表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
壁の山  作者: 朝霧 瑠璃
7/8

第六章:「許される距離、許されない距離」

 隔離小屋は、村の外、北側の林の縁にあった。板の隙間から風が入り、夜は湿った冷気が骨に触れる。


 最初の夜は、眠れなかった。二日目は、眠っても、夢の中で呼吸が浅かった。三日目から、時間の形が崩れはじめた。


 水を汲みに行く。食べ物になりそうな物を探しに山へ行く。火を起こす。考えない時間を増やす――それだけで一日が埋まっていった。


 七日目の夜。村の方向から、人の声が混じって聞こえた。鮎川は息を止めた。自分が戻りたいと思っているのか、戻りたくないと思っているのか、判断できなかった。


 そして、八日目の朝。

「大丈夫ですか。歩けます?」

 佐藤の声が、扉の外からした。

 

◆◆◆

 

 鮎川は、佐藤に連れられて、村に入った。


 土の匂い。煮炊き場から漂う野菜の甘い香り。薪が爆ぜる乾いた音。若い女たちの柔らかな話し声。


 鮎川の胸の奥がじわりと温まった。それは、焚き火の熱ではなく、人の暮らしが積み重ねられた場所が持つ、あの独特の気配だった。


「……皆、穏やかなんだな」

 思わずこぼれた声は、自分の鼓動に吸い込まれていく。


 佐藤は軽く笑い、少しだけ寂しそうに言った。

「だいぶ平和に見えるでしょう。でも、あれは……生きるために、そう振る舞ってるだけです」


 鮎川は、その横顔を見て、『この村の静けさは、ただの静けさではない』と悟った。

 

◆◆◆

 

 中央広場の北側にある、小さな事務小屋、それが村長 榊原の家だ。木材を組んだだけの質素なつくりだが、入口の前の地面はきれいに掃き清められ、柱の節目には手入れされた跡があった。


「村長、連れてきました」

 佐藤の声に応じて、戸が静かに開く。榊原は作業服の袖をまくり、縄を編んでいた。鮎川を見ると、手を止めて静かに向き合う。


「鮎川。まず聞かせてほしい。お前は、ここで何を望む?」

 情けも、圧も、同情もない、まっすぐな問い。

 ――ただ、『人としてどう生きるか』を問う声だった。


 鮎川は、心の底に落ちていた石をそのまま掬い上げて答えた。

「……外では、机に向かう仕事ばかりでした。体を使う仕事は、したことがありません。でも……生きるために、やります。何でも」

 それは強がりでも嘘でもなく、今の彼に残っている最後の意地のようなものだった。榊原はその言葉に、わずかに目を細めた。まるで嘘の気配を探すように、あるいは、過去の影を読むように。

「そうか。それでいい。ここじゃ肩書も過去の地位も通らん。できることから覚えろ。嘘はつくな。逃げるな。誰かの名に縋るな。――それが守れるなら、お前はここで生きていける」


『肩書も過去の地位も通らん』

 鮎川は心の中で繰り返した。

 ――そうだ。俺は、ぜんぶ奪われた。

 言葉はわかった、と思った。……でも喉の奥がざらついて、うまく飲み込めなかった。


「ここは、役に立たない者から先に飢える。力があるなら力を。技があるなら技を。何もないなら、覚えろ。手を動かせ」

 その言葉は不思議と冷たくなかった。むしろ温度を持った石のように、確かな重みだけを静かに残した。そして、正しいのに、胸のどこかが遅れて痛むのが嫌だった。


 鮎川は、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。誰かに評価されるための世界ではない。誰かの役に立つことで、自分が生き延びる――そんな当たり前が、この村の空気を支えていた。


 榊原は佐藤に視線を移した。

「佐藤。村と仕事を案内しろ。向きそうな持ち場も見てやれ」

「わかりました」

 短い言葉が交わされただけなのに、鮎川は、自分の胸の奥の何かが少しだけ動いた気がした。


「鮎川」

 鮎川は床を眺めていた視線を上げ、榊原を見る。

「リスは村の女が手当てしている。……安心しろ」

 一週間前、隔離小屋に連れていかれた時、佐藤に、リスの傷の手当をお願いしていた。

「ありがとうございます」

 鮎川は何年かぶりに、自分の心と同じ行動で、頭を下げた。だが、人の力を頼るしかなかった自分の非力さに奥歯をかみしめた。


 なんとも言えない溜息が広がった。

 

◆◆◆

 

 村長の小屋を出ると、春の柔らかい風が、髪を撫でていった。


「今日は一通り見て回りましょう。案内します」と佐藤は歩き出した。

 鮎川が佐藤の後を歩くたび、村の空気がゆっくり体の表面に張りついてくるようだった。


 村の中は思っていたよりも整っていた。荒れ果てた獣道の延長線ではない。誰かが、長い時間をかけて『生きる理由』を積み重ねてきた場所だった。


「ここは、職人班の作業場です」

 佐藤は、村の中央エリアに並ぶ作業小屋を指差した。木を割る乾いた響き、石を削る音、機織りが一定のリズムで刻む布の呼吸。仕事の音が、生活の音と混じり合っていた。都会で聞いたことのある音は、ひとつもない。


「……全部、手で作ってるんですか?」

「はい。材料は山で手に入るものだけですので作れるものは限られますが」


 鮎川は棚に並んだ素朴な茶碗に触れた。木を削り出した椀、形も歪だ。けれど――温かい。工業製品にはない手の跡が残っていた。


 佐藤は、南西側に広がる畑へ足を向けた。

 畑の畝の土はふかふかで、朝露を吸って黒く輝き、地面の湿り気と芽吹きの匂いが静かに漂わせていた。

「畑班は、だいたい四十名くらいですね。薬草を扱えるのは、その中の数名だけ。働ける人は、みんな畑で何かしら手伝います」


 佐藤は、ときどき振り返りながら説明を続ける。話す声は軽すぎず、重すぎず、相手の歩幅に合わせるような柔らかさがあった。


 畑作業をしていた何人かが、ちらりと鮎川を見ただけで、すぐに自分の仕事へ戻った。無関心ではなく、干渉しないだけ――

『ここでは人に踏み込みすぎない』、そんな暗黙の了解が空気に溶けていた。


 村中央にある井戸と簡易洗濯場。桶の水面が弱い風に揺れる。煮炊き場からは煙が立ち上り、木の器が干してある。


「……こうやって、生きてるんですね」

 ぽつりと漏れた言葉は、自分のものとは思えなかった。佐藤は気づいたのか気づかないのか、穏やかに笑っただけだった。

「ここでの一日は、けっこう忙しいですよ。朝は食事の当番が火を起こして、狩猟班は夜明け前に出て行くし、畑班は畑の様子を見て……まあ、慣れます」

 その言い方がまた優しかった。慰めでも励ましでもなく、ただ事実を伝える声――鮎川を扱わない声だった。その扱われなさが、奇妙に胸の奥をざわつかせた。


 鮎川の鼻が、先に人の生を覚えた。

 北側に寄せて男女別の宿舎が並び、裏手に浴場とトイレがある。北へ抜ける道は一本で、夕方以降は警備班が交代で巡回していた。巡回は二人一組で、見張り台と要所の木札を回収して戻る。戻れば二人の印が巡回帳に残り、村長の小屋と警備班で照合されるようになっていた。


 生活が、確かに営まれていた。


 宿舎に目を向けた鮎川に気づいた佐藤が、淡々と付け加える。

「浴場とトイレは男女別です。あと、夜は当番巡回が入りますし、男女が二人きりになる距離は許されません」

「念の為です」と微笑んだ。


 村の外にも生活の痕跡は広がっていた。山の中腹、東寄りから南へ流れ出る川では、洗濯をし、獲物を洗い、畑にまく水を汲む人々が行き来する。山の中腹、西寄りには、墓地。そして、山の北側には、半グレたちが巣食う洞窟があると佐藤は言った。


 鮎川はただ、圧倒された。


 整っている。

 息づいている。


 互いに支え合い、役割を持ち、それぞれの時間を生きている。それがひどく鮮烈で、胸の奥がざわつく。と同時に、生活の音が重なり始め、鮎川の中で、何かがゆっくりほどけていくのを感じた。


 人々の髪が風に揺れる。濡れた洗濯物がきらりと光る水滴、土の匂い、石を打つ鈍い音。どれもが、外の世界で切り捨ててきた営みだった。鮎川はただ静かに、それらを見つめていた。都市の効率の中で育ってきた目には、あまりに素朴で、しかし合理的で、そして強靭だった。


「仕事は、畑班、狩猟班、職人班、日常班。その日の人手次第で、誰でも何でもやります。俺は週に二日は髪を切ってますけど、他の日は畑や狩りに入ります。それぞれに班長がいて、大体一週間ごとにチーム替えをしながら回している感じです」

 佐藤は歩幅を合わせる声で続ける。


(……畑? 狩り?)

 ――自分はこの中のどこに立てるのだろう。

 そう思った瞬間、胸の奥の誇りと恐れが小さく軋んだ。


「……この村は基本、『自分のことは自分で、必要なところは互いに助け合う』。それだけです」

 鮎川は黙っていた。その『普通の言葉』が、自分にはひどく眩しくて、目を細めた。言葉にできない何かが喉の奥でざらついた。

 ――互いに助け合う。

 そんなもの、鮎川がいた世界では戯言だったが、この村の空気は、あまりに異質だった。


「鮎川さん、あなたの場所は……きっと見つかりますよ」

 佐藤の柔らかい声が横で響く。

 その言葉を、鮎川はすぐには信じられなかった。でも、その一言が、なぜか胸に温かかった。否定する力も、もう残っていなかった。まるで、道の途中で拾った小さな火種が、まだ消えていないことを教えられたように。鮎川は小さく息を吸った。


 やがて視線が、村の端で止まる。


 西と南にそびえる、空の青が歪むほどの圧迫感を放つ巨大なコンクリ壁だ。約十メートル位の高さだろうか。鮎川が『自然』とは言い難いコンクリ壁を凝視していると、佐藤が、ああ、と説明し始めた。


「あれは、政府がこの刑務所を作るために建てた壁ですよ」


 ――!

「……政府が建てた?」

 鮎川が口にすると、佐藤は即答せず、一度だけ壁を見上げた。

「たぶん、そうです」

 そして、なぜか嬉しそうに笑った。

「僕、ここを見つけたとき、正直、かなり上がりました」


「……――は?」

 ――ナゼ?


 佐藤は肩をすくめる。

「入所する前、親父の家の近くで、檻の罠にでっかい熊がかかったんですよ。二メートル級っ!」

「……それが?」

「処理するにしては動きが変で。その頃、罠にかかったり街へ降りてきた熊は、山に帰したって言われていたんですけど、明らかに、山から降りてくる熊の数が減っていっているのが気になって。それで後をつけたんです」

 軽い口調のまま、言葉だけが少し硬くなった。

「捕まった熊は、トラックに積まれて山へ運ばれていった。でも、途中から一本道になって、なんか……きな臭い。『あ、これヤバい系だ』って感じて。車を捨てて、徒歩で山に入って。で、この壁と入口を見つけたんです。正直、怖さより先に、妙な高揚でしたっ! 『なんだこれっ! 秘密基地みたいだ!』、『わ、これ触ったら終わるやつだ!』って。なのに、目が離れない感じ」

 佐藤は壁の線を目でなぞる。

「で、調べたら……財政がきつくなって、運営費を削るために作られた秘密の施設。要は、外と切り離して押し込む刑務所、ってことです。外でもうっすら噂はあったんですけど。知ったときは、余計に気になりました」

 佐藤は目をキラキラさせた。

「……まさか、自分が入る側になるとは思ってませんでしたけど」

 カラッと笑う。

 水の音だけが、同じ調子で続いた。

 鮎川は笑えなかった。

 ――ここに放り込まれても、こいつ笑ってやがる。……どういう神経だ。

(それとも、笑うしか残ってねぇのか?)


 外から見た壁は、蔦に覆われていて、山の斜面の一部のようにも見えた。だが、目を凝らすと、人工的な直線がところどころに覗き、壁の頂上には細い鉄線が張り巡らされているのが見えた。そう、佐藤は説明してくれた。


 そして鮎川は、この人なら聞けるかもしれないと思った。

「……ひとつ、頼んでいいですか。俺は冤罪だと思ってます。外に連絡できる方法があるなら、教えてください」


 佐藤は即答しなかった。少し考えてから言う。

「冤罪の人、結構いますよ。……僕もです」


 鮎川は、息を呑み、前のめりになりかけた。だが、佐藤は続ける。

「外への連絡手段は一切ないです。スマホがあっても、たぶん電波入らないですし」

「……冤罪が晴れなくてもいいのか?」

 鮎川の声が、思ったより尖った。


 佐藤は、鮎川の真剣な目を見つめて、笑い方を少しだけ変えた。軽いのに、芯がある笑い方。


「冤罪でも、そうじゃなくても、いまここにいる事実は変わりません。どう受け止めて、どう生きるかは自分次第です。少なくとも俺は、今日を折らずに終えられたら、それでいい」


 鮎川は、言い返せなかった。

 『今日』という単位で生きる発想が眩しすぎた。

 

◆◆◆

 

 北西の女性宿舎前を通りかかったとき、宿舎前の机で作業する小柄な女が目にとまった。鮎川が視線に気づいた瞬間、彼女はびくりと肩を震わせ、小さく後ずさる。木の籠を抱えたまま、静かに立っている。いや、体が小刻みに緊張しているのが遠目にも分かる。佐藤は声を落とした。

「あの子は……澪ちゃんです」

 それ以上は言わない。


 鮎川は目をそらした。自分の視線が、彼女をさらに怯えさせると直感したからだ。鮎川は、あの反応を今までにも見たことがある。

 ――恐怖だ。

 身体の芯まで染み込んだ、『本能的な恐怖の反応』だ。自分がなにかをした結果でなくとも、怯える表情を見ると、忘れたい過去が疼きだし、不愉快な気分になる。

 胸の奥に、理由のわからない鈍痛だけが残った。


「そうそう」

 佐藤が話題を変えるみたいに言った。

「あとでシスターにも会いましょう。俺たちの話を、ちゃんと聴いてくれる人です」


 村の生活音が遠くに混じり、思いもしなかった「生活の鼓動」が耳に触れた。村のどこを歩いても、人の手で整理された秩序と、自然の荒々しさがぎりぎりで共存している。その生の匂いが、鮎川の心の奥に、忘れていた何かを静かに叩いていた。見渡す限り、自分とは無関係だったはずの人々が、言葉を交わし、働き、生きている。赤土の上を歩く音が、心臓の鼓動と重なった。

 鮎川は、これまで感じたことのない感覚に戸惑いながら、小さな息をひとつ吐いた。鮎川は、歩きながら村の空をもう一度見上げた。


 ここは――一度死んだ人間がもう一度生きる場所なのかもしれない。そう思いかけて、すぐに首を振った。生きることを選んだわけではない。そう思いながら、鮎川は、佐藤の後ろ姿を追って歩き出した。


 ────そして思う。

(……ここなら、何かが変わるのか。俺が、じゃない。周りが、じゃない。――俺の中の何かが)

 自分でもわからない問いが、胸の中にひっそり芽を出した瞬間だった。

 

◆◆◆

 

 昼。佐藤は、村長の小屋の脇にある小屋へ、鮎川を連れていった。


 風が吹くと、壁の板がやさしく鳴る。


 中にいたのは一人の女だった。年齢は、五十代ほどに見える。優しい、というより『深く静かな湖のような』佇まい。


「シスター、こちら、鮎川康さんです。今日から村で一緒に暮らすことになりました」


 女は鮎川の方を向き、穏やかな笑顔を浮かべた。

白石(しらいし)(すみ)です。はじめまして」


 (――シスター?)鮎川は驚いて、

「あなたは、聖職者の方ですか?」


 シスターはゆるりと首を振る。

「違います。わたしは、空き時間に、この小屋で、みなさんのお話を聴いているだけです。心に抱えているものをここで話すことで、心から重みを取り除いていく。私は、ただ話を聴く、それだけです。それを続けていたら、いつからか、誰かがわたしをシスターと呼ぶようになり、それがあだ名ようになりました。そんな大層な者ではないのですけどね」


 シスターは気恥ずかしそうに笑った。

「ここは、心を置きに来る場所です。ここでは、どんな心も、ひとまず置いてよいのです」


 鮎川は、何も返せない。

 ――これは、優しさ……なのか?

 向けられても、受け取り方が分からない。


 シスターは続けた。

「あなたの心は、まだ音が落ち着いていません。無理に話さずともいいのです。一人で抱えきれなくなる前に来てくださいね」


 優しい言葉なのに、肩が少し強張った。


 鮎川は、返事を探さなかった。


 なぜだろう。その言葉が、胸にゆっくり沈んでいった。

「……ありがとうございます」

 鮎川は、かすれるような声しか出なかった。

 

◆◆◆

 

 夕暮れ。鮎川は、宿舎へ戻る前に村の裏手を歩いた。


 夕日の赤が、塀の丸太を照らし、東の空堀に柔らかな影を落とす。

 その影が風で揺れ、水面にも似た静かな揺らぎを描いた。


 その揺らぎの中で、鮎川は自分の体が奇妙な軽さを帯びていることに気づく。過去にまったく感じたことのない種類の軽さ。


 (……俺は今日を、生きたのか?)

 その問いが、頭の奥で小さく響いた。答えはない。まだ出さなくていい。


 心のどこかが、妙に静かだった。


 ただ、夜が村に落ちていくのを見ながら、胸の底には静かな波紋が広がり続けた。それは微弱で、誰にも気づかれないほどの変化だったが――それでも、確かにそこにあった。


 鮎川は、抱えていたリスをそっと放した。澪が手当をしていたリスは、一週間で傷が癒え、歩き、走れるようになっていた。リスは、近くの木に登った後、一度鮎川を振り返り、そのまま山へ消えていった。


 距離には、守るための一歩と、壊すための一歩がある。触れていい距離と、触れてはいけない境界がある。

けれど、今日は、その境目が少しだけ曖昧になった。


 誰も、鮎川に踏み込んでこなかった。それがなぜか、少しだけ落ち着かなかった。

 

(この村は、距離で生き延びてる)

 鮎川は直感的にそう感じた。

 

◆◆◆

 

 夜。焚火のはぜる火の粉を見ながら、佐藤は、昼間見かけた澪のことを思い出していた。


 約二年前、狩猟班で山に入ったとき。

「佐藤さん、あの子、今日着いた子ですかね?」

 伊佐山が指さす先に、異様に小柄な女が一人立っていた。十八歳以上の施設に来たはずなのに、中学生にしか見えない。遠くから見ていると、女は無言でシャツを脱ぎ、引き裂いて紐を作り、手の届く枝に結び、首をかける。

「――は?」

 ぎょっとした狩猟班が一斉に駆け寄り、首の紐を外した。助かったはずなのに、女は怯え切った目で男たちを見回し、次の瞬間、悲鳴を上げて暴れ出した。腕を振りほどいて逃げようと身をよじり、足元を滑らせて転ぶ。そして、立ち上がって、逃げようとする。左腕には無数のリストカットの跡。右腕と上半身は包帯で巻かれ、露出した肌には古い痣が黄ばんで残っていた。

 DV――それだけは一目でわかった。

(これはヤバイ)

 直感的にそう感じた佐藤たちは、なんとか女を捕まえ、暴れ、奇声をあげる女を抱えて、山を降りた。


 ――それが澪だった。


 それ以来、佐藤たちは澪と一度も言葉を交わしていない。佐藤は唸りながら、「挨拶だけで、会話って言えるのか……」と独りごちた。

「……生きていてくれるだけで、いい」

 

 ――近づくことが優しさとは限らない。

 

 佐藤の声が溜息と共に消え落ちていった。

 

◆◆◆

 

 翌朝。朝の柔らかな光が畑を照らしはじめた頃、佐藤に案内され、鮎川は作業に加わった。


「今日の鮎川さんは、畑の手伝いですね。まずは見てるだけでもいいですよ。最初はこんな感じかで大丈夫です」

 佐藤の声が優しく背に届く。


 その声に隠された配慮が、鮎川の胸にちくりと刺さる。

(他人がこんなふうに接してきたこと――あったか?)

 外の世界では、誰かの背中に寄り添う余裕など持ったことがなかった。村の空気は、それとはあまりに違っていた。


「ここ、根が乾いてしまうので、土を寄せてあげます」

 そう言って佐藤がやって見せる。鮎川は黙って、同じように手を動かした。

 ――ただ、土に触れるだけの作業なのに、なぜか胸の奥が、そっとほどけた。

 ――許される距離を守った先で、何を生きるのか。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ