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壁の山  作者: 朝霧 瑠璃
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第四章:「見てはいけないものを、見てしまった」

 ゆっくり、闇の濃さを薄めるようにして進んでくる。


 そうやって巡ってくる朝の気配を、鮎川は目を開ける前に感じていた。意識が浮上してくると、鮎川は、倦怠を覚えるほど体が重く、そのまま横たわっていることにした。眠ったのか、ただ気を失っていたのか、判断もつかない。瞼の裏側に残っているのは、昨夜の雨の匂いと、胸の奥に沈んだ穴の感触だけだった。ようやく、目を開けると、森は薄明に満たされていた。


 濡れた地面はまだ黒く、倒木の表面には薄く光が乗っている。

 小さな水滴が葉から落ちるたび、その音だけが静かに、不規則なリズムで響いていた。

 世界は、驚くほど尋常な朝だった。


 ただ、彼の内側だけが、ひどく静かで、ひどく破綻していた。

 

◆◆◆

 

 無理に起き上がろうとすると、肩に鈍い痛みが走った。昨夜、何度も地面に拳を叩きつけたせいだろう。拳も赤く腫れ、ところどころ土が入り込んでいる。けれど、その痛みさえも、どこか他人事のように思えた。


 痛い、という認識はある。感情がないのか、感じ取れなくなっているだけなのか、自分でも判断がつかなかった。その齟齬が、徐々に彼の胸に冷ややかな薄膜を張っていく。


 しばらくして、鮎川はふと気づいた。


 ――今日は、怒りが湧かない。


 昨日の破綻の余波か、言葉にする気力すら残っていないのか、理由はわからない。ただ、怒りも、憎悪も、否定も、心の表面に浮かんでこない。その代わり、ぽっかりと空いた空隙だけが、胸の中心で微かに搏動していた。穴だ。昨日よりも、少しだけ大きくなっている。


 その空隙は、塞ごうとすると、却って疼いた。


 彼はその空洞を手で押さえたが、押さえたところで埋まるものではない。ただ、胸の奥が鈍く痛み続けている。


 鮎川は、重い体で四つん這いになり、しばらくしてようやく、ただ立ち上がり、気力とも言えない惰性に押されながら、昨日と同じように歩きだした。目的も、意味もない。歩くという行為だけが、彼の生を辛うじて支えていた。歩くたびに体の芯が揺れ、胸の奥の空隙まで、ゆっくり軋むように動く。その軋みは、昨夜の破綻の続きだった。森の奥に踏み込むほど、鮎川の呼吸は浅く、荒く、そして虚ろになっていった。

 風の音だけが、彼の皮膚の内側を灼いた。

(……もういい。どうでもいい)

 光も影も、温度も意味を持たない。自分の輪郭が薄くなり、体がどこにあるのか曖昧になる。森は巨大な無響室のようで、心の中の声だけが異様に響いた。


 午後の森は、まだどこか濡れた香りを残していた。

 

◆◆◆

 

 軋みなのか痛みなのか、それを味わっている最中、山の斜面の根元あたりで、わずかに動く何かに鮎川は意識を攫われた。枯葉が風に押されたようにも見えるし、小さな生き物が身じろぎしたようにも見えた。近づくと、そこに、リスがいた。といっても、森でよく見るようなすばしこい姿ではない。体は濡れ葉のように萎び、泥にまみれ、冷たく固まっている。

 今にも消えそうな目の光は薄く、その奥で、必死にこちらを見ていた。胴の横に、何か鋭いものに引っかかれた跡があり、大きく裂けた傷口から、乾きかけた血が滲出していた。呼吸は浅く、体は小刻みに震えていた。

 水の音だけが、同じ調子で続いた。

 生きている。けれど、危うい。

 鮎川は、その場から目を逸らせなかった。

(……ああ。こいつも死ぬ)

 指先に土が残っていて、こすっても落ちなかった。

 根拠のない実感が、胸のどこかを軽くつまんだ。逃げる力も残っていないのだろう、リスは逃げない。ただ鮎川を見た。訴えるでもなく、助けを求めるでもなく、ただ そこにある命として。その視線が、鮎川の内側で固く凍っていた何かを一筋だけ熱でひび割れさせるように、静かに触れた。

(……なんだよ、この痛み)

 胸の奥で、砂に混じった塩粒を擦りつけられたような、鈍く、懐かしく、久しく忘れていた疼痛。


 鮎川は立ち尽くした。助けようという意思は、微塵も浮かばなかった。浮かばなかった、と言い切っていいのか、わからなかった。

 それなのに、身体だけが、離れなかった。

 『憐憫』という感情は、まだ遠い。

 それなのに、胸の奥が、ずきりと疼いた。原因もわからず、理屈もない。ただ、疼く。


 気づいたときには、膝をついていた。手が伸びていた。その指先が、わずかに震えていた。なぜ手を伸ばしたのか、自分でも分からない。ただ、その震えを放っておけなかった。自分でもその動作が理解できず、制動も利かず、ただ、流されるようにリスをそっと持ち上げた。掌に乗せた瞬間、微かな体温が伝わった。そのあまりの弱さに、胸の奥の空洞が再び疼いた。


 鮎川は、リスを胸に抱えたまま、覚束ない足取りで水辺へ向かった。川の水は冷たく、春とはいえ指先が痺れるほどだった。鮎川は、川面にリスの傷口をそっと浸した。傷を洗うと、血が流れ落ち、水の透明に薄く広がっていく。リスは小さく鳴いた。その声は弱々しいのに、鮎川の耳には妙に鮮明に届いた。


(……生きようとしてやがる)


 その瞬間、胸の奥の無の薄膜に、微かな音が走った。罅のような、細い細い亀裂。そこから際限なく溢れ出てくる、透明な液。塩粒が擦り込まれたように灼け、刺す。呼吸を短くするほどの痛み。


 鮎川は、持っていたハンカチを取り出し、リスの濡れた体をそっと包んで水気を拭った。傷口だけは触れないように。かといって、完全に避けられるわけでもなく、少し触れるたびに、リスが弱い声で震える。鮎川は布の角を細く裂いて、傷口の周りにゆっくり巻きつけた。応急処置にもならないほど粗雑な処置だが、今の彼にできるのはこれだけだった。

 巻いている間、リスの小さな体温が掌へ戻ってきて、その温度が胸の奥の空洞をさらに刺激した。

 

◆◆◆

 

 陽が落ちると、森の温度は急に冷える。リスの体温はさらに下がり、息はひどく浅くなった。鮎川は、仕方なく上着を脱ぎ、胸元を開いた。そしてリスを、そっと服の中へと滑り込ませる。小さな顔だけが外に出るように、位置を整えてやる。ふわりと触れた体温は、驚くほど冷たかった。そして、胸板に小さな脈が規則的に触れた時、鮎川はわずかに息を呑んだ。

 その鼓動は弱く、頼りなく、今にも途切れそうなのに、確かに生きていた。


 その鼓動のリズムが、長い間忘れていた命の音を鮎川に思い出させた。胸と胸が触れ、微細なリズムが皮膚を通して伝わるたび、自分の呼吸が乱れるのを感じた。それが不快なのか、痛いのか、何なのかはわからなかった。ただ、胸の奥の黒い空洞が、わずかに音を立てて揺れた。

「……」

 言葉は出ない。出す必要もなかった。


 夜の森は静かだった。


 鮎川は火も焚かず、黙ってリスを抱いたまま、座った姿勢で夜を過ごした。何度か、リスの息が細く、弱くなる瞬間があった。そのたびに、胸の奥に焦げつくような疼きが走った。なぜ痛むのか、わからないまま。彼はただ、リスの胸元に自分の手のひらを当て、その小さな上下が止まらないように、祈るように見守った。祈りとは呼べない。彼は祈ることを知らない。

 それでも、山の夜気に揺らぐその姿は、どこか祈りに似ていた。


 翌朝。空が白みはじめるころ、服の中から、かすかな動きが伝わった。リスの前足が、胸板をそっと押すように動いた。


 ――生きている。


 喉奥が、不意に灼けた。


 けれど、特別な感情が溢れるわけではなかった。涙が出るわけでも、笑みがこぼれるわけでもない。ただ、胸の内側で、何かが静かに揺れ続けていた。


 彼はリスをそっと外へ出し、手のひらに乗せた。まだ弱い。まだ歩けない。だから鮎川は、気紛れのように、いや、気紛れと呼ぶしかない衝動のまま、その小さな体を抱えなおした。今日もここに残るか、また夜に来るか――それを思案する余地はなかった。身体が、勝手に選んでいた。


 そして、その日も、彼は倒木のそばに座り、リスの浅い呼吸を胸に感じながら、世界の色がほんのわずかに変わって見えるのを、気づかないまま過ごした。小さな命はまだ必死に生きている。その事実だけが、暗闇の底で沈んでいた鮎川の意識を、少し浮かび上がらせていた。

 ――見てしまった影は、どこかを黒く滲ませていった。


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