アシスタントチームのリーダーに、前から気に入らなかった同僚の女の名前を真っ先に伝えた。

「――あの人が、私の書類を隠したんだと思います」

 周りの視線がその人に集まり、空気が固くなる。朱莉はその固さに、ほっとした。

 年末の大掃除。デスクキャビネの裏から、消えたはずの書類が出てきた。自分が落としただけだった。朱莉は、何も考えずにシュレッダーにかけた。

(大丈夫。見られてない。言わなければいい)

(私は、悪くない)


 ……これが、陥れていたってこと?違う。違うはず。私は間違ってない。私はただ、正社員の立場を守りたかっただけ。家族を、生活を、守りたかっただけ。


 ――私は悪くない。

 ――悪いのは、離婚を言い出した夫だ。

 ――悪いのは、私を捨てる世界だ。


 最後に浮かんだのは、家で穏やかに食事をしていた夫と、幼い娘の横顔だった。あの光景だけが、手を伸ばしても届かない場所で、静かに揺れていた。


 そして数日後──朱莉の体から、ふっと力が抜け、大麻の煙に溶けるように静かに崩れていった。森に光る星が一つ、静かに沈んだ。


 男が、冷たくなっている朱莉を発見した。

「うぇっ! こいつ死んでるっ!」

「外へ捨ててこい」

「風下へ捨ててこいよ! 熊に食わせりゃ、痕は薄くなるからな」

 

 投げられた朱莉の体は、山の急斜面を転げ落ちていった。

 

◆◆◆

 

 一日に二人、村を追放された夜。

 鮎川は、寝台に横たわりながら、闇に浮かび上がる天井をじっと見つめていた。

(穴だらけだ。あんな手じゃ、潰しきれねぇ)

 

 ――そうだ。完璧じゃなきゃ。

 

 眠りに落ちる寸前、弁護士の淡い声が戻ってきた。

『同僚の方々が……あなたの弁護は断ると。関わりたくない、と』

 胸の奥が、冷たく跳ねた。――拒絶されたのは、初めてじゃない。

(……クソッ)


 鮎川は、決意を新たにしながら、眠りの底に落ちていった。

 

◆◆◆

 

 佐藤は、俊平と朱莉が起こした「綻び」を思い返していた。

(……小さな綻びほど、危ない)

 一度壊れてしまった心が、ここに来てから五年の間に、瘡蓋が薄くなってきているのを感じていた。ただ、それは、綻びを見つけたら補完していたからなのだ。

(でも、まだ大丈夫だ。村の空気は……まだ破れてない)

 ――だが、裂け目は確かに生まれている。

 その裂け目の奥で、何かが、静かに息をしているのを、佐藤は感じていた。


 裂け目を塞ぐのは、言葉じゃない。守るための牙だ。一度むき出しになった牙は、もう簡単には引っ込まない。

 ――それは、諸刃の刃だ。


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