エピローグ:「ここにいるのは、選んだからだ」
村人たちが連行された日から五年。
――春。
灰根村を包む風は、かつてよりも和らいでいた。澪とシスターは、夜明け前に起き、畑仕事や山の仕事を分担し、二人の暮らしを回していた。
朝の光はまだ弱く、空の端に淡い金色をにじませている。
朝一で、畑仕事を終えた澪は、大きめの湯呑を両手で包みながら、榊原の小家の縁側に腰を下ろしていた。湯気が、ゆっくり、ほどけるように空へ昇っていく。風が吹き、澪の髪をさらりと揺らす。空は驚くほど澄明だった。雲の切れ間から差し込む光が、まるで誰かの手のように、澪の頬にそっと触れてくる。
その瞬間――胸腑が不意に温む。
(村長……佐藤さん……)
二人からの乱れた走り書き。けれど、どんな形よりも、心がこもった文字。二人からの手紙は、澪の宝物だ。二人の言葉は、澪の胸で温もりを重ね、静かに根を張り、澪の背をそっと押し続けていた。
澪はそっと息を吸い込んだ。
――私は、誰かの手の中じゃない。自分の足で立つ未来を、選ぶ。
澪は「生きる方を選ぶ」決意を、日々の所作で更新していた。
その日、山菜を採りに行った帰り道、「……今日は、たくさん採れた」、そう言うと、澪はわずかに矜持を滲ませて笑んだ。雲一つない青空を見上げ、深く空気を吸い込む。
――今の平穏がこの先も続いていくんだ。
そう信じていた。だからこそ――東の跳ね橋を渡って村に入ったとき、澪の心臓は一瞬止まり、すぐ激しく鼓動を打ち始めた。手から、山菜の籠が滑り落ち、視界が涙でぼやけた。
「……シ、シスター……! 来て……!」
澪の叫びに驚いたシスターが小屋から駆け出してくる。そして目の先に立つ三人を見た瞬間、息を呑み、手を口元に当て、膝が崩れそうになるのを必死でこらえた。
そこにいたのは、村長 榊原。佐藤。そして、伊佐山。
三人は生きて戻ってきた。澪は、涙と笑みと言葉にならぬものを抱えたまま、ただ立ち竦んだ。まず「おかえり」が出てこない。喉が塞がり、再会の言葉が形にならなかった。
佐藤が、あの頃と変わらぬ柔らかい笑顔で手を挙げる。
「澪ちゃん、シスター。……待たせたね。日本に戻るのに、思ったより手間取ってさ」
佐藤は疲れを滲ませながらも、いつもの明るさで笑った。
「……生きていてくれたんだな」
榊原もまた、かつてと変わらない静かな優しさで微笑んだ。
「……久しぶりだ」
伊佐山の目には、言葉にならない何かが、長い時間をかけて溶けていた。
これほどの欣喜は、何年ぶりだろう。震える足で、三人に近寄り、「……お、かえ……」
澪とシスターは、「おかえりなさい」と言いたいのに、喉がつまって、なかなかうまく伝えられなかった。五人はしばらく、涙と笑みが入り混じった顔で立ち尽くしていた。
三人は語り始めた。戦争終結まで混乱が長引いたこと、息を潜め、帰還の機を待っていたこと。
榊原は遠くを見るように言った。
「外で暮らすのも悪くはなかった。だが……やはり、ここへ戻る価値がある。ここは忘れられた村だ。知らなければ誰も来ない。……そのぶん、外の騒ぎから距離を取れる。それに――ここで暮らすのが、一番落ち着く。俺にはな」
佐藤と伊佐山も頷く。
「ニュースは当てになりませんでした。結局、自分の足で確かめるしかなくて、五年もかかってしまいました」
その言葉には、どれほどの道のりが詰まっていたのだろう。
「俺は……入る前に一度、この辺りを見に来てたから場所は分かった。ただ、村へ上がるエレベーターが壊れててね。参ったよ。結局、十メートルの壁を越える梯子を組んだ」、佐藤が苦笑する。
「梯子は壁の内側にしまってある。外からは入れない」、伊佐山は微笑んだ。
澪の胸の奥で、長く乾いていた場所にそっと水が落ちた気がした。
―― これからは、自分たちの意思で、外に出ることができる。
閉じ込められているのではない。自ら選び、ここに在る。その差異ひとつで、心に落ちる影の濃淡が決定的に変わる。澪とシスターは言葉も出せず、涙を浮かべながら、頷いた。
久々の穏やかな空間に、伊佐山は腹の底からふぅっと息をつき、空を見上げた。彼の長かった心の葛藤が終わろうとしていた。
◆◆◆
榊原と佐藤とは別の戦地へ送られた伊佐山は、「運」なのか、豪に潜った瞬間、砲撃を受けた。土煙の中、続く応戦が終わった後、彼も生き延びることができた、と実感した。
駐屯地へ戻ると、榊原と佐藤を見つけた。二人の元へ駆け出していた。嬉しさでも驚きでもない。ただ、「当然だ」という強い思い。
榊原は、大事な人の罪を被った、と噂で聞いたことがある。佐藤は、確か冤罪だったはずだ。
(――絶対、生きて帰れる!)
何の根拠もないが、確固たる自信があった。そしてもう一つ――
『まだ正しく生きる義務が残っている』という静かな宿命。
(俺は……まだまだらしい)
伊佐山だけは、自分が何も間違えていなかった証拠のように、生き残った。むしろ、生かされた。
その事実が、伊佐山の長い苦渋に、ひとつの終止符を与えた。
◆◆◆
「そうそう」と佐藤は大きな鞄から中身を広げ始めた。
「澪ちゃん、前に言ってたでしょ。もっと薬草を見分けられるようになりたいって」
はい、と薬草の本や、野菜と果物の種を澪に渡した。
「みんなからだよ」と微笑む。
澪は、思いがけないプレゼントに、驚きながらも、三人一人一人にお礼を伝えた。
榊原は、「外で働きながら、ここで暮らすのに要るものを集めた」と伸びた髭を撫でた。
「それから――伊佐山さんからもあるんですよね。……伊佐山さん」
佐藤の呼びかけに、伊佐山はハッと現実に戻ってきた。
「大丈夫ですか?」
佐藤が伊佐山の顔を覗き込む。
「……ああ。大丈夫だ。少し考えてただけだ」
「それより。伊佐山さん、シスターと澪ちゃんに」
「……ああ」
伊佐山は、鞄を開けて、
「米だ。育て方の本も。……やっぱり米が食いたくなる。小麦も持ってきた」
小麦粉を使った料理や菓子が食べたくて、と頭を掻く。
伊佐山は、澪に渡そうとして、思いのほか近づきすぎていたと気づく。
「……悪い。近かった」と、机に置こうとする。
「……大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます」
澪は伊佐山へ笑いかけ、受け取った。
(……成長したな)
伊佐山は、大きく目を見開き、薄っすらと目が潤んだ。
その日から、灰根村には五人の静かな暮らしが戻った。朝陽前に起き、火を起こし、畑を見に行き、薬草を摘む。
以前のような収容所ではなく、ただの村として。ただの家として。
五人は、肩を寄せ合うように暮らした。
◆◆◆
夕方、村の広場で、焚火の揺れる炎を、榊原と佐藤は並んで眺めていた。長い沈黙の後、
「……生きて戻ったな、佐藤」
「ええ。……村長も、ご無事で」
ほんの短いやりとりだった。
以前二人で並んで座っていた時は、戦渦の中、触れ合っている肩からお互いの呼吸すら伝わってくるような緊張感が常に漂っていた。
――いつまで、生き延びられるだろう。
ただ、生きたいと願う気持ちは、お互いに言葉に出さずとも分かち合っていた。
その時とは違う沈黙。だがその沈黙には、互いの喪失も、赦しも、これから始まる新しい歳月も、すべてが温かく含まれていた。
◆◆◆
村へ戻った最初の朝、伊佐山は誰より早く起き、薪を割っていた。その背中は、以前のように張り詰めてはいない。どこか、柔らかくなっていた。
風がふと止んだとき、榊原と佐藤が笑いながら言った。
「伊佐山。……前より顔が上がったな」
「ええ。目が、少し優しくなりました」
伊佐山は斧を置き、肩をすくめた。
「過去はどうでもいい。……今は、自分のために生きてる。そう思えるだけだ」
その言葉は、これまでの彼なら絶対に口にしなかった種類のものだった。
「なぁ……あれ、鮎川さんが助けたリス、ですかね」
佐藤が、小屋の屋根を指差す。肩から腰に斜めに毛がないリス、その周りに五匹のリスが走り回っていた。しばらくすると、リスたちは、生存確認が終わったとばかりに、春の風の中、嬉しそうに尻尾を揺らしながら山へ戻っていった。
「……ああ。元気そうだ」
伊佐山が笑顔で応えた。
ここに在る小さな家族の輪の中に自分がいることを、伊佐山は静かに受け入れた。
(もう、振り返らなくていい)
胸の奥の古い痛みが、ようやく風の中へ溶けていった。
◆◆◆
ある日の午後、佐藤が澪に静かに声をかけた。
「澪ちゃん、髪……ずいぶん伸びたな。……よかったら、俺が整えようか?」
新調したんだよ、と佐藤は新しいカット用のハサミを澪に見せた。
澪は一瞬、肩をびくりと震わせた。
(触れられるのは、まだ怖い……)
――それでも私は、もう逃げない。
僅かに躊躇したけれど、目を閉じ、ゆっくり深呼吸して、小さく頷いた。
「……お願いします」
自分から選んだ。自分で決めた。
「どんな感じがいい?」
そんな言葉に、澪は戸惑った。髪型? 気に留めたことがないから、すぐに言葉が浮かんでこない。
その反応を見て、佐藤は「じゃあ……結びやすい長さにしよう。セミロングくらい」澪はコクリと頷いた。
手際よくカットしていく、その音を聞きながら、澪は決意したように、今まで気になっていた事を尋ねた。
「佐藤さん……ずっと、私を気にかけてくれました。……どうしてですか」
佐藤はカットしていた手を止め、青空を見上げた。そして、
「俺には、息子と娘がいたんだ。生きてたら……息子は澪ちゃんの三つ下、娘は五つ下。だから、って言ったら勝手だけど……どうしても、重ねちまってな」、佐藤は息を吐く。
「澪ちゃんが前を向くのを見るだけで、救われる。……それに、ただ元気でいてほしかった」
だからだよ、とカットを続けはじめた。
澪は、目を閉じた。
――こんな自分を、大切に思ってくれる人がいるなんて。
「……ありがとうございます」
澪は、喪われた長い歳月を見つめる日々から、顔を上げ、歩み始めた。
◆◆◆
灰根村の空は青く澄み渡っていた。けれどその青は、どこか白に近く、光の粒をたくさん含んだ色だった。
風は、生き続けていた。
それぞれの心もまた、静かに、生きる方へと動き始めていた。
風が五人のあいだを通り抜ける。
草がそよぎ、どこかで笑い声が柔らかく重なった。
まだ見ぬ季節が、その向こうで静かに待っている――そんな気配がした。
この小さな村で。
五人の胸の中で。
消えた人々の記憶の上で。生きる方へ。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!




