第十五章:「新しい名――澪」
名を呼ばれるたび、身体のどこかが、わずかにずれていく気がした。自分のもののはずの音なのに、最初から誰かの手の中にあった札みたいに軽い。軽いものほど、簡単に奪われるくせに、その軽さは投げ捨てる自由をくれない。『ここ』では、名は札と同じだ。呼ばれ、記され、照合される。そこから外れた瞬間、人は外へ落ちる――そういう仕組みの中で、この村は静かに息をしている。
澪の本名は、遠野望。希望の字を抱えたその名は、彼女にとって長く、痛いだけだった。家で呼ばれるたび、それは殴られる前の合図みたいに聞こえ、怒鳴られるたびに胸の奥がぎゅっと縮んだ。ならば、いっそ無いほうがいい。無いなら、踏まれもしない。奪われもしない。
父は、ほぼ毎日、酒の匂いをまとって帰ってきた。帰宅という言葉が似合わない乱暴な足音が廊下を叩き、戸が鳴り、家の空気が一段濁る。その瞬間、望は無意識に息を止める。母の背に隠れ、母の肩が、見えない殴打の前で先にすくむのを、何度も見た。
――拳。蹴り。怒鳴り声。硝子が鳴る音。
そして深夜、何事もなかったように、父だけが寝息を立てる。母は黙って床を拭き、望は黙って皿を洗う。沈黙は家の決まりで、言い返すことも、泣くことも、贅沢だった。
救いが一つだけあった――祖母だ。望が小四の頃まで生きていた祖母は、望を「目が静かな子だ」と笑って、よく本を買ってくれた。小さな書店の紙袋。ページをめくる音。紙の匂い。文字の列だけが、殴られない場所だった。息をしていい場所だった。祖母は、望の腕の痣を見つけた日、何も言わずに古い絵本を一冊増やした。逃げ道を増やしてくれていた。望は、守られるという感覚を、初めて肌で覚えた。
祖母が死んだとき、望は「家の外」の冷えを知った。葬式のあと、父は酒を飲み、母は泣き、望は台所で茶碗を洗った。湯気の向こうで、祖母の声だけが消えていく。胸の底がひやりと冷え、世界が急に広く、怖くなった。
祖母がいなくなると、母はさらに働いた。父の酒代を埋めるためだと、望は後で知った。中学三年の冬、母は職場で過労で倒れた。病院の白い廊下で、医者に「脳梗塞です」と告げられたとき、言葉は丁寧だったのに、結果だけが残酷だった――母は、そのまま戻らなかった。
母がいなくなると、暴力は望だけに集まった。逃げ場がなくなる、というのはこういうことだ、と望は理解した。理解したから、身体が動かなくなる。夜になるたび、刃物を探した。腕に刻むのは痛みじゃない。自分がまだ『ここにいる』という確認だった。血が出ると、少しだけ安心した。逃げ道が塞がれ、生き延びるだけの生になっていった。高校に入ると同時に、望はアルバイトを始めた。
封筒にお金を入れ、教科書の奥に隠し、少しずつ増やしていった。「卒業したら家を出る。鍵がかかる小さな部屋でいい」――その想像だけが、息継ぎになった。
遂に迎えた高校卒業式の日。望は、父が帰宅する前に家を出る計画でいた。だが、玄関の扉を開けた瞬間、望は凍りついた。普段居ないはずの父が、廊下の薄暗がりに立ち、あの封筒を指でぶら下げ揺らしながら、酒の匂いで笑っている。望の喉がからからに渇いた。
「貯め込んでたのか」
次の瞬間、望の頭に血が上り、自分でも信じられない勢いで、父に飛びかかっていた。
「返してっ……! それ、返して……っ!」
封筒を奪い返す前に、頬がはじけ、視界が白くなった。床に転がり、背中に鈍い痛みが走る。
金は父のポケットに消え、その夜、父は新しい酒瓶を抱いて寝た。
希望は、手を伸ばした瞬間に潰れる――その形だけを、望は覚えた。望は、死にたいと思った。正確には、この先に絶望しかないだろうこの生を、終わりにしたいと思った。
その夜、火事が起きた。
望は自室で、鼻の奥に刺さる煙の匂いで目が醒めた。喉がひりつき、息を吸うほど熱が肺へ落ちる。天井の隅が赤く、空気がうねっていた。
(……火?)
何が起こっているのか考えるより先に、身体が震え、心臓が暴れ、視界が狭くなってくる。立ち上がろうとするが、足に力が入らず、どこへ逃げるべきかが一瞬で分からなくなった。火の音が近く、ぱちぱちと乾いた音が鼓膜のすぐ裏で鳴っているようだった。
呆然とする中、望ははっとして、机まで這っていき、引出しの奥に手を伸ばした。
――祖母と母の位牌と写真。
父に見つかったら捨てられるから、隠していたものだ。それを腕に抱えた瞬間、望の胸の奥に奇妙な安堵が落ちた。望は目を閉じる。
(ああ、これで……終われる。『痛い』生活から解放される。終わったぁ)
――だが……目が醒めてしまった。病院のベッドの上だった。
動こうとすると、体中に痛みが走り、起き上れない。特に、右腕と背中に巻かれた包帯の下は、じくじくと熱く、そこだけが別の生き物みたいに疼き、咳と涙が勝手に溢れた。生き残ったことが、呪いに思えた。
――なぜ、助けた。
――なぜ、死なせてくれなかった。
父は焼死した。
当初は、父の煙草が畳に落ちたのだと言われたが、捜査が進むにつれ、黙ったままの望の態度が、妙に大きく扱われ始め、結局、書類の上で「放火」となった。誰かの都合のいい言葉が、望の背に貼られた。事情聴取の机の上で、望は包帯の白さだけを見ていた。言葉はどれも遠く、現実味がない。
(どうでもいい)
否定する力も、未来も、もうなかった。
(もう、どうでもいい)
終われる場所へ行けるなら、罪でも何でもよかった。
望が山へ連れてこられた日、空気は乾いていた。車の窓は白く曇り、どこまで来たのか、望には分からない。山の中の無機質なエレベーターの前で、「ここは施設だ」とだけ言われ、刑務所とも、更生とも、はっきりしない言葉だったが、望は、ここなら終われる、と勝手に信じた。
――やっと、希望が見えた!
望は、躊躇いなくエレベーターを降り、外へ出た。目の前に広がる森に驚くべきでもなく、早速、手頃な枝のある木を探し始める。背伸びをすれば届く、太めの枝――見つけた。
望はふっと息を吐いた。シャツを脱ぎ、引き裂き、紐を作った。
包帯を通して入ってくる冷たい風が、爛れた皮膚に突き刺してくる、腕が震える程の疼きだが、指先だけが不思議と落ち着いている。身体は、こういうときだけ器用だった。
望は、紐に結び目を作り、枝にかけ、首に回し、体重を預けた。首が引かれる。硬いものが喉を噛む。声が出ない。世界が縮み、空気が遠ざかる。
(これでいい。ああ、やっとだ。これで、呪われた人生から――)
望は、満足気にうっとり目を閉じた瞬間、腰を掴まれ、首の紐が緩み、冷たい地面に降ろされていた。息が乱暴に入り、咳と涙が止まらない。同時に頭上から落ちてくる怒鳴り声。
「なにしてるんだっ!」
ビクッとして見上げると、父の二回りは大きい男たちに囲まれていた。大人の男が近くにいるだけで、反射的に望の喉が締まり、体が縮んだ。
――殴られる!
望は咄嗟に立ち上がり、逃げようとした。刹那、男たちに両腕を押さえられ、膝が土に落ちていた。僅かな時間でも首に食い込んだ布のせいで喉が焼け、唾が血の味を連れてきて、激しく咳き込む。男たちの硬い息と短い指示みたいな音が降ってくる。腕を掴む男の手の力が弱くなった瞬間、望は再度逃げようとするが、体が宙に浮き、男の肩に担ぎ上げられていた。
――イヤだ! また殴られるのはイヤだ!
望は、火傷の痛みを忘れ、手足をばたつかせ、激しく暴れ、噛みついた。歯が何かに当たり、鉄のような味が口に広がった。腕の力が強くなるが、押さえられるだけで殴り返されなかった。
体格のいい男に荷物のように担ぎ上げられ、暴れても全く効果がないと悟った望は、次第におとなしくなっていった。
暴れなくなった望を見た佐藤は、望の肩に手ぬぐいを掛けた。妙に体温だけが残る布、そのぬくもりを感じると、望は、次第に腹の底から怒りが湧き上がってきた。
(なぜ、助けた。なぜ、死なせてくれなかった。)
――息ができることが、腹立たしい。
――息ができることが、怖い。
◆◆◆
望が連れていかれた先は、塀に囲われた所だった。男たちは、まっすぐ村長の小屋へ向かった。戸を叩き、返事を待たないまま開ける。
「村長。班長会議中すみません。……エレベーター近くで首を吊ろうとしていた子を連れてきました」
佐藤が丁寧な言葉で報告した。声は落ち着いているのに、視線は鋭い。
榊原が立ち上がり、「……まずは、その子を降ろせ」と低い声で言った。
肩から地面に降ろされれば、当然、視界に映るものも変わる。望の目が、厳つい男と女たちをとらえると、呼吸が乱れ、
「……近寄らないで……近寄らないでっ!」
望は手の届くものを投げつけ、叫んだ。投げるものがなくなると暴れ、抑えようとする腕に噛みつき、意味のない声を撒き散らす。言葉にならない戦慄だった。
榊原は、望の錯乱が「男の存在」で増幅しているのを、一目で察した。
「伊佐山」
低い声が落ち、伊佐山が望から手を放す。榊原は班長たちに顎を振った。
「男は外へ。……今すぐだ」
返事が重なり、次々に男たちが出ていき、戸が閉まる。空気が一段軽くなり、望の呼吸が一拍だけ戻った。
「白石を呼べ。あと、湯と布を用意しろ」
「了解しました」
驚きで固まっていた女たちが次々に動き出した。
ややして、中年の女が入ってきて、望に近づきすぎない距離で膝をついた。
「……大丈夫……大丈夫よ。まず、ゆっくり息を吸って……ゆっくり吐いて……」
穏やかな声だった。何度か深呼吸を繰り返すと、望の呼吸は整っていき、やがて膝を抱えて地蔵のように動かなくなった。白石が煎じ湯を唇に含ませ、火傷に布を当て直すと、望はもう抵抗せず、そのまま眠りに落ちた。
◆◆◆
望が村長小屋に運び込まれてから、しばらくして。班長会議を中断し、望の処置の段取りだけを済ませてからのことだ。榊原の指示で、村長小屋の隣――(村長も連絡や聞き取りで使う)白石が話を聴くために使っている小屋に、人が集められた。机を囲む、榊原と班長たち、望を見つけた狩猟班、白石、どの面々も暗く沈んでいた。望本人は村長小屋で眠らされている。ここにはいない。
床に敷かれた筵が少し湿り、薬草の匂いが薄い煙みたいに天井へ溜まっている。
白石は、榊原を見上げた。
「話せる状態ではありませんでした。疲れたのか、今は眠っています」
榊原が短く頷き、「分かった。……まず事実を聞く。佐藤」
佐藤は言葉を整えるように、一拍置いてから報告した。
「恐らく、今日入所した子だと思います。エレベーターの近くで、首を吊ろうとしていたので、止めました。近づくと暴れて、噛まれましたが……問題ありません。消毒しました」
榊原は、白石に目を移し、訝し気に、「ここに入るのは十八歳以上のはずだが……本当に十八歳以上なのか?」
「見た目は中学生位に見えますが、おそらく。栄養が足りていなかったのだと思います」
白石の言葉に、班長たちが互いに目を交わした。言葉にはならないが、思い描く同じ可能性に辿り着き、空気の底で揃っていく――外で、何かがあった。
「推測は後だ。今は穴を増やさない」
榊原が切った。その一言で、部屋の温度で一段下がった。憐れみを入れれば規則が揺れ、その隙間から、村は壊れることを、榊原はそれを知っている。
「白石。他に気付いたことはあるか?」
「左腕に多数の切り傷の痕、右腕と背中は酷い火傷を負っています。あと……体中に打撲痕がいくつもありました。先程の錯乱状態になる原因は、まだわかりませんが、私が話した限りでは次第に落ち着きを取り戻していきました」
「……分かった」
榊原は一度だけ瞬きをして、指示に移った。
「今日からそのまま、私が使っている小屋――村長小屋で一週間の隔離にする。彼女に言わなくていい。監視は白石が主体となって動け。水汲み、食事、包帯替え、寝る場所の出入りを全部、女で固めろ。洗面で小屋から出るときは、彼女の動線に男を置かないようにしろ」
各々、是の返事が重なった。榊原は最後に、佐藤と伊佐山へ視線を投げた。
「見つけたのは、お前たちだ。言い方を間違えるな。『外から来た女が隔離期間中だ』――それ以上は言うな」
「分かりました」と、佐藤と伊佐山が低く答えた。
◆◆◆
その日から、白石は望のそばに居続けた。
急に始まった白石との二人生活に望は戸惑っていた。いったい、どういう状況なのか、と疑問に思うが、それを白石にぶつけようとはしなかった。何も話したくなかったのだ。せっかく持てた希望を急に現れた男たちに邪魔をされ、その苛立ちの方が強かった。そして、常に白石か他の女がそばにいるから、ひとりになる時間がない。――つまり実行する機会が全くないのだ。その事に対する苛立ちが日に日に望みの中に蓄積していった。
毎日の包帯替えも、望を苛立たせていた。何もしていなくても痛くてたまらないのに、包帯をほどかれ、焼けた皮膚が外気に触れる時の響く痛み、消毒を置かれる時の激痛。望は奥歯を噛みしめ我慢していたが、時々声が漏れてしまう。白石は、「痛いわよね」とだけ言って、手を止めず作業を続けた。白石は、近づきすぎない距離で、望のそばにいた。
(どうせ、こんなの治療しても意味ないのに――)
そう思っていても、望は口に出さなかった。
小屋の中は薄暗かった。窓は雨戸が閉められていて、隙間から僅かに差し込む明かりと誰かが歩く気配と音だけで、閉ざされた空間。望は逃げ場のない空間に『閉じ込められている』ように感じていた。
望が「トイレに行きたい」と言うと、白石は「ちょっと待っていて」と、外へ続く扉を少し開け、何かを伝える。そして、白石にトイレへ連れていかれる。
(これじゃ全く一人になれない、逃げられない。一体どういうことなの?)
そして、望はもう一つのことに気づいた。外ですれ違うのは女ばかりで、男の気配が全くと言っていいほど、無い。初日に会った男たちしか男はいないのか、と望は思い始めていた。
夜になると、外で鍵が回る音、続けて施錠確認の音、去っていく足音が小屋の中に届く。望はそのたび、逃げ道が塞がる感覚に襲われ、吐き気がした。
望は、食事を出されても、あまり食べなかった。利き手の右手を動かすと痛みが全身に響き、食べる気が失せ、またあまり食欲がわかなかった。
「食べないと、死んでしまうわよ」、と白石が言った。
(――なるほど。……その手があったか)
望の中で、冷たい何かが光った。白石は、望の顔を見て、少し眉を動かす。
「今、逃げ道を見つけた顔をしたわね」
声は柔らかいのに、刺すところは刺す。望は息を呑んだ。白石は笑わない。責めもしない。ただ、選択肢だけを並べた。
「選びなさい。男の人に後ろから押さえてもらって、私が無理やり食べさせるのと――自分で食べるの。どっちがいい?」
――男。押さえる。無理やり。
言葉だけで望の胃がひっくり返り、胸の奥がざわつき、肩が震えた。白石は一歩も近づかないが、逃げ道も作らなかった。望は、唇を噛みしめ、仕方ないとばかりに器へ手を伸ばした。自分で食べるほうを選ぶしかなかった。
白石との生活が始まった六日目。
昼食を食べ終わり、息を吐いた望の前に白石が座った。
「あなたのこと、教えて。ここで生きるには、知っておいたほうがいいから」
望はしばらく黙っていた。
「……別に、生きたいと思っていません」
「あら、そうなのね」
「私、新しい目標ができました」
「それは何かしら」
「一日も早く……死ぬことです」
白石は、すぐに否定しなかった。代わりに、湯呑みを一つ、望の手の届く位置に置く。逃げ道ではなく、道筋を作る仕草だった。
「それでもいい。……ただ、理由は聞かせて。あなたが壊れた順番を」
望は、喉の奥が詰まった。言葉にすると戻ってきてしまう――父の暴力、優しかった祖母と本の紙の感触、母の死、貯金を奪われたこと、希望を持てない生活、火事、父の死、よく理解できない罪、山へ連れてこられたこと、首を吊ろうとしたこと、全部。望の視線は下がり、筵の網目を数え始めていた。それでも、白石の目は逸れず、黙って望の言葉を待った。どのくらいの時間が流れただろう。望は、切れ切れに話し始めた。
話しているうちに望は気づいた――この自分の過去は、物語ではなく、報告書だ。望がどう壊れたかの、手順書だ、ということに。
◆◆◆
その夜。
明日で隔離期間を終える望の処遇について話し合うために、班長会議が持たれた。白石が話を聴く小屋に、榊原、白石と各班長たちが集まる。合わせて十二人。
油皿の火は細く、雨戸の向こうでは巡回の足音が、遠ざかったり近づいたりする。
白石は、望から聞き取ったことを淡々と並べた。暴力の種類。火事の夜。右腕と上半身に巻かれた包帯の下の治りきっていない火傷。最後に、望の言葉だけを、石を置くみたいに落とす。
「……生きたいと思っていないそうです。目標は『一日も早く死ぬこと』だと」
誰かが息を呑み、誰かが「やりきれない」と小さく舌打ちし、班長のひとりが「救われない」と眉を寄せる。
「皆の意見を聞かせてくれ」、榊原は背もたれに背中を預け腕組みをした。
「放っておけば死ぬ。だが、止めれば暴れる……どうしたものか」、警備班の班長が言う。
「助けなかった方がよかったのか。ただ村から自殺者を出したくない」、狩猟班の班長がため息をついた。
「大人の男が近寄ると暴れるのであれば、女の付き添いをつけるとかはどうですか? 見張り役――いえ、見守り役として」、女宿舎の班長の提案で場の空気の流れが僅かに変わった。
「それなら、引き継ぎも記録も――誰がやっても同じように動けるように、型を作ったほうがいい」、と職人班の班長が付け加えた。
「特別扱いにならないか? 村の中の空気が崩れる」、畑班の班長の声が落ちる。
榊原は即答しなかった。灯りの影を頬骨に落としたまま、短く指を折る。
「それであれば、扱いは規則に落とせばいい。規則なら特別じゃない。情報は班長までに止め、村全体には流さない。見張りも、付き添いも女番で回せばいい」、男宿舎の班長が穴を埋めた。
「罰も決めろ。抜け道になる」、倉庫班長が言う。
女宿舎の班長が頷き、「『女の』付き添い当番を外す、というのはどうですか? 大人の男を怖がるのであれば、この罰が一番堪えると思います」
まとまったな、榊原が結論を落とした。
「よし。自傷は禁じる。抵抗して怪我を増やすなら拘束する。常に『手の届く距離』で年配の女が付く。男は近づかない。一人になる時間を、意図して作らない。取り決めを破れば、付き添い当番を即座に外す――これでいいか?」
班長たちが頷いた。榊原は、班長一人ずつに目を置き小さく頷いた。
最後に、白石を見て、「名前は?」と問う。白石は首を横に振り、「最後まで言いませんでした」
榊原は一拍置き、決めた。「なら、こちらで付ける。……明日の朝、告げる」
◆◆◆
七日目の朝。
白石が雨戸の閂を外し、薄い光を室内へ滑り込ませた。窓枠から湿った土の匂いが流れ込む。
そこへ榊原と女たちが入ってきた。戸口の外には男が二人――ただ立つだけで、狭い小屋の空気が変わった。男の匂いが混じっただけで、望の喉が締まり、身体が勝手に縮んだ。白石が望の肩に手を置く。
「ここは、私がいる。床を見て。……息をして」
榊原は望を一瞥し、戸口へ顎を振った。
「近づくな」
男たちが黙って下がり、戸が半分だけ閉まる。匂いが薄れ、望の視界が少し戻った。榊原は小屋の中央に立ったまま、距離を詰めない。
「俺は、この村を預かっている、榊原だ。村長、と呼ばれることもある。横にいる女たちは、仕事や女宿舎の各班長だ」
「さて」、と榊原は、望を真っすぐ見る。
「ここは村だ。ここにいる以上、名前が要る。……名を言え」
「……」
「だんまりはだめだ。名を言え」
「……忘れました」、望は床に視線を落とした。
「そうか」
榊原の声は冷たくない。ただ、決めている声だった。
「忘れたなら、付ける。ここでは『名無し』は通らない」
一拍置いて、榊原は言い切る。
「澪だ。今日から、お前は澪」
澪――耳に落ちた音は、水の線みたいに細かった。望は受け止めきれず、唇を噛んだ。名が付いた瞬間、逃げ道が一つ塞がる感覚が、背中をぞくりと走った。
「次。自傷は禁じる。お前が嫌でも、これは村の決まりだ」
榊原は班長たちを見回してから、望に目を置き、
「その代わり、お前に女の付き添いをつける。男が近づかないようにする。お前が一人になる時間を作らない。――破ったらどうなるかも、決めた」
「女の付き添い当番が即外れます」、女宿舎の班長が静かに言った。
榊原が短く頷く。
「澪。自分で自分を壊すな。壊そうとしたら、止める。抵抗して怪我を増やすなら拘束する。必要なら男も使うが、そのときは俺の指示で動かす。勝手はさせない」
――男。拘束。
言葉だけで吐き気が上がり、望は座り込みそうになった。白石が後ろから肩を押さえ、目だけで「今は聞いて」と伝えてくる。虚ろな目をした望に、榊原は少し目を細め、
「お前の過去はどうでもいい。ここでは、働けるか、働けないか、それだけだ。働けるようになったら、女の仕事を回す。――畑、井戸、洗い、縫い。……それだけだ。余計なことは考えるな」、と言い切り、「白石、後は任せる」、低い声で添えた。
榊原たちが出ていく気配、戸が閉まる音、遠のいていく足音を聞き終えると、望はその場に座り込んだ。
(……こんなの、八方塞がりだ。決まりも、罰も……)
抜け道をすべて絶たれた状況に、望は脳をズンッと押さえつけられた気がした。新しい名が付いたのに、自分が少しも増えていない。むしろ削られた――そんな気がした。
◆◆◆
その日から、望は、澪という新しい名と共に、女宿舎へ移った。ベッドは白石の隣。祖母と母の位牌と写真だけの持ち物は枕の下に隠した。山で引き裂いたシャツの代わりに、新しいシャツが渡された。布の清潔さが皮肉に眩しく、澪はそれをまとった自分が、どこかよそよそしかった。
二か月後。火傷の傷が塞がり、澪は畑仕事や洗い物を手伝い始めた。生きるのは面倒だった――息を吸う、吐く、食べる、眠る、明日が来る。それだけの繰り返しがうんざりするほど重い。終わりたいのに終われない――その手詰まりが、胸の奥でじわじわと腐る。だから、澪は、考えないために働いた。土の冷たさ、指のひび割れ、布を絞る痛み。身体の感覚に意識を沈めれば、少しだけ「今」に縛られる。
しばらくして。洗濯の最中、澪の隣で洗濯をしていた女が、落ちない汚れに苛立ち、布を叩きつけた。
澪は反射的に身を縮めたが、その怒りが自分へ向いていないと気づくと、息を吐き、喉の奥でつかえていた言葉を押し出した。
「……木灰の、灰汁を使うと……落ちやすいです」
女は手を止め、澪を見た。疑うというより、驚きと半信半疑が混じった目だった。
「灰汁? あの、竈の灰の?」澪が小さく頷く。
「灰をふるって……熱い湯を注いで……一日置くと、上が澄みます。その上澄みです。洗濯桶を置いている所の棚に、作っておいた灰汁の洗剤を置いておきました」
言い終えるころには、声が掠れていた。女は迷う間もなく走っていき、洗い場の隅から、口の狭い容器を一本持って戻ってきた。中身は、水みたいに澄んでいる。
「これ?」
「……それです」
女が灰汁の上澄みを桶へ注ぐと、湯の匂いがわずかに変わった。布を沈め、押し洗いする。黒ずみが、じわりと浮いた。繊維の奥から、溜めていた汚れがほどけるみたいに。
「……ほんとに落ちる」
女が呟き、隣の女へ顎をしゃくった。
「見て。こいつ、知ってる」
澪は何も言えず、手元の布だけを見つめた。
褒められているのに、背中がまだ硬い。けれど――桶の水面に浮いた黒い筋だけが、確かに結果として残っていた。
その日から、洗い場の端に澪の居場所が、少し出来た。
聞けば答える――それだけの形で。布の汚れ、畑の虫、喉の痛み。澪が祖母に教えてもらったことや本で覚えたことを口にすると、女たちは半信半疑で試し、効けば翌日には別の女がまた訊きに来る。
オオバコを揉んで喉に当てると炎症が引く、と言った日には、畑班の班長が黙ってオオバコの束を持ってきて、夕方には「次も頼む」とだけ言った。
若いのに、妙なところで役に立つ――そんな扱いが、澪の肩へ静かに積もっていく。頼られる、という感覚は怖かった。けれど、殴られない頼られ方が、この村にはある。その事実が、澪の中の死にたいを、ほんの一割だけ薄くした。
半年が過ぎ、澪はようやく村の外へ出る作業にも、付き添いで出るようになった。
ある日、村の外、北側の木々の向こうに、ぽつりと小さな小屋があるのを見つけた。小屋は風に晒され、周りだけ草が短く刈られている。澪は白石に訊いた。
「……あれ、何の小屋?」
「隔離小屋よ」、白石はあっさり答えた。「新しく村に入る人たちは、病などを持ち込まないために、一週間、あそこで自給自足をしてもらうの」
「……私も、あそこに入れられるはずだった?」、澪の喉がひゅっと鳴った。
白石は一拍だけ置いて、肩をすくめた。
「最初の数日は、そういう声も出たわ。でも、あなたは――あそこに一人で放り込んだら、即、首を吊る。だから村長の小屋で、目が届く距離で隔離したの」
(ああ、そのための、あの七日間だったのか)
――納得した。が。
澪は砂利を踏む足元を見つめた。死ぬチャンスを奪われた、という怒りが湧き上がってくる。
(理不尽だ)
白石は澪の顔を見て、少しだけ口角を上げる。
「往々にして大人は、ずる賢いのよ。――死なせないためには手段を選ばない」
澪は、勝てない、と静かにため息を吐いた。
◆◆◆
澪が村に来て二年。
――その春、隔離小屋に新しい男が入った。鮎川康という名だった。
澪の手は、畑を耕す動きに馴染んでいた。井戸の水を汲み上げる桶の重さも、もう身体が覚えている。夜の施錠音にも、巡回の足音にも、身体はもう、いちいち跳ねない。配給の列で札が擦れる音を聞いても、胸の奥に薄く刺さるだけで、器を受け取って歩けている。誰も優しくはない。けれど誰も、殴らない。ここで叱られるのは、危険なことをした時だけだ。手を抜けば叱責ではなく、作業を外される。規則が先に立ち、人の気分が後ろに下がる。その冷たさが、『あの家』よりはずっとましだった。
女たちは互いに深く踏み込まない。興味がないのではなく、踏み込めば壊れると知っている顔だった。だからこそ、布が裂けたときは黙って針と糸を渡し、喉が腫れたときはオオバコを揉んで差し出す。助けるは口にせず、手の動きだけで済ませる。生きるのは相変わらず面倒だ。だが、死ぬことだけが目標だった日々は、少しずつ遠くなった。百あった衝動が、十まで減ったと言えばいいのか。死にたいより先に、『今日は畑を終わらせたい』が出てくる朝がある。
――けれど。
ある朝、畑の土に触れた指先が、ほんの一瞬だけ温かく感じた。春先の湿り気が掌に残り、その温かさがひどく腹立たしくて、同じくらい泣きたくなった。
(……生きていくのも、悪くないのかもしれない)
そう思った瞬間が、怖かった。前の名の痛みが消えるわけではない。それでも澪は、土を寄せ、息をして、次の一歩を踏み出した。




