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壁の山  作者: 朝霧 瑠璃
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第一章:「刑務所は、壁の中ではなかった」

 春になったばかりの光は、まだ冷たい。冬特有の、冷えた粒子を含んだ光が混ざっている。

 だが冬のような刺々しさは消えて、どこか薄い膜をまとったような柔らかさがあった。


 整然と並んだ光沢の長机が、無機質な余韻を湛え、鈍く反射している。磨かれた石の床は、どこまでも冷静で、人の熱を受け付けない無機質さを湛えている。


 鮎川(あゆかわ)(やすし)は、被告席に座っていた。背中に薄い汗の気配を感じながらも、自分がその場の「温度」から、どこか切り離されているような感覚があった。


 裁判長がゆっくり判決文を読み上げはじめた。静寂が、法廷を満たす。紙をめくる小さな音でさえ、広い空間の中で硬質な余韻を残した。


「――被告人・鮎川康を、懲役十三年に処す」


 ふと胸の奥に、ざらりと濁ったものが降りた。

「たった十三年? 短すぎる!」

「人を殺したんだぞ!」

 怒りにも、悲鳴にも似た声が耳元をかすめる。叫びは確かに耳に届いているのに、どれも『意味を持った音』として鮎川の心に届いてこない。弁護士の言葉も、裁判長の言葉も、傍聴席の叫びも、すべてがガラス越しのように遠く、白い壁に吸い込まれて消えていく。しかし、その孤独は、ひとりであることの寂しさとは違う。世界との隔絶だ。


 ――息が詰まりそうだ。


 弁護士が横で落ち着いた声で話しかける。

「控訴も視野に入れましょう。心証は悪くない。冷静に行きましょう」

 鮎川は小さく頷いた。

「はい。お願いします。……できるだけ早く進めてください」

(冤罪だ……)胸の奥で、その四文字だけが空回りしていた。

 ――なんで俺が。

 ――誰だ。

 ――誰が、俺をここへ押し込んだ。

 喉元まで怒りがせり上がる。だが言葉にはしない。――心証が悪くなる。世界の方が間違っている。誰にも言っていないが、その思いだけは、彼の内部で静かに膨らんでいた。鮎川の胸にあるのは、罪悪感ではなかった。喉の奥が、ひくりと引きつった。


 淀んだ空気が渦巻いていた。


「ご起立ください」

 裁判所職員の声が響く。整然と並んだ法廷に白光が落ち、鮎川の肩口を細く照らしていた。立ち上がった瞬間、背後から、突き刺すような叫びがまた飛んでくる。

「お前のせいで娘は戻らない!」

「黙ってないで!」

「ちゃんと理由を話して!」

 その声には、憎しみ、悲しみ、やり場のない怒り、色々な『情』が混じっていた。だが鮎川は、そのどれも真正面から受け止めることができなかった。むしろ、苛立ちの方が強かった。

 靴底が床を擦る音が、遅れて残った。

 法廷を出ると、廊下の空気は、薄ら寒かった。ガラス扉の先に見える、曇りがちな春空も、どこか倦んだ色をしていた。


 刑務官が軽く腕を押し、歩かせる。足音が床に吸い込まれていく。その音だけが、いま自分が現実を歩いているという証明になっていた。


 ――ここから俺はどこへ行く。

 ――何をさせられる。

 ――俺の人生は、ここで一度止まったのか。

 鮎川の胸の奥で、答えのない問いが、ゆっくり、重たく澱のように沈殿していった。白い光が再び差し込み、鮎川の影を、長く長く伸ばした。

 

◆◆◆

 

 冷えた空気の廊下を抜け、外に出ると、春の空気が薄く肌に触れた。桜にはまだ早い、芽吹きの匂いだけが淡く漂う季節。しかし鮎川の肺に入ってくる空気は、どこか乾いていて、『季節』というものの感触をほとんど持たなかった。刑務官に導かれて乗り込んだ護送車の中は、外の春とはまるで別の世界で、春が持つ柔らかさが一切入ってこない。


 車内は無音に近い。窓には鉄格子がはめられ、ガラスは褪せた曇りを帯びていて外が見えない。擦り切れたビニールシート、古びた金具の匂い。外の世界と切り離された、『小さな密閉世界』。鮎川は、手錠をかけられたまま座席に押し込まれ、正面の仕切り板をぼんやりと見つめた。そこに映る自分の輪郭は、どこか薄く、人の形をしているのに、自分としての実感がない。

 エンジンがかかると、車体が低くうなり、鉄の箱の内部が微かに震えた。


 ――証拠は何一つ上がっていない。

 ――最初から犯人扱い。

 ――懲役十三年。

 ――冤罪だ。控訴する。明日、弁護士を呼ぶ。

 車が揺れ始めると、鮎川は、次の裁判をどう進めてもらうか、どの切り口で攻めていくかを考え始めた。控訴に向けての考えをまとめ終えると、次は、今回の裁判までにも、何度も行き来した記憶の道をつぶさに辿っていく。


 ――どこで読み違えた。


 護送車の窓の向こうで、何かが擦れるような音がした。

 それが外の音なのか、車体の軋みなのか、鮎川には分からなかった。


 護送車は、最初は舗装路のなめらかな走行だったが、しばらくすると、揺れ方が一変した。小刻みに跳ねたかと思えば、唐突に大きく沈み込む。左右へ滑り、次の瞬間、車体下の石で鋭く跳ね返る。

(道路の工事中か)

 あまりにも長く続く規則のない『掴みどころのない揺れ』に、鮎川は工事中と早々に決め込んだ。そう考えたほうが、楽だった。だが、その無秩序な揺れは、鮎川の胸の奥に静かに胸騒ぎを生んでいく。

(嫌な予感だ。胃がむかつく)

 ビニールシートが擦れる音だけがやけに耳につく。それ以外は、外の音すら、誰かの息づかいすら、何も聞こえない。息を吸うと、車内の空気は重たく乾いていて、油と金属の匂いが微かに混じっていた。手錠の重みが手首へ沈み、脈拍とともに金属の冷たさが伝わる。その感覚が、奇妙に生々しい。


 ――生きている証拠のようで、鮎川はそれが癪に障った。

 手首の金属が、やけに重く感じられた。


 そして、揺れが大きくなった瞬間、身体の奥に、抜き差しならない記憶の影がふっと浮かんだ。


 仕事のことだ。


 オフィスの白い照明の下。ガラス張りの会議室。営業成績の数字。数字を動かすために、人も動かした。切る順番も、迷わなかった。

『あのころは順調だった』

 そう思った瞬間、胸の奥に張り付いた硬い何かが軋むように動いた。


 揺れがまた変わる。今度は音もなく沈み込むような感覚。視界の端がふっと暗くなる。

 ――沈む。

 眠気ではない。思考が底へ沈んでいくときの、あの感覚。視界の端がすっと霞む。どこか遠くで、誰かが話すような声が聞こえた気がした。刑務官か、エンジン音か、自分の記憶の断片か。判断がつかないまま、鮎川はゆっくり瞼を閉じた。目を閉じた瞬間、意識の奥に何かが触れた。


 薄暗い廊下の匂い。磨かれた靴音。冬の夜の冷えた玄関の空気。過去の光景が、まるで静かに積み上げられた箱がひとつひとつ倒れていくように、連鎖して立ち上がってくる。


 護送車の揺れが、記憶の底に沈めておいた箱をひとつ、またひとつと勝手に開けていくようだった。


 幼いころの、家。優しく微笑み手を伸ばしてくれる兄、健。兄弟仲は良かった。今でも尊敬している。不足なく育った恵まれた環境。MBA取得で渡米した時に目の前に広がる、蒼い空気。妻、綾乃と出逢えた、特別な地になった。


 ――どれも、失った実感だけが、今はまだなかった。


 綾乃の軽やかで、柔らかい笑い声。帰国後に勤めたオフィス。いつも笑顔を向け、気遣いのある部下たちの顔。ゴルフと接待の日々。


 鮮明さが増すごとに、心の内側がキラキラした水で満たされていく感覚が強まる。過去が、呼吸のように静かに満ちては引き、その隙間に、鮎川の意識がゆっくり溶けていく。外界の陽気とは無関係にひたすら無機質な揺れを続けていた護送車が、突然大きく跳ねあがった。その衝撃で、鮎川の意識は完全に過去へ転落した。


 鮎川の内側で、「記憶」という名の扉が、最後の鍵を外すように、静かに開き始めた。


◆◆◆


 護送車が、再度大きく揺れた。鮎川の体は跳ね、頭が鋼板の壁に軽くぶつかる。その痛みで、鮎川の意識は、ようやく現在へ浮かび上がった。視界に戻ってきたのは、黒いカーテンが引かれた鉄格子のガラス窓と薄暗い車内。胸の内側には、先ほどまでの光景の残滓が、まだ重くこびりついている。手錠がかかった自分の両手を見下ろす。

『あの時』の感触が、はっきりと指先に残っていた。


 やがて、エンジン音が低くなり、やがて車は止まった。開いたドアから、春のはずなのに、どこか底冷えのする風が流れ込んできた。鍵のはずれる硬い音とギィと重そうなモノが動く音がした。護送車のドアが閉まり、また、今度はゆっくり走り出す。数分経った所で、護送車はようやく止まった。


「降りろ」


 その一言で、空気が切り替わった。

 鮎川は、刑務官に促され、外へ足を下ろし、四方を見回した。トンネル独特のひんやりした湿った石の匂いが、静かに鼻を打つ。四方コンクリート壁の……トンネル?

「……ここは」

「刑務所だ」

 告げた口元だけが、少し歪む。


 鮎川は、すぐに意味を結びつけられなかった。


 鮎川は眉根を寄せた。

「……刑務所、ですか」

(ここが?)

 鮎川は再度あたりを見回す。左手側には、薄明るく光ったトンネルの入口。右手側には、銀色の扉がある。

 ――あの扉の形状は、エレベーターか。

(いや、どうみても、トンネルの中だろ)

 そういえば、移送中、途中から未舗装路になっていた。裁判所を出てから、どのくらい時間が経った?鮎川は冷静を装いつつ、礼節を崩さない。

 ――心証がいいに限る。

「恐れ入ります。私は控訴をする予定です。この場所では弁護士の往来が難しいと思います。可能であれば、都心近くの施設へ――」

 刑務官は半目で鮎川を一瞥しただけで、まるで聞こえなかったかのように鮎川の右腕を引き、扉の方へ促した。

「……すみません。返事を――」

 一歩手前を歩くもう一人の刑務官も、何も答えない。扉の横にあるボタンを押した。

 ――やはり、エレベーターだった。

「……待ってください。話を――」

 鮎川の声に、刑務官は振り向きもしない。

(無視すんな。ふざけるな)

 刑務官は慣れた手つきで鮎川の手錠を外し、背中をドンッと突き、箱の中へ押し入れた。そして、流れるような事務的な声で言う。

「ここから先は、関係者以外戻れない。この『山の中』へは、外から生活物資は入らない。食べるものも着るものも、全部自分たちでどうにかしてもらう。外へ出るエレベーターの操作も、山の中からはできない。投入や運搬は、施設の都合で動くが、村の都合では開かない、ということだ」

 そう言うと、鮎川が逮捕されたときに持っていた所持品を、エレベーターの床へ投げ入れた。

「……何を言ってるんですか。弁護士を呼んでください。明日、控訴に向けて――」

 刑務官は深くため息をつくと、服の上から胸元を掻いた。

「控訴? 今後そんなものはない」

「……そんなはずがない。控訴は――私の権利です」

 刑務官は口の端で笑った。

「権利……ねえ」

「……権利です」

「権利かどうかなんてどうでもいい。お前の家族と親戚から連絡があった。二度と関わるな、ってな。お前が家族であることが恥ずかしいそうだよ」

(……恥ずかしい? どういうことだ)

状況を結びつけられない鮎川に、刑務官は続けて言い放つ。

「つまり、お前がどこで死のうが、誰も困らないってことだ。控訴はない。お前は死ぬまで、ここにいる」


 言葉の意味より先に、胃の腑がひやりとした。


(……死ぬまで)

「……どういうことか、説明してください」

 鮎川がエレベーターを降りようとすると、刑務官に腹を膝蹴りされ、くの字になった体の肩を押されて倒れ込んだ。

「ああ、そうだ。荷物からパソコンとスマホは抜き取ってある。電波は入らないし、ここでの生活には必要ない」

 刑務官が言い終わる前に、エレベーターのドアが閉まった。鮎川は這いずり、扉をどんどん叩く。

「開けてください! 説明を――!」

 その間にも、低い駆動音とともに、エレベーターは上へ動き出した。閉ざされた世界の中の、さらに閉ざされた箱。


(……理解できない。どういうことだ)

扉の向こうが遠ざかっていく感覚だけが、骨に残った。


 鮎川が茫然とする間に、エレベーターの扉が開く。目の前に広がる風景、流れ込んでくる湿った土の匂い。

「……なんだ、ここは」

 目の前の光景も信じがたいが、刑務官の言葉は理解しがたい。

「……なんとしても、控訴をしなきゃならない。でなければ、俺は冤罪の汚名を被ったままだ」

 鮎川は、エレベーターの扉が閉まり、元の階へ行くのを待った。だが、なかなかドアが閉まらない。


 ――まだ、何一つ、理解できていなかった。

 耳の奥で、自分の心臓の音だけがやけに響いていた。


 程なくして、箱の床が奥から斜めに傾き、滑り台を滑るように外に放り出された。

 ――壁の外と中。どちらが自由で、どちらが檻なのか。


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