第六章:「許される距離、許されない距離」
隔離小屋は、村の外、北側の林の縁にあった。板の隙間から風が入り、夜は湿った冷気が骨に触れる。
最初の夜は、眠れなかった。二日目は、眠っても、夢の中で呼吸が浅かった。三日目から、時間の形が崩れはじめた。
水を汲みに行く。食べ物になりそうな物を探しに山へ行く。火を起こす。考えない時間を増やす――それだけで一日が埋まっていった。
七日目の夜。村の方向から、人の声が混じって聞こえた。鮎川は息を止めた。自分が戻りたいと思っているのか、戻りたくないと思っているのか、判断できなかった。
そして、八日目の朝。
「大丈夫ですか。歩けます?」
佐藤の声が、扉の外からした。
◆◆◆
鮎川は、佐藤に連れられて、村に入った。
土の匂い。煮炊き場から漂う野菜の甘い香り。薪が爆ぜる乾いた音。若い女たちの柔らかな話し声。
鮎川の胸の奥がじわりと温まった。それは、焚き火の熱ではなく、人の暮らしが積み重ねられた場所が持つ、あの独特の気配だった。
「……皆、穏やかなんだな」
思わずこぼれた声は、自分の鼓動に吸い込まれていく。
佐藤は軽く笑い、少しだけ寂しそうに言った。
「だいぶ平和に見えるでしょう。でも、あれは……生きるために、そう振る舞ってるだけです」
鮎川は、その横顔を見て、『この村の静けさは、ただの静けさではない』と悟った。
◆◆◆
中央広場の北側にある、小さな事務小屋、それが村長 榊原の家だ。木材を組んだだけの質素なつくりだが、入口の前の地面はきれいに掃き清められ、柱の節目には手入れされた跡があった。
「村長、連れてきました」
佐藤の声に応じて、戸が静かに開く。榊原は作業服の袖をまくり、縄を編んでいた。鮎川を見ると、手を止めて静かに向き合う。
「鮎川。まず聞かせてほしい。お前は、ここで何を望む?」
情けも、圧も、同情もない、まっすぐな問い。
――ただ、『人としてどう生きるか』を問う声だった。
鮎川は、心の底に落ちていた石をそのまま掬い上げて答えた。
「……外では、机に向かう仕事ばかりでした。体を使う仕事は、したことがありません。でも……生きるために、やります。何でも」
それは強がりでも嘘でもなく、今の彼に残っている最後の意地のようなものだった。榊原はその言葉に、わずかに目を細めた。まるで嘘の気配を探すように、あるいは、過去の影を読むように。
「そうか。それでいい。ここじゃ肩書も過去の地位も通らん。できることから覚えろ。嘘はつくな。逃げるな。誰かの名に縋るな。――それが守れるなら、お前はここで生きていける」
『肩書も過去の地位も通らん』
鮎川は心の中で繰り返した。
――そうだ。俺は、ぜんぶ奪われた。
言葉はわかった、と思った。……でも喉の奥がざらついて、うまく飲み込めなかった。
「ここは、役に立たない者から先に飢える。力があるなら力を。技があるなら技を。何もないなら、覚えろ。手を動かせ」
その言葉は不思議と冷たくなかった。むしろ温度を持った石のように、確かな重みだけを静かに残した。そして、正しいのに、胸のどこかが遅れて痛むのが嫌だった。
鮎川は、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。誰かに評価されるための世界ではない。誰かの役に立つことで、自分が生き延びる――そんな当たり前が、この村の空気を支えていた。
榊原は佐藤に視線を移した。
「佐藤。村と仕事を案内しろ。向きそうな持ち場も見てやれ」
「わかりました」
短い言葉が交わされただけなのに、鮎川は、自分の胸の奥の何かが少しだけ動いた気がした。
「鮎川」
鮎川は床を眺めていた視線を上げ、榊原を見る。
「リスは村の女が手当てしている。……安心しろ」
一週間前、隔離小屋に連れていかれた時、佐藤に、リスの傷の手当をお願いしていた。
「ありがとうございます」
鮎川は何年かぶりに、自分の心と同じ行動で、頭を下げた。だが、人の力を頼るしかなかった自分の非力さに奥歯をかみしめた。
なんとも言えない溜息が広がった。
◆◆◆
村長の小屋を出ると、春の柔らかい風が、髪を撫でていった。
「今日は一通り見て回りましょう。案内します」と佐藤は歩き出した。
鮎川が佐藤の後を歩くたび、村の空気がゆっくり体の表面に張りついてくるようだった。
村の中は思っていたよりも整っていた。荒れ果てた獣道の延長線ではない。誰かが、長い時間をかけて『生きる理由』を積み重ねてきた場所だった。
「ここは、職人班の作業場です」
佐藤は、村の中央エリアに並ぶ作業小屋を指差した。木を割る乾いた響き、石を削る音、機織りが一定のリズムで刻む布の呼吸。仕事の音が、生活の音と混じり合っていた。都会で聞いたことのある音は、ひとつもない。
「……全部、手で作ってるんですか?」
「はい。材料は山で手に入るものだけですので作れるものは限られますが」
鮎川は棚に並んだ素朴な茶碗に触れた。木を削り出した椀、形も歪だ。けれど――温かい。工業製品にはない手の跡が残っていた。
佐藤は、南西側に広がる畑へ足を向けた。
畑の畝の土はふかふかで、朝露を吸って黒く輝き、地面の湿り気と芽吹きの匂いが静かに漂わせていた。
「畑班は、だいたい四十名くらいですね。薬草を扱えるのは、その中の数名だけ。働ける人は、みんな畑で何かしら手伝います」
佐藤は、ときどき振り返りながら説明を続ける。話す声は軽すぎず、重すぎず、相手の歩幅に合わせるような柔らかさがあった。
畑作業をしていた何人かが、ちらりと鮎川を見ただけで、すぐに自分の仕事へ戻った。無関心ではなく、干渉しないだけ――
『ここでは人に踏み込みすぎない』、そんな暗黙の了解が空気に溶けていた。
村中央にある井戸と簡易洗濯場。桶の水面が弱い風に揺れる。煮炊き場からは煙が立ち上り、木の器が干してある。
「……こうやって、生きてるんですね」
ぽつりと漏れた言葉は、自分のものとは思えなかった。佐藤は気づいたのか気づかないのか、穏やかに笑っただけだった。
「ここでの一日は、けっこう忙しいですよ。朝は食事の当番が火を起こして、狩猟班は夜明け前に出て行くし、畑班は畑の様子を見て……まあ、慣れます」
その言い方がまた優しかった。慰めでも励ましでもなく、ただ事実を伝える声――鮎川を扱わない声だった。その扱われなさが、奇妙に胸の奥をざわつかせた。
鮎川の鼻が、先に人の生を覚えた。
北側に寄せて男女別の宿舎が並び、裏手に浴場とトイレがある。北へ抜ける道は一本で、夕方以降は警備班が交代で巡回していた。巡回は二人一組で、見張り台と要所の木札を回収して戻る。戻れば二人の印が巡回帳に残り、村長の小屋と警備班で照合されるようになっていた。
生活が、確かに営まれていた。
宿舎に目を向けた鮎川に気づいた佐藤が、淡々と付け加える。
「浴場とトイレは男女別です。あと、夜は当番巡回が入りますし、男女が二人きりになる距離は許されません」
「念の為です」と微笑んだ。
村の外にも生活の痕跡は広がっていた。山の中腹、東寄りから南へ流れ出る川では、洗濯をし、獲物を洗い、畑にまく水を汲む人々が行き来する。山の中腹、西寄りには、墓地。そして、山の北側には、半グレたちが巣食う洞窟があると佐藤は言った。
鮎川はただ、圧倒された。
整っている。
息づいている。
互いに支え合い、役割を持ち、それぞれの時間を生きている。それがひどく鮮烈で、胸の奥がざわつく。と同時に、生活の音が重なり始め、鮎川の中で、何かがゆっくりほどけていくのを感じた。
人々の髪が風に揺れる。濡れた洗濯物がきらりと光る水滴、土の匂い、石を打つ鈍い音。どれもが、外の世界で切り捨ててきた営みだった。鮎川はただ静かに、それらを見つめていた。都市の効率の中で育ってきた目には、あまりに素朴で、しかし合理的で、そして強靭だった。
「仕事は、畑班、狩猟班、職人班、日常班。その日の人手次第で、誰でも何でもやります。俺は週に二日は髪を切ってますけど、他の日は畑や狩りに入ります。それぞれに班長がいて、大体一週間ごとにチーム替えをしながら回している感じです」
佐藤は歩幅を合わせる声で続ける。
(……畑? 狩り?)
――自分はこの中のどこに立てるのだろう。
そう思った瞬間、胸の奥の誇りと恐れが小さく軋んだ。
「……この村は基本、『自分のことは自分で、必要なところは互いに助け合う』。それだけです」
鮎川は黙っていた。その『普通の言葉』が、自分にはひどく眩しくて、目を細めた。言葉にできない何かが喉の奥でざらついた。
――互いに助け合う。
そんなもの、鮎川がいた世界では戯言だったが、この村の空気は、あまりに異質だった。
「鮎川さん、あなたの場所は……きっと見つかりますよ」
佐藤の柔らかい声が横で響く。
その言葉を、鮎川はすぐには信じられなかった。でも、その一言が、なぜか胸に温かかった。否定する力も、もう残っていなかった。まるで、道の途中で拾った小さな火種が、まだ消えていないことを教えられたように。鮎川は小さく息を吸った。
やがて視線が、村の端で止まる。
西と南にそびえる、空の青が歪むほどの圧迫感を放つ巨大なコンクリ壁だ。約十メートル位の高さだろうか。鮎川が『自然』とは言い難いコンクリ壁を凝視していると、佐藤が、ああ、と説明し始めた。
「あれは、政府がこの刑務所を作るために建てた壁ですよ」
――!
「……政府が建てた?」
鮎川が口にすると、佐藤は即答せず、一度だけ壁を見上げた。
「たぶん、そうです」
そして、なぜか嬉しそうに笑った。
「僕、ここを見つけたとき、正直、かなり上がりました」
「……――は?」
――ナゼ?
佐藤は肩をすくめる。
「入所する前、親父の家の近くで、檻の罠にでっかい熊がかかったんですよ。二メートル級っ!」
「……それが?」
「処理するにしては動きが変で。その頃、罠にかかったり街へ降りてきた熊は、山に帰したって言われていたんですけど、明らかに、山から降りてくる熊の数が減っていっているのが気になって。それで後をつけたんです」
軽い口調のまま、言葉だけが少し硬くなった。
「捕まった熊は、トラックに積まれて山へ運ばれていった。でも、途中から一本道になって、なんか……きな臭い。『あ、これヤバい系だ』って感じて。車を捨てて、徒歩で山に入って。で、この壁と入口を見つけたんです。正直、怖さより先に、妙な高揚でしたっ! 『なんだこれっ! 秘密基地みたいだ!』、『わ、これ触ったら終わるやつだ!』って。なのに、目が離れない感じ」
佐藤は壁の線を目でなぞる。
「で、調べたら……財政がきつくなって、運営費を削るために作られた秘密の施設。要は、外と切り離して押し込む刑務所、ってことです。外でもうっすら噂はあったんですけど。知ったときは、余計に気になりました」
佐藤は目をキラキラさせた。
「……まさか、自分が入る側になるとは思ってませんでしたけど」
カラッと笑う。
水の音だけが、同じ調子で続いた。
鮎川は笑えなかった。
――ここに放り込まれても、こいつ笑ってやがる。……どういう神経だ。
(それとも、笑うしか残ってねぇのか?)
外から見た壁は、蔦に覆われていて、山の斜面の一部のようにも見えた。だが、目を凝らすと、人工的な直線がところどころに覗き、壁の頂上には細い鉄線が張り巡らされているのが見えた。そう、佐藤は説明してくれた。
そして鮎川は、この人なら聞けるかもしれないと思った。
「……ひとつ、頼んでいいですか。俺は冤罪だと思ってます。外に連絡できる方法があるなら、教えてください」
佐藤は即答しなかった。少し考えてから言う。
「冤罪の人、結構いますよ。……僕もです」
鮎川は、息を呑み、前のめりになりかけた。だが、佐藤は続ける。
「外への連絡手段は一切ないです。スマホがあっても、たぶん電波入らないですし」
「……冤罪が晴れなくてもいいのか?」
鮎川の声が、思ったより尖った。
佐藤は、鮎川の真剣な目を見つめて、笑い方を少しだけ変えた。軽いのに、芯がある笑い方。
「冤罪でも、そうじゃなくても、いまここにいる事実は変わりません。どう受け止めて、どう生きるかは自分次第です。少なくとも俺は、今日を折らずに終えられたら、それでいい」
鮎川は、言い返せなかった。
『今日』という単位で生きる発想が眩しすぎた。
◆◆◆
北西の女性宿舎前を通りかかったとき、宿舎前の机で作業する小柄な女が目にとまった。鮎川が視線に気づいた瞬間、彼女はびくりと肩を震わせ、小さく後ずさる。木の籠を抱えたまま、静かに立っている。いや、体が小刻みに緊張しているのが遠目にも分かる。佐藤は声を落とした。
「あの子は……澪ちゃんです」
それ以上は言わない。
鮎川は目をそらした。自分の視線が、彼女をさらに怯えさせると直感したからだ。鮎川は、あの反応を今までにも見たことがある。
――恐怖だ。
身体の芯まで染み込んだ、『本能的な恐怖の反応』だ。自分がなにかをした結果でなくとも、怯える表情を見ると、忘れたい過去が疼きだし、不愉快な気分になる。
胸の奥に、理由のわからない鈍痛だけが残った。
「そうそう」
佐藤が話題を変えるみたいに言った。
「あとでシスターにも会いましょう。俺たちの話を、ちゃんと聴いてくれる人です」
村の生活音が遠くに混じり、思いもしなかった「生活の鼓動」が耳に触れた。村のどこを歩いても、人の手で整理された秩序と、自然の荒々しさがぎりぎりで共存している。その生の匂いが、鮎川の心の奥に、忘れていた何かを静かに叩いていた。見渡す限り、自分とは無関係だったはずの人々が、言葉を交わし、働き、生きている。赤土の上を歩く音が、心臓の鼓動と重なった。
鮎川は、これまで感じたことのない感覚に戸惑いながら、小さな息をひとつ吐いた。鮎川は、歩きながら村の空をもう一度見上げた。
ここは――一度死んだ人間がもう一度生きる場所なのかもしれない。そう思いかけて、すぐに首を振った。生きることを選んだわけではない。そう思いながら、鮎川は、佐藤の後ろ姿を追って歩き出した。
────そして思う。
(……ここなら、何かが変わるのか。俺が、じゃない。周りが、じゃない。――俺の中の何かが)
自分でもわからない問いが、胸の中にひっそり芽を出した瞬間だった。
◆◆◆
昼。佐藤は、村長の小屋の脇にある小屋へ、鮎川を連れていった。
風が吹くと、壁の板がやさしく鳴る。
中にいたのは一人の女だった。年齢は、五十代ほどに見える。優しい、というより『深く静かな湖のような』佇まい。
「シスター、こちら、鮎川康さんです。今日から村で一緒に暮らすことになりました」
女は鮎川の方を向き、穏やかな笑顔を浮かべた。
「白石澄です。はじめまして」
(――シスター?)鮎川は驚いて、
「あなたは、聖職者の方ですか?」
シスターはゆるりと首を振る。
「違います。わたしは、空き時間に、この小屋で、みなさんのお話を聴いているだけです。心に抱えているものをここで話すことで、心から重みを取り除いていく。私は、ただ話を聴く、それだけです。それを続けていたら、いつからか、誰かがわたしをシスターと呼ぶようになり、それがあだ名ようになりました。そんな大層な者ではないのですけどね」
シスターは気恥ずかしそうに笑った。
「ここは、心を置きに来る場所です。ここでは、どんな心も、ひとまず置いてよいのです」
鮎川は、何も返せない。
――これは、優しさ……なのか?
向けられても、受け取り方が分からない。
シスターは続けた。
「あなたの心は、まだ音が落ち着いていません。無理に話さずともいいのです。一人で抱えきれなくなる前に来てくださいね」
優しい言葉なのに、肩が少し強張った。
鮎川は、返事を探さなかった。
なぜだろう。その言葉が、胸にゆっくり沈んでいった。
「……ありがとうございます」
鮎川は、かすれるような声しか出なかった。
◆◆◆
夕暮れ。鮎川は、宿舎へ戻る前に村の裏手を歩いた。
夕日の赤が、塀の丸太を照らし、東の空堀に柔らかな影を落とす。
その影が風で揺れ、水面にも似た静かな揺らぎを描いた。
その揺らぎの中で、鮎川は自分の体が奇妙な軽さを帯びていることに気づく。過去にまったく感じたことのない種類の軽さ。
(……俺は今日を、生きたのか?)
その問いが、頭の奥で小さく響いた。答えはない。まだ出さなくていい。
心のどこかが、妙に静かだった。
ただ、夜が村に落ちていくのを見ながら、胸の底には静かな波紋が広がり続けた。それは微弱で、誰にも気づかれないほどの変化だったが――それでも、確かにそこにあった。
鮎川は、抱えていたリスをそっと放した。澪が手当をしていたリスは、一週間で傷が癒え、歩き、走れるようになっていた。リスは、近くの木に登った後、一度鮎川を振り返り、そのまま山へ消えていった。
距離には、守るための一歩と、壊すための一歩がある。触れていい距離と、触れてはいけない境界がある。
けれど、今日は、その境目が少しだけ曖昧になった。
誰も、鮎川に踏み込んでこなかった。それがなぜか、少しだけ落ち着かなかった。
(この村は、距離で生き延びてる)
鮎川は直感的にそう感じた。
◆◆◆
夜。焚火のはぜる火の粉を見ながら、佐藤は、昼間見かけた澪のことを思い出していた。
約二年前、狩猟班で山に入ったとき。
「佐藤さん、あの子、今日着いた子ですかね?」
伊佐山が指さす先に、異様に小柄な女が一人立っていた。十八歳以上の施設に来たはずなのに、中学生にしか見えない。遠くから見ていると、女は無言でシャツを脱ぎ、引き裂いて紐を作り、手の届く枝に結び、首をかける。
「――は?」
ぎょっとした狩猟班が一斉に駆け寄り、首の紐を外した。助かったはずなのに、女は怯え切った目で男たちを見回し、次の瞬間、悲鳴を上げて暴れ出した。腕を振りほどいて逃げようと身をよじり、足元を滑らせて転ぶ。そして、立ち上がって、逃げようとする。左腕には無数のリストカットの跡。右腕と上半身は包帯で巻かれ、露出した肌には古い痣が黄ばんで残っていた。
DV――それだけは一目でわかった。
(これはヤバイ)
直感的にそう感じた佐藤たちは、なんとか女を捕まえ、暴れ、奇声をあげる女を抱えて、山を降りた。
――それが澪だった。
それ以来、佐藤たちは澪と一度も言葉を交わしていない。佐藤は唸りながら、「挨拶だけで、会話って言えるのか……」と独りごちた。
「……生きていてくれるだけで、いい」
――近づくことが優しさとは限らない。
佐藤の声が溜息と共に消え落ちていった。
◆◆◆
翌朝。朝の柔らかな光が畑を照らしはじめた頃、佐藤に案内され、鮎川は作業に加わった。
「今日の鮎川さんは、畑の手伝いですね。まずは見てるだけでもいいですよ。最初はこんな感じかで大丈夫です」
佐藤の声が優しく背に届く。
その声に隠された配慮が、鮎川の胸にちくりと刺さる。
(他人がこんなふうに接してきたこと――あったか?)
外の世界では、誰かの背中に寄り添う余裕など持ったことがなかった。村の空気は、それとはあまりに違っていた。
「ここ、根が乾いてしまうので、土を寄せてあげます」
そう言って佐藤がやって見せる。鮎川は黙って、同じように手を動かした。
――ただ、土に触れるだけの作業なのに、なぜか胸の奥が、そっとほどけた。
――許される距離を守った先で、何を生きるのか。




