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壁の山  作者: 朝霧 瑠璃
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第二章:「息ができるのに、息苦しい」

 森の匂いが濃密になる。


 エレベーターの床が斜めになり、鮎川は、滑り台を滑るように、無理やり外へ投げ出された。反射的に地面に両手をついたが、顔を地面に打ち付けた。ひどく心許なくなった。何かが起きている。だが、鮎川には見当がつかなかった。振り返る間に、エレベーターの銀色の扉が閉まり、中でエレベーターが下へ降りていく音がした。鮎川は、何度もエレベーターの扉を叩くが、当然のことながら、何の反応も返ってこない。

 どのくらい扉を叩き続けただろうか、鮎川は扉に赤い筋がついているのに、気づいた。それが血だと気づくまで、少し時間がかかった。右手を見ると、掌の外沿いから血が滲み出ていた。


 咳き込み、嘔気がこみ上げる。心臓の鼓動がひどく喧しい。


 鮎川は、力なく手を下ろし、振り返った。

「……どこだ、ここは」

 その問いは、誰にも届かないまま、静寂の中へ吸い込まれていった。腐った土の匂いが、鼻の奥へじわりと沁み込んでくる。鮎川の声は、思ったよりも掠れていた。自分の声なのに、自分のものじゃない声色だ。


「……山?」

(……山道だったのか)

 連れてこられる車が途中から妙に揺れていた。刑を軽くすること、冤罪にすることで思考が塞がっていて、考えていなかったが、あれは舗装されてない山道だったのだ。工事中だと早々に決め込むしかなかった。

 ――どうにかして外へ出て、弁護士に連絡をとらなければ。でも、

「どうやって――?」

 無音のまま、空気だけが動いた。

 見渡して、圧倒される。さっきまで居たコンクリートと鋼板の世界と、手首にまとわりついている手錠の感触が残っているのに、目の前、生々しい「外」だった。山肌と木々、冷たい空気、遠くで響く水の音、空は淡い春の色をしているのに、人の気配が全くない。


 音が、少ない。

 それが、ひどく心許なく、何かに玩弄されている気がした。


 風が木の枝をなでていく、微かなざわめき。遠くで、どこかの岩肌を流れ落ちる水の音。時折、名前も知らない鳥が短く鳴く声。それらひとつひとつは、確かに「音」なのに、街で聞いてきたノイズとは違い、耳に触れるたび、逆に自分の内側の静けさを際立たせ、自分の呼吸だけが浮き上がらせた。


「……」


 彼の内側で、静寂が軋む。


 鮎川は、無意識にネクタイの結び目に手をやりかけて、自分がもうスーツを着ていないことに気づいた。支給された無地の服は、サイズこそ合っているものの、どこにもブランドタグがなく、どこにも「自分らしさ」を示す要素がない。鳩尾のあたりに、妙な空洞感が広がる。


 少し歩くと、近くに、年月を重ね風食され鎮座している平たい岩があるのが見えた。その足元に、何かが転がっている。割れた茶碗だった。真っ白だったであろう磁器は、薄い茶色にくすみ、縁は欠けている。その欠けた断面をよく見ると、内側から外側へ向かって走る細かなヒビが、蜘蛛の巣のように広がっていた。長い時間をかけて、少しずつ、少しずつ壊れていったものなのだということが、指先で触れずとも伝わってくる。

 そのすぐそばには、底が抜けた小さな鉄鍋が転がっていた。かつて黒光りしていたであろう表面には、赤茶けた錆がまだらにつき、底の部分だけがぽっかりと穴になっている。雨が降るたびに水が溜まり、乾いていくことを繰り返してきたのだろう。鍋の内側には、薄く苔のようなものがこびりついていた。


 ――ここにも、誰かがいた。

 そう決めたくないのに、目がそう読んでしまう。


 そう思った瞬間、胸の内側で、何かがそっと軋んだ。顔も名前も知らない誰かが、ここで飯を食い、何かを煮て、ある日、その手を離した。それきり二度と戻ってこなかった。あるいは、戻るという選択肢すら与えられなかった。割れた茶碗。底の抜けた鍋。どちらも、今ではもう、用をなさない。


 ふ、と、自嘲のような思いが過る。

(……俺の肩書きも、同じか)

 営業部長。外資系。数字。会議室。発言権。


 ここには、どれもない。


 この山の空気の前では、最初からなかったことになっている。それでも、胸のどこかがまだ「違う」と抵抗していた。それでもまだ、心のどこかで、「何かの手違いだ」「やり直しが効く」という甘い期待が、しぶとく生き残っていた。


 今までの人生には、常に「次の段」が見えていた。階段の形は見えていたし、周囲も同じ方向を向いていたから、足を運ぶことに逡巡は少なかった。ここには、段そのものがない。あるのは、木と、土と、風だけだ。


 歩き出さなければ、何も始まらない。だが、どこへ向かって歩けばいいのかがわからない。鮎川は、試しに、一歩、踏み出してみる。また一歩。土にめり込んだ足を持ち上げるたびに、湿った土から、鉱物の混ざったような苦い匂いが立ち上がった。ふくらはぎが重く、今まで「自然」とは無関係な世界で生きてきたのかを思い知らされ、鮎川はため息をついた。


「控訴もできないって、どういうことだ……」

 ――二度と連絡してくるな……どういうことだ。

「……」

 ――俺は、家族から見捨てられたのか?

 記憶をいくら辿っても、答えを探し出せない堂々巡りを続けながら、鮎川はひたすら歩き続けた。


 そして、考えることに疲れ果て、どれくらい歩いたのかわからなくなった頃。


 ――ゴウッ。


 遠くから、鈍く、重たい地響きが聞こえてきた。空気が押されるような気配、続いて、小さな木々の葉が一斉に震える音、そして、土の底から、わずかな震えが足裏に伝わってくる。


(……なんだ?)

「自然の中で起きている何か」の音、それが何なのか、鮎川にはわからなかった。

 同じような音が、しばらく間を空けて、もう一度、鳴った。今度は、さっきより少し近い。

 ――何かがいる。

 鮎川の背筋に、薄く、冷たいものが這い上がった。鮎川は、本能的に、その音から少し離れる方向を選び、斜面を横切るように歩き出した。


 誰にも見られたくなかった。誰とも話したくなかった。


 今の自分は、誇れない。


「……疲れた」

 ポツリと、心のどこかで思っていた本音が漏れた。


 この山のどこかに、人が集まって暮らしている場所があるなら、そこへ行けば、また、何とかしてやり過ごせるのかもしれない。そういう考えが、一瞬、頭の中に浮かび、すぐ消えた。


 風が木々の間を抜けていく。

 どこかで鳥が短く鳴き、すぐに黙る。


 鮎川は、音の少ない世界の中で、自分自身の足音が、やけに大きく響くのを聞きながら、さらに森の奥へと歩を進めていった。


 森を進むほどに、光はゆっくり形を変え、足元に落ちる影は細く切れ切れになっていく。木々の幹は太さも高さもまちまちで、時折、巨木の根が地面から隆起しているせいで、道らしい道はどこにも存在しない。


 鮎川はふいに立ち止まり、あたりに視線を巡らせた。斜面のくぼみを利用した小さな平地があり、倒木がいくつか重なっている。雨をしのぐには不十分だが、背を預けることのできる木の幹があり、落ち葉を寄せれば簡易の寝床にはなる。


 ――ここなら、人が来ない。


(……ひとりで、生きていくのも悪くないな)


 木々の隙間からのぞく空は、少しずつ桃色に染まりはじめていた。


◆◆◆


 鮎川は、木の根元に腰を下ろし、背中を幹に預けた。視界の端には、今にも崩れそうな枯れ木があり、それを見ていると、なぜだか自分の姿と重なった。何も知られずに折れ、何も語られないまま朽ちる木。そして、鮎川は自分を重ね合わせた。

 ――人間も、案外、それと変わらないのかもしれない。

 思考の底で、過去の景色が、ゆっくり浮かんでは沈んでいった。


 ――どうしてこうなったんだ?

 ――外と連絡が取れないのに、どうやって、控訴したらいいんだ?

「……俺は間違ってないのに」

 気づけば、同じ言葉を心の中で繰り返すだけの、空回りする思考の檻に閉じこめられていた。


 森の匂いが濃くなる。

 紫を濃くした空には、星が瞬き始める。

 鮎川は、落ち葉を寄せて簡単な寝床を作り、そこに体を沈めた。


 (……ひとりで、いい)そう思いながら、鮎川は、初日の夜を迎えた。


◆◆◆


 森で過ごすようになって三日目の午後。斜面の向こうから、ふいに、人の声がした。街で聞いてきたような会話の声ではなく、もっと、原始的で、必要最低限のやり取りに近い、短く、太い声。


 鮎川は反射的に木陰へ身を隠した。


 直後、地面がずしんと振動し、鳥が一斉に枝を飛び立った。太い幹が裂け、ゆっくり傾ぎ、最後には地面に叩きつけられるときの、あの深い衝撃。

(……木を、倒している)

 斜面をよじ登り、そっと覗いた瞬間、視界の広場には、五、六人の男たちがいた。


 汗で濡れたシャツ。木屑を浴びた腕。太さのある肩。筋肉の形が服越しにもわかる男たち。声ひとつ、目線ひとつ、立ち方ひとつが、『体』でこの土地に根を張っている者のものだった。


(関わりたくねぇ)


 咄嗟に鮎川は身を翻し、走り去ろうとした。だが。


 ――ドサッ。


 木の根に足を取られ、転んでしまった。全員の動きが止まり、一斉にこちらを見る。


 数秒の静寂。空気そのものが重く押してくる。


 鮎川の喉がひりつく。


 男の一人が、近寄ってきた。他の者より背が高く、髪が短く、無駄のない体つき。目つきは鋭いが、どこか観察するような静かな色がある。彼は鮎川を一瞥し、荒事をする様子は見せず、淡々と言った。

「新入りか」

 声は低いが、刺すような棘はなかった。


 鮎川は言葉を返せない。出なかった。


 男は淡々と言葉を重ねた。

「落ち着いて。ここは村の外です。……この山では、生き方が三つに分かれます。一つは、僕たちみたいに村で仕事を持って暮らす人間。二つ目は、力で奪い合ってる連中。三つ目は、あなたみたいに、一人で森へ消えていくやつです」

 視線が少し細まる。値踏みというより、状況を測る目だった。

「村に入るなら、まず一週間の隔離。病や揉め事を持ち込まないためです。それから、手に職がないと居場所が作りにくいです。ここは助け合いで回ってますから。……難しいなら、森に戻るしかないです。生き残るために、です」

 それは、優しさではなく、ただの事実。しかし、その事実の純度が、高くて重かった。


 背後から、もう一人の男が静かに寄ってきた。無駄のない歩幅と、周囲をさりげなく観察するような視線――訓練された人間特有の空気が、一瞬、森の温度を下げた。最初に鮎川へ声をかけた男が、その男へ視線を向ける。

伊佐山(いさやま)さん、新しく一人来たみたいです」

 伊佐山と呼ばれた男は、鮎川の方へ静かに歩み寄り、数秒だけ目を合わせた。その目は、威圧も敵意もないのに、こちらの内側を見透かすような深さがあった。鮎川の顔立ちを確認し、ほんのわずかに、眉が動いた。

 ――拒絶する目だ。

 自分自身を振り返るように、その男は短くひと言つぶやいた。

「来るなら覚悟して来い。無理なら森へ戻れ」

 その言葉は意外にも柔らかく、怒りも蔑みもなかった。ただ、人を深く観察しすぎて、もう誰にも期待していない人間の声だった。それだけ言うと、伊佐山は、再び作業の輪へ戻っていった。


 胸の奥の何かが、軽く石をぶつけられたみたいに鳴った。


 背中に、苦さと諦念がにじむ。その生き方の気配だけで、『この男は、何かを手放してここへ来た人間だ』ということが伝わってくるようだった。


 鮎川は、胸の底がざわついた。しかしそのざわつきは、罪の意識でも、反省でもない。

 ――関わりたくない。

 それだけだった。その感覚だけが、やけにはっきりしていた。腕の太さ、足腰の強さ、斧の扱い方。筋肉のつく場所や、手の皮膚の硬さ。彼らの体は、自分には絶対に勝てない「生の経験」を持っていた。


 ここでは、言葉で勝てない。立場も肩書きもない。

「人を動かすための武器」を、何ひとつ持っていない。


 村に入れば、また誰かと比べることになる。能力を測られ、ふるいにかけられ、生き残るために役に立つ人間でいなければならなくなる。そんな世界は、もう御免だった。


 比べない。測られない。期待されない。期待しない。


 鮎川は背を向けた。


 ――一人でいれば、誰も自分を否定しないし、誰も自分に何も求めない。


 (……この山で、一人でやる)

 鮎川は森の奥へ、奥へと進んでいった。


 風が、背中を押すでもなく、ただ通り過ぎていく。


 彼は、誰の目にも触れない場所で、誰にも必要とされない日常を、静かに始めることにした。

 ――それが逃げなのか、選択なのかを、考えられなかった。

 ――距離を保ったまま、守り、逃げることはできるのか。


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