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壁の山  作者: 朝霧 瑠璃
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第五章:「立ち上がらないまま、歩き始める」

 森の朝は、薄い靄が漂い、湿った光が斜面をなぞるように差し込んでいた。


 鮎川は、胸元にリスを抱え、慎重に足を運んでいた。弱った体を温めながら過ごした昨夜の重みが、まだ腕の内側に残っている。


 不意に、森の空気が変わるのを察した。わずかな振動。重い気配。枝葉が震える音が、風ではない。体に厭な気配が纏わりついてくるのを、皮膚が先に察し、鮎川の背筋に、冷たい何かがすっと走った。


 その瞬間、斜面の上が爆ぜるように割れ、巨大な影が飛び出してきた。


 ――熊? ……ヒグマだ!

 息が、肺の奥で止まった。

 一拍遅れて、恐怖が追いついてきた。


 冬を越えた飢えが眼に宿り、土を抉る脚は雷のように速い。鮎川は反射的にリスを抱き込み、身を丸めることしかできなかった。咆哮が耳を裂く。土が跳ね、鋭い爪が空気を切り裂く。


 ――終わる。


 恐怖が思考を焼き尽くした瞬間、森を割って別の音が走った。

「――伏せろっ!」


 ――ヒュッ!


 なにかが空気を切り裂いた。矢だった。ヒグマの肩に突き立ち、続けて二本、三本と飛んでいく。獣が怒号のように吠えたとき、左右から人影が飛び出し、太い槍が同時に突き込まれた。


 ヒグマの巨体が、地響きとともに崩れ落ちた。

 

◆◆◆

 

 耳鳴りが残る中、鮎川はようやく顔を上げた。五人の男たちが立っていた。二人が倒れたヒグマを確かめにいく。

「死んだか?」

「ああ」

 先頭の一人が口を開く。

「動けるか?」

 低く落ち着いた声。鮎川は見上げると、鋭い眼差しが鮎川に注がれていた。その隣で、柔らかな笑みを浮かべる男が手を伸ばす。

「怪我はないですか? 立てますか?」


 張りつめていた空気がふわりと和らいだ気がした。


 鮎川の伸ばした手を引き、立たせてくれた。後方の三人は、荒事に慣れたような静かな構えで周囲を警戒していた。

「まずは、この熊の処理だ」

 鋭い目つきの男は、後ろを振り返り、解体班に連絡してくれ、と声を掛けた。

「はい」と一人が離れる。

「じき解体班が到着するから、あとは任せよう」

 目の前でどんどん展開が進んでいくことに、鮎川は呆気に取られて見守っていた。男は、鮎川を見て尋ねた。

「この前も会いましたね。俺たちは村の人間です。……村に来ますか?」

「……」

 鮎川は少し遅れて頷くと、男は穏やかに声を落とした。

「僕たち狩猟班です。名前、聞いてもいいですか?」

 鮎川は少し戸惑い、乾いた声で名乗った。

「……鮎川、鮎川康です」

「僕は佐藤(さとう)洋平(ようへい)。よろしくお願いします。こっちが伊佐山(いさやま)(まこと)さん。それから――」

 残る二人も順に名を告げる。

東城(とうじょう)だ」

笠井(かさい)

 佐藤が付け足した。

「さっき解体班へ連絡に走ったのが、江波(えなみ)俊平(しゅんぺい)くんです」

 

◆◆◆

 

 男たちは何も言わず歩き出す。


 四人に囲まれるように歩きながら、鮎川は初めて『人間社会の守られている感覚』に触れた。だがそれは、安心とも安堵とも違う。伊佐山や佐藤の立ち姿だけで、自分では太刀打ちできない世界があると悟った。

 ――力の前では、俺は何もできない。

 言葉にはならないその事実が、胸に鈍く沈んでいく。


 山肌に沿って細く伸びる踏み、わだちを進むと、丸太を組んだ高い塀が現れた。塀のすぐ外側には、二メートルほどの空堀が口を開けている。落ちれば這い上がれない深さだ。空堀のさらに外、塀沿いに砂利が三、四メートル幅で敷き詰められていた。踏めば乾いた音が立ち、跡が乱れて残った。


 北西の見張り台に立つ男が、佐藤たちを確かめ、合図が落ちる。北側の塀の跳ね橋が、ゆっくり降りていく。橋の脇には門番が一人立っている。佐藤の腰に下がる木札を一瞥し、門番は橋脚脇の小さな帳面に短く印をつける。外番帳――外作業の出入りだけを記す帳面だ。


 村の空気が外へ漏れ出してくる。

 空気が動いた、感じがした。

 胃が、遅れて人の場所だと理解した。

 山とは違う空気、焚き火の煙、人の声、社会の匂いがした。


 佐藤は、伊佐山たちに「村長に連絡を」と伝え、小さく息を吸い、鮎川へ向き直る。

「今、村長に連絡を頼んでいます。その間に、先に川下へ行きましょう。さっき狩った熊を、もう解体し始めていると思います」

 

◆◆◆

 

 川下に近づくにつれ、また空気の質が変わった。湿り気を帯びた風が肌に触れ、どこか鉄の匂いにも似た冷たさが混じる。岩肌を叩く水音が行き場を失い、水の奥へ吸い込まれていくようだった。


 そこで鮎川は、初めてこの村の生を見た。


 倒れたヒグマの巨体が、丸太で組んだ台に横たえられていた。皮は半ば剥がれ、赤と白がまだらに入り混じる肉の層が現れている。川の流れはその血を淡くさらい、薄紅の筋となって揺らめいた。


 鮎川は、思わず一度だけ目をそらした。


 川のせせらぎの音が妙に響き渡る。


 その周りで、五人の男女が淡々と手を動かしていた。言葉はほとんど交わさない。それでも、動きには迷いがなく、剥ぎ、切り分け、洗い、また剥ぐ――その一手ごとに、彼らがどれほど日々の命と向き合ってきたかが分かる。


朱莉(あかり)さん、脚の腱、外しました」

 背の高い男が声をかける。その前で、ひとりの女――金森(かねもり)朱莉(あかり)が振り返った。女は鮎川と同い年くらいに見えた。明るい茶色の髪を肩のあたりでひとつに結び、春の風が吹くと、毛先が柔らかく波打った。ぱっちりとした目はこげ茶色で、一見すると愛嬌があるのに、奥には温度の読めない冷静さが宿っている。近づいてきた佐藤たちに気づき、顔を上げる。


「……新しい人?」

 声は淡々としていたが、どこか『相手を値踏みする瞬間』の空気がある。

「はい」

 佐藤が答えると、金森はほんの一度だけうなずいた。

「そ。じゃあ、邪魔にならないところで見てて」


 その言い方はきつくはない。しかし可愛い声色と淡々とした目が奇妙に噛み合わず、鮎川は名状しがたい圧迫を感じた。


 佐藤が小声で補足する。

「金森さん、解体班の中心なんです。見かけに反して手練れで……頼りになりますよ」

『見かけに反して』のひと言に含みを嗅ぎ取り、鮎川はそこに裏を感じ取った。


 朱莉のそばでは、痩せた男がぎこちなく手を動かしていた。

 ――熊を倒した後、解体班を呼びに行った男だった。

 寝ぐせのついた黒髪、体つきも薄い。手元は震え、時折、朱莉の目を気にして小さく萎縮している。その弱々しさが、朱莉の存在をいっそう際立たせているように見えた。

「俊平くん、力を入れて!」

 朱莉がここを持って、と促し、作業が進められていった。


 その横で、日差しを反射しながら、ゆらゆら川が流れている。


 朱莉は熊の肉を手練れた手つきで切り分け、川の冷水で血を洗い流した。

「肉は干して保存。皮は衣類にも敷物にもする。使えるところは全部使うの」

 淡々と告げたその言葉は、『生きるとは無駄なく奪い、無駄なく使うこと』と言っているようだった。


 鮎川は息を呑んだ。ここには、鮎川が今まで知っていた社会とは異なる、はるかに剥き出しのルールがある。鮎川は、自分がこれまで触れたことのない共同体の息づかいを見た気がした。佐藤がそっと肩を叩く。

「そろそろ行きましょう、鮎川さん」

 

◆◆◆

 

 朱莉たちの姿が川へ溶けるように遠ざかると、村の東側の入口が見えてくる。


 東側の塀は、約五メートル。空堀の外の砂利を踏むと、乾いた音が立った。


 塀の端には、北東の見張り台が突き出している。男が佐藤と鮎川を一瞥し、合図が落ちた。空堀に架かった東橋の跳ね橋が、ゆっくり降りていく。入口脇の門番が、佐藤の腰元を見て、小さく顎を引いた。


 柵の内側には立入禁止の札がぶら下がっていた。橋を渡ると、空気が変わった。塀の内側はひらけ、畑の脇に実のなる木が二、三本立つだけだ。そこに棟と小屋、食事の広場が集まり、生活の熱が渦を巻いていた。


 入口の横には、男が一人立っていた。佐藤は、鮎川を向いて、「こちら、村長の榊原(さかきばら)さんです」とにっこりと笑った。

 ――村長 榊原(さかきばら)修司(しゅうじ)

 背は高くないが、まっすぐ立つ姿勢に、長い時間、人々の前に立ってきた者だけが持つ芯があった。年齢は五十代半ばほどだろうか、目の奥には火のような強さと湖のような静けさが共存している。


「鮎川康です。よろしくお願いします」

 榊原は頷き、静かに鮎川を見つめるその目は、人を値踏みする目ではない。罪悪も善意も、心の奥まで淡々と見てしまうような、奇妙に澄んだまなざしだった。沈黙が重く圧し掛かった。


「鮎川康さん」

 名を呼ばれた瞬間、背筋に冷たいものが走った。壁の中へ入って以来、誰かにフルネームを呼ばれたのは初めてだった。

「ここで生きる――その意思は、ありますか」

 驚くほど短い質問だった。


 しかし、その間合いには、村の規律も、期待も、試しも、すべてが含まれていた。


 鮎川は息を整え、答えた。

「……はい」


 榊原はわずかに頷いた。まるで、それ以上の言い訳や意気込みは不要だと言うように。

「ここで要るのは腕力じゃない。役割と、協力と、責任だ」

 そう言って、榊原は村の規律を短く伝えた。

「規則は単純だ。暴力は禁止。獲物は共同財産。労働のない者に配給はない。盗みは即追放。妊娠・出産は禁止。死者は村外へ。追放者への持ち出し・手渡しも禁じる。――守れないなら、入れない」


 村の音が、一瞬だけ遠のいた。


「ここは、互いを利用する場所じゃない。互いに『持ち寄る』場所だ」


 その言葉は、鮎川の中の今までの生き方を静かに裂いた。

 胸の底から澱んだものが立ち上がるのを押し戻すように、鮎川は「……承知しました」と答えた。


「隔離小屋へ。一週間は観察する。判断は、その後だ」

 榊原はそれだけ言い、もう鮎川を見なかった。冷たいのではない。余計な情を削ぎ落とした背中だった。


 ――隔離小屋? 一週間?

 (……なんだそれは?)


 佐藤が鮎川に向き直り、腕を上げて促す。

「じゃあ、こちらです。……どうしました?」


「……隔離小屋とは?」


「ああ。この村に入るには、一週間、隔離小屋で自給自足してもらいます。奇妙に聞こえるでしょうが……大事なんです」

 そして、さらりと言った。

「村長は大丈夫です。あの方は……公正ですから」


 鮎川の周りの空気が、一瞬ピリッと張りつめた。


 ――公正。

 それは、鮎川が一度も真正面から受けたことのない概念だった。


 ――俺は……俺も、公正に見てもらえるということか?

 ――差し出された手に、どんな距離を置くべきなのか。


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