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壁の山  作者: 朝霧 瑠璃
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第三章:「終わらせたいのに、終われない」

 森は、朝ごとに匂いを変えていた。


 湿った土の匂いの日、杉の皮が乾き、風にふわりと剥がれ落ちる日、遠くの小さな沢の音が、ひどく澄んで聞こえる。春、なはずなのに、山の奥に入るほど、その言葉は薄れ、ただ、鮎川の目の前には『森そのもの』があった。


 最初の数日は、ただ眠り、ただ食べ、ただ歩くだけだった。歩く先に意味はなく、眠る場所にも差はなく、食べるものは、適当に摘んだ草木の実。味はない。苦味すら、印象に残らない。ただ、生きるために口へ運ぶだけ。


 夜になると、森の影が濃くなり、木々のざわめきが胸奥に入り込んでくる。彼はいつも腕を胸に抱え込むようにして眠った。そこだけが、唯一何かに守られている気がした。しかし、心の底では、何一つ変わっていなかった。


「俺は間違ってねぇ」

「悪いのはあいつらだ」


 繰り返すたび、声は森に吸い込まれ、返事のない静けさだけが戻ってくる。それがかえって寂しく、言い終えたあとに、小さな空白が胸に生まれる。


◆◆◆


 数日が過ぎた頃、森の時間が、彼の中の時間の区切りが、消えていった。


 朝の光は以前より淡く見え、昼の影はいつもより伸び、夕暮れは、まるで薄い墨がにじむように沈んでいく。一日の区切りが曖昧模糊になり、何日眠って、何日歩いたのか、自分でも数えなくなった。


 ただ、何かに追われていない、誰とも比較しなくていい、昇進も、成果も、誰の機嫌も気にしなくていい、そんな『空のような自由』が、わずかに胸を撫で、薄い麻酔みたいに効いた。


 ある朝、倒木の横で目を覚ました瞬間、鮎川はふと思う。

 ――このまま誰にも会わずに生きた方がいい。

 この言葉は、独り言というより、『森から差し出された選択肢』のようだった。責任も、過去も、何も、もうここには届かない。

 鳥の羽音が一度だけして、消えた。


 ただ風だけが、彼の頬を撫で、髪を揺らし、どこかへ行きなさいと背を押しているように思えた。


 彼はその風に身を任せるように、森のさらに深い場所へ足を進めた。

 ――まだ何も変わらない。


◆◆◆


 雨が降った。最初は細い霧雨で、のちに静かな雨脚に変わった。森の匂いが深く沈み、空気はひどく冷たかった。雨の音だけが絶え間なく降り注ぎ、その単調な響きが、鮎川の心の奥のどこかに触れた。


 雨粒が、瞼の上で冷たく弾けた。


 そして――胸奥で、何かが剝がれるようにして落ちた。


「なんで……俺が」

 ――こんな場所に。

 湿って、浅ましく、ひっかかる声が喉につかえる。

「……どう考えても……」

 言いながら、自分でも気づいていた。

『どう考えても』ほど、杜撰な自己弁護はない。


 森は返事をしない。

 雨だけが落ち続ける。


 その沈黙が、彼を追い詰めていく。


「俺は悪くねぇっ!」

 胸奥に溜まっていたものを、雨に向かってぶつけるように、彼は叫んだが、すぐ雨に掻き消された。その掻き消え方が、彼の神経をひどく掻き毟った。

 水の音だけが、同じ調子で続いた。

「なんでだよ……なんで、誰も……!」

 ――誰も俺を助けてくれないんだっ!

 その事実は彼の胸を真っ黒に満たし、心の支えはスッと抜け落ちていった。

 指先に土が残っていて、こすっても落ちなかった。

 雨の幕の向こうから、小さなひどく優しい風が吹き、頬を撫で、髪を揺らし、何も言わずただ触れてくる。慰撫でも、憐憫でもない。――ただ、存在だけを肯定する風。鮎川はぎゅっと目を閉じた。その一瞬だけ、胸奥の暗い塊がわずかに緩む気がした。だが、その直後、彼は自分の膝を殴りつけるようにして拳を握りしめた。

「……違う。俺は悪くねぇ」

 その声は弱々しく、雨と風に溶けて消えていった。


◆◆◆

 

 夜。雨は止んだが、森はまだしっとりと濡れていた。焚き火もない。暗闇の中で、鮎川は膝を抱え、森の音を聞いていた。遠くで、小さな何かが草を踏む音がした。森の生き物たちは、彼の気配に気づきながらも、遠巻きに距離を保ち、絶妙な寄り添い方で彼を包んでいた。孤独の中で、唯一、森だけが彼を斥けなかった。その事実が、逆に彼の胸を刺した。

 ――誰よりも、森が優しい。

 そんな荒唐無稽な感情が、ふっと胸をよぎった。彼は首を振った。否定した。だが、否認し切れないほど、怨嗟が尽き、心が空虚になっていた。


 森は静かに呼吸していた。

 風が草を撫で、小さな梢が揺れ、夜の湿気がそっと肌に寄り添った。


 孤独の破綻と、自然の寄り添いが、奇妙に同時進行で重なっていく。そのバランスの上で、彼の中の何かが、確かに少しだけ揺れた。

 

◆◆◆

 

 山の暮らしに慣れるどころか、鮎川の内側は、日を追うごとに静かに沈んでいった。最初の頃こそ、そのうち帰れるという淡い期待があった。だが、それが幻想だったと理解した瞬間から、世界の色が褪色していった。


 鮎川は倒木にもたれ、暗闇を見つめたまま、呼吸の仕方を一瞬忘れるほど茫然していた。胸奥が、空虚だった。怒りも、悔しさも、正当化も、どこかへ押し流されてしまったように、手を伸ばしても掴めない。重く沈むような無感情が、ゆっくり身体の中心へ集まってきていた。


 顔の筋肉の動かし方すら分からない。思考は、湿った綿に包まれたように鈍麻して、ただ、じわじわと崩れていく感覚だけが鮮明だった。


(……どうでもいい)

 責める相手を探す気力もない。自分を弁護する気力もない。過去を思い返す回路がすり切れてしまった。


 (……どうでもいい)

 鮎川は、そう思った自分に驚きもしなかった。腹が減っても、食べる理由が見つからない。体が冷えても、温める気が起きない。 『生きている理由』そのものが見つからなくなった。

 昼と夜の境目がぼやけ、目覚めと睡眠の差も薄れ、ただ時間だけが、汚れた布のように重く垂れ下がっていた。

(……俺がいなくなった方が、周囲も静かになる)


 ニュースの画面が、ふっと脳裏に浮かんだ。

 画面の向こうの男は、冤罪、鬱発症、自ら命を絶ち、何も語らず、ただ処理された結果として映っていた。官僚のトカゲのしっぽ切り。正しさも事情も、もう誰にも必要とされていなかった。

(……あれと同じか。俺も)


(……もう疲れた)

 何度も何度も、何回も何回も、考えた。祈った。祈りが届かないのではないかと、空しく祈っているだけではないかと、絶望的な気持ちになる。何のために生きるのか。生きていかなければならないのに、その理由が分からない。この命を手放せば、楽になれる。そう思い始めた。ならば、さっさと消えれば良いのに、それなのに、意地汚く生を求めている自分がいる。


 ――終わらせたいとも、続けたいとも思えないまま、時間だけが進んでいた。

 ――終わらせたいのに、生きる意図だけが残ってしまうのか。


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