第七章:「森が増えたわけじゃない」
季節がひとつ、鮎川を越えていく。
春は、気づけば夏へ溶けていた。鮎川は、畑の土を触った瞬間に、湿り気の抜け方、指に残る温度でそれを知った。鮎川の生活は、確かに変わりつつあった。最初はぎこちなかった畑仕事も、土の硬さや水の入り具合で、野菜の機嫌が読めるようになり、鍬を握る手の皮は厚くなった。朝の光の色、昼の風の重さ、そして夕暮れの影の長さを、わかるようになった。
外の世界では意味を持たなかった感覚が、ここでは一日の輪郭をつくっていた。
佐藤は相変わらず、相手を追い詰めない話し方をしていた。
「今日は狩猟班が遅いですね。夕方の風が強いと、どうしても獲れません」
そう言いながら、彼は作業小屋の掃除をしながら言った。
――誰かのために、ただ手を動かす。
その行為が、妙に心を鎮め、息を調えてくれることを、鮎川の中に芽吹きはじめていた。つい、この村に入った本来の目的を忘れそうになる。そのたび、鮎川は心の奥で自分を戒めた。弛んだときほど、足元は脆弱になる。
◆◆◆
夏の終わりごろ、鮎川は澪の姿をしばしば目にするようになった。
野菜を抱えて移動する背中。洗濯場で、年上の女たちに混じって手を動かす横顔。小柄な細い体で、誰かの仕事を懸命に支える姿。
澪は、まだ鮎川の近くには寄らない。だが、逃げるような怯え方は、少し減った。
近づかない。目も合わせない。ただ、逃げなくてもいい距離なら、立っていられる。その、わずか数歩の変化が、鮎川の胸を衝いた。
(……俺のせいじゃねぇ)
それでも、何かが蟠る。喉の奥に、言葉にならない違和が残る。
――ダカラ?
自分の中で、誰かが問いを投げた。答えは出なかった。
◆◆◆
秋の風が吹きはじめると、村は目に見えて慌ただしくなる。
春から育てた野菜の収穫。芋類と薬草が籠に詰められ、次々と運ばれていく。
鮎川も、力仕事を自然にこなすようになっていた。井戸まで水を運ぶ肩の感覚、薪割りのリズム、干し野菜を吊るす縄の手触り。それらが日々の中へ馴染んでいく。
榊原が、作業の合間にぽつりと言った。
「……お前の手並みは、もう村の者と変わらん」
その言葉に、鮎川の胸の奥で、小さな波紋が揺れた。褒め言葉でも、評価でもない、ただの事実。それだけで、この場所の空気が少し暖かく感じられる。
――こういう時が一番ヤバい。気ィ抜くな。
心が緩むと、必ず綻びが出る。
◆◆◆
秋が深まるにつれ、村にはいつもの備えが始まる。
山の気配が変わる。
風が鋭くなる。
川の水が冷たさを増す。
佐藤が、薪小屋で束ねた薪を抱えながら言った。
「そろそろです。ヒグマが降りてくる時期に入ります」
その一言で、鮎川の背中に冷たいものが這った。森で追い詰められた、あの日の記憶。巨大な影、獣の匂い、息がかすめた音、死が、皮膚の内側から迫ってきた感覚が蘇る。あの記憶が、今も身体の奥に貼りついたままだ。
榊原も静かに告げた。
「この季節は、山の掟が牙を剥く。気を引き締めろ」
それは、警告ではなかった。ただの事実の確認だった。生と死の境界が、季節とともにやって来るというだけの話。
その夜、鮎川は眠れなかった。
村の生活音は消え、風が壁を撫でる音だけが暗闇を渡っていく。
(外に出る手段……探しに来たはずだろ)
春から積み重ねてきた日々が、静かに胸の中で形を持ち始めていた。だがその形はまだ脆く、季節の風に触れただけで揺れてしまう。
◆◆◆
秋の終わり、空気がきりりと鋭くなった頃だった。
鮎川が薪割りをしていると、山からガコンッという機械音が響いてきた。山へ入る唯一の手段、エレベーターが到着した音だ。
しばらくして、昼食準備の湯気と匂いが立ち上った頃、村の近くの木々が異様にざわめいた。風の流れではない。もっと重たく、根の下まで震わせるような揺れ。
北東の見張り台にいた伊佐山の低い声が響く。
「来たぞ! 今年の最初だ!」
その声に、村人たちの背筋が同時に緊張する。畑にいる者も、作業小屋にいる者も、無言で手を止めた。佐藤が鮎川のそばへ来て、少しだけ声を落とした。
「今年は……ヒグマの『投入』が早いですね」
――投入? なんだそれは。
「『投入』って……どういう意味ですか?」
ああ、という風に、佐藤は続けた。
「外の世界じゃ、秋から冬前に街へ近づいた熊を捕まえて、山に戻すって言うでしょう。けど、殺せば反発が出るし、ヒグマが増え続けるのも困る。だから――戻したって体裁のまま、ここへ運ぶんです。四方が壁で囲まれてるから、外には出られない。……要するに、不要物処理場。ここは、そういう場所です」
――不要物処理場。
「……そうなんですね」
その言葉が、胸に落ちた。鮎川は、笑えなかった。
――不要物。
それは、今の自分のことでもある。鮎川は、自嘲した。
その表情を見て、佐藤は言葉の続きを飲み込むように、目を伏せた。
「……どうして、そこまで知ってるんです?」
鮎川が問うと、佐藤は声を落とした。
「ここには、元は施設側だった人間もいます。管理の末端とか、運搬に関わった人とか……口の堅い人も多いけど、命の話になると、情報は回る」
それから、いつもの明るさに戻すみたいに言った。
「知らないふりをして、誰かが死ぬのは嫌なんです。……僕、そういうの、苦手で」
――平和主義。
その言葉が、鮎川の中で遅れて形になった。
(……ああ、こういうやつか)
◆◆◆
「狩猟班、準備だ! 男は全員、東の塀へ集まれ!」
伊佐山の声に、村が一斉に動く。佐藤も、そして他の男たちも、ほとんど反射のように動き出した。鮎川の体も、考える前に反応していた。ただ、恐怖を抑えるためではない。あの日の延長線上にある現実を、逃げずに見ようとする小さな意地のようなものだった。
「鮎川さん、行けますか?」
佐藤の問いに、鮎川は短く答えた。
「……行きます」
言った瞬間、胸の奥が軋んだ。それでも、足は止まらなかった。
肌にあたる空気が牙をむいているようだ。
◆◆◆
東側の丸太塀の見張り台では、既に数名が山の方向を凝視していた。
遠方の木々の間で、黒い影が、ゆっくり揺れていた。風で揺れる枝とは、明らかに違う動き。
伊佐山が弓を引き、佐藤が槍を構える。江波は、やや震える手で短い刃物を握っていた。
「いいか、いつもの手順だ。慌てるな」
伊佐山の声が、張り詰めた空気を切り裂く。鮎川は呼吸を忘れそうになりながらも、前方に目を凝らした。
――静かだ。
音が、消えた。
次の瞬間、影が、木々の間から現れた。
巨大な塊。湿った黒い毛並み。息を吐くたびに土が揺れる重さ。その背中には、泥と枯葉が貼りついていた。
(……同じだ)
鮎川の喉が、ごくりと鳴った。影――ヒグマは、大地をゆっくり踏みしめ、村の匂いをかぎながら進んでくる。ヒグマが、丸太塀のすぐ前まで来た瞬間、伊佐山が低く叫んだ。
「伏せろ!」
風を裂く音。矢が放たれ、ヒグマの肩に深く刺さる。
怒りの咆哮が、村中に響き渡った。地面を震わせるほどの、獣の叫び。
江波が悲鳴を上げかけたのを、佐藤が腕で押さえた。伊佐山が続けざまに二本目の矢を番える。しかしヒグマは、痛みをものともせず突進した。鮎川の視界の端で、佐藤が槍を構えて叫ぶ。
「右、来ます!」
伊佐山が応じ、男たちが一斉に散った。
二メートルの巨体で軽く空堀を飛び越え、その勢いのまま、丸太塀にぶつかる。
丸太塀が激しく揺れた。打ちつけられた衝撃で、空堀の土がぱらぱらと崩れ落ちる。ヒグマは、塀に爪を立てしがみつき、わずかに突き出た丸太の継ぎ目に力をかける。
「まずい……!」
佐藤の声に、緊張が一斉に走る。
丸太がきしむ音が、腹の底に響いた。
もし丸太が一本でも折れれば、村の中へ雪崩れ込む可能性があった。鮎川の胸が凍りつく。
――村が、破られる。
その瞬間、伊佐山が地面を蹴った。
「下がれ!」
矢が三本、正確に、ほぼ同じ角度でヒグマの首元へ突き刺さった。
咆哮が、空気を跳ね返す。獣の体がよろめき、地面へ倒れ込むまで、ほんの一瞬だった。
静けさが戻る。
佐藤が小さく呟いた。
「冬眠前は腹が減ってる。迷いがないぶん、いちばん厄介です」
その一言が、鮎川の身体の奥へ冷たい針のように刺さった。
冷たい風が、血の匂いを遠くへ運び去っていった。
◆◆◆
ヒグマが倒れてから数刻が経つと、村の空気は、ようやく人間の温度を取り戻し、元の生活の続きが始まった。
解体班が呼ばれ、朱莉たち女が川下へ向かっていく。血抜きの作業へ向かう背中は、恐怖ではなく生活の作業そのものだった。
鮎川も、佐藤と共に丸太塀の補強にまわった。あの衝撃で浮いた部分や、継ぎ目の緩んだところを、黙々と締め直していく。佐藤がロープに力を掛けながら、ぽつりと言う。
「この時期は気をつけないと。熊だけじゃない。人も荒れます」
「人も……ですか?」
佐藤は、手の動きを止めずに続けた。
「山の北……『外で荒れてる連中』が棲みついてる辺りです。狩りが下手で腹が減る冬前は、平気で奪いに来ます」
その言葉に、鮎川の手のひらがじわっと汗ばむ。獣の牙より、人の飢えのほうが恐ろしい――そのほうが厄介だと、鮎川は悟りはじめていた。
◆◆◆
村に戻ると、井戸端では数人がひそひそ話していた。
「今日の熊、丸太塀を壊しかけたって……」
「最近向こうがやけに静かすぎる」
「静かなときほど、あいつらは腹を空かせてるんだ」
言葉はすべて低く、押し殺されていた。ただの噂話ではなく、音を立てたら災いを呼ぶとでも思っているように。鮎川は思わず立ち止まり、耳を澄ませた。
そのとき、背後から低い声がした。
「気にするな。毎年のことだ。警戒してればいいだけだ」
振り返ると、伊佐山が丸太を担いで立っていた。
「……毎年、こうなんですか?」
「……そうだな。外が荒れてる年ほど、この山にも変な影が増える。熊も、人も……何かから逃げてくる」
伊佐山の目は、淡く冬の空を映していた。その表情はいつも通りなのに、言葉の端だけが、冷たく鋭かった。
◆◆◆
夕暮れ時、解体班が川下から戻ってきた。
朱莉の頬はほんのり紅潮し、髪には川霧がうっすらついていた。
「今回の肉、悪くない。干し肉にも多めに回せそうね。冬の備えは……ひとまず、足りるわ」
彼女が軽く笑うと、まわりの人々も安堵の息をついた。だが、その笑みが消えるのもまた早かった。川上のほう──木の葉が、ざわざわと逆方向に揺れた。
風ではない。
音もない。
ただ、木々の向こう側に、何かが立っている。
鮎川は、それを言葉にできなかった。けれど、伊佐山はすぐに気づいた。低く告げる。
「……よし、ここまで。全員、宿舎へ戻れ」
声は穏やかだが、逆らえない圧があった。村人たちは、誰も理由を聞かなかった。見てはならないものを見たように、足早に散っていく。鮎川も宿舎へ向かいかけて、ふと振り返った。夕闇を帯びた森の向こう。木々の影のさらに奥で、黒い、細長い何かが、じっとこちらを見ていた気がした。
人かもしれない。獣かもしれない。あるいは、そのどちらでもない何か。
胸の奥に、静かな寒気が這った。
佐藤がそっと肩に手を置いた。
「……行きましょう。今日は、もう終わりです」
声は優しいのに、その震えだけが隠しきれなかった。
◆◆◆
例年は、一週間に二回程だったエレベーターの到着音は、今年は毎日、山に響きわたっていた。
「……今年は本当に多いですね。外で、何が起きてるんでしょう」
佐藤が、静かな声でつぶやいた。伊佐山は矢を回収しながら言う。
「外が荒れれば、ここも荒れる」
その言葉は、事実以上の意味を含んでいた。鮎川は、その意味をまだ理解できなかった。森が増えたわけじゃない。増えたのは、木々の間に落ちる『影』だ。獣が下り、人が減り、その隙間に、何かの意図が入り込む。
何かが、近づいている。
榊原はすでに、遠くの空の違和に気づいていた。冬の訪れよりも早く、別の影が忍び寄っていることに。
秋の終わりとともに――この村の「均衡」が、静かに、確実に崩れはじめていた。
――影の増え方が、自然ではなかった。




