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壁の山  作者: 朝霧 瑠璃
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第十六章:「誰もいないのに、日常がある」

 ―― 村に、再び春が巡ってきた。

 村人たちが突如連れ去られたあの日から、三年が経っていた。


 寂然とした村に漂う、僅かな人の気配。いま村に残るのは、澪とシスターだけだ。澪は生を選んだ。それは勝利ではない。ただ、明日へ手を伸ばすための、いちばん小さな前進だった。


 畑は耕され、井戸は使われ、営みの輪郭だけは消えていなかった。二人は、かつて榊原が使っていた小屋を住み処にし、山から必要なものを採り、静かに日々を回していた。


 人が消えても、日常だけが遺されていた。

 

◆◆◆

 

 三年前のあの日、澪とシスターは薬草採取のため山に入っていた。

 

 冬に流行した風邪で保存していた薬草を使い切り、すでに払底していた。山はまだ冷え切り、草の間から顔を出す薬草は少なく、二人は慎重に探し歩いていた。

 

 昼前、山中に響いた乾いた音――銃声。

 

 胸腔の奥が凍りつくような感覚に襲われた。二人は顔を見合わせ、慌てて山道を下り、村を見渡せる高台へ出ると、広場に村人全員が整列させられているのが見えた。


「……なに、これ……?」


 二人は咄嗟に草むらに身を潜め、息を殺して様子をうかがった。


「さっさと歩け!」

 兵士たちの怒号が風に乗って届く。村人たちは次々と手を縛られ、列を組まされ、壁の外へつづく、あのエレベーターへ向けて歩かされていった。村人たちが次々と山へ呑まれていくのを、澪たちは恐怖を噛み殺しながら、見つめることしかできなかった。

 無音のまま、空気だけが動いた。

 その列の後ろの方を歩く榊原を見つけた。榊原は、右から左へ、左から右へ、山の中の何かを探すようにゆっくり見回している。澪とシスターが草むらから少し顔を出して、見つめていると、彼の視線が、高台に潜む二人とまっすぐに絡んだ。視線が合った瞬間、榊原は小さく首を横に振り、顎で山奥を指し示した。


(……逃げろ)


 そう理解した二人は、その場を動かず、全員が連れていかれるのを見届けた後、山奥へ逃れた。

 翌朝、胸の奥に鉛のような沈黙を抱いたまま村へ戻った二人の目に映ったのは、荒らされ、営みの痕跡だけが惨憺と遺された村の姿だった。二人は、言葉を交わさず、ただ片づけを始めた。誰もいない村で、日常を作り直すために。

 気持ちは沈鬱に傾きがちだが、朝の光が降り注ぎ、畑の土を温めるその感触は、かつての村と同じように柔和だった。

 

 そこから、二人の生活が始まった。畑を二人で耕し、必要なものは山から採り、足りないものは工夫して拵える。今までと同じ作業。――ただ、関わる人数がたった二人になってしまった。それだけが違う。

「……こんなに静かな村は、初めてです」

 ぽつりと呟いた澪に、シスターは小さく頷き、「……そうですね」と哀切の滲む声で返した。

 最初は、すべての作業を二人で、と気負い込んでいたが、慣れてみれば、当然のことながら、二人分の生活なら二人で働けば十分に回った。

 

 ある日。二人が畑の道具小屋を片づけていたとき、澪は土に半ば埋没した黒い物体を見つけた。拾って土を払ってみる。

「……これは……」

 佐藤が使っていた、美容師鋏の入った黒い革袋だった。革袋のチャックを開けると、使い込まれたハサミが収まっている。

 ――その脇に、小さな紙切れと、短くなった鉛筆。

 紙には、いくつかの時間と名前が走り書きされていた。カットの予約表だ。


 澪は、紙を裏返した。そこに、佐藤の字があった。


『澪ちゃん

 人生って、いろいろあるけど

 澪ちゃんは、まだ笑う番を残してる

 だから、生き続けて。

 生きてる人にしか、笑うチャンスは来ないから』


 急いで書かれたことが伝わる、乱れた走り書き。


 紙を持つ指先が顫え、喉の奥から、声にならぬ吐息が漏れた。


 数日後。榊原の家の棚の裏から、もう一枚の紙が見つかった。そこには、澪とシスターに向けた言葉が残されていた。


『澪、シスター

 生きなさい生きることは、

 戦うことよりも尊い

 その尊さを、どうか手放さないように』


 澪は顫える指でその文字をなぞり、胸の奥に温い疼きが広がるのを感じた。


 ――そうだ、生きていくんだ。

 

◆◆◆

 

 二人だけの生活は、決して容易ではなかった。力仕事も、冬の備えも、すべて自分たちで担わなければならない。けれど、孤絶ではなかった。


 二人を包む空気は、季節の巡りと同じ速度で、ゆっくり、静かに、しかし確実に累積していった。春は二人で畑を整え、雑草を抜き、前年に保存しておいた種を蒔いた。村人たちがいた頃のような大きな畑ではない。ただ二人が食べていくための、小さな畝をいくつか。


 夏になると、畑へ水を運ぶ律動が日常になった。肩にかかる重さ。汗が額を伝い、土に滴っていく。


 秋には、木の実や、山で狩った動物の干し肉で、冬の保存食を拵えた。徴用前に村の男たちが狩り尽くしたおかげで、秋から冬の間にヒグマが村を脅かすことは一度もなかった。夜毎に戦慄する必要もなく、物音に身を固くすることもない。外から忘れ去られてしまったのだろうか。村人が徴用されて以降、ヒグマの投入もなくなった。


 最初の冬は、村にあった熊の毛皮をかき集め、寄り添うようにして寒さをしのいだ。


 同じ時間を背中合わせでくぐり抜け、同じ沈黙の中で息を潜め、同じ夜明けの空を見上げた。


 三年という時間は、ただの延命ではない。――「生きる」そのものを選び直した時間だった。


 ――自分は、この場所で、シスターと共に、生を選んだ。

 その静かな決意は、ゆっくり澪の胸に沈んでいった。



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