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壁の山  作者: 朝霧 瑠璃
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第十四章:「笑うしかない場所で」

 耳を劈く轟音と衝撃。佐藤は宙へ放り投げられるのと同時に、肺腑の空気を無理矢理絞り出されるような圧力を受け、意識がぶつりと断ち切られた。


「……っ……」

 意識が戻ったとき、瓦礫の隙から薄桃に滲む空が覗いていた。

 

(……重い)

 呼吸が浅くなるほどの重圧が、胸郭の上にのしかかっている。腕をゆっくり持ち上げ、その『重いもの』を押しのけて起き上がった。押しのけたそれが土へ滑り落ち、佐藤は背筋を凍らせた。

 ――屍だ。

 顔面の半分は潰れ、血泥に塗れて判別すらつかない。


(……これが……俺を……庇ったのか)

 吐き気はあるのに、なぜだろう、屍を屍として認識できない。

 

 土と鉄錆の匂いを孕んだ冷たい風が頬を撫で、通り過ぎる。その風の向こう、顔を上げた佐藤の目に映ったものは――

 

 戦場であったはずの地に広がる「死屍の原」だった。右も左も、前も後ろも、どこを見ても、屍。腕だけが残った者。腹が裂け、蛇のように腸がとぐろを巻く者。四肢が引き裂かれた者。乾いた血と泥にまみれた者。村で共に過ごした者も、見知らぬ者も、区別なく横たわっている。死があまりにも過剰で、不自然なほど静謐だった。

 風が葉を一枚揺らし、すぐ止んだ。

 佐藤は、しばらく石像のように動けなかった。

 

◆◆◆

 

 彼は温厚な人間だった。……いや、十代は相応に? 荒れていたが、美容師として働き始めてすぐに出逢った彼女と付き合い始めてから、角が取れた。子どもを授かってからは、さらに丸くなった。美容師として東京の片隅で店を切り盛りし、妻と二人の子どもと暮らしていた。技術は確かで、客も多い。一日を終え、店の照明を落とすとき、『今日も、良い仕事ができたな』と思える生活だった。

 夕餉の匂い、妻の「おかえり」、子どもたちの会話。笑いが満ちている――それが日常だった。

 

 三年前の、あの日までは。

 

 その日も普段どおり帰宅した。だが玄関を開けた瞬間、違和が足裏に絡みついた。

 

 暗い。灯りがない。(……おかしいな)

 

 足裏に、ぬるりとした感触。

「……?」

 

 電気をつけた瞬間、世界が赤に変わった。

 

 壁も床も天井も、あらゆる面に飛び散った血。家具は割れ、引き出しはひっくり返り、部屋は「蹂躙の痕」そのものだった。そして、三つの影――妻、息子、娘。三人とも、もう動かなかった。

 

 佐藤は声を失った。声を上げることすら許されないほど、世界が一瞬で崩れた。

 

 数時間後、警察が来た。だが彼らは最初から結論を携えていた。

 ――犯人は佐藤である、と。


 アリバイはない。家に入れるのは家族だけ。動機は「感情の爆発」

「犯行後に取り繕おうとした痕跡があります」


 すべて臆断。すべて「彼らの都合」に沿うように組み上げられていった。


 佐藤は知っていた。検察には「成績」がある。警察には「面目」がある。


 『真実』がどれほど哀叫していても、彼らの机上には届かない。

 必要なのは、事件が速やかに処理されること。

 『既定の結論』に沿う証拠だけを集め、捏造し、彼らの都合のいい物語に嵌る人間がひとり見つかれば、それで十分だった。

 

 ――冤罪。

 

 それは、多くの場合、誰かが明確な悪意で仕掛けるものではない。真実より都合を選び続けた惰性が、静かに、粛々と冤罪を製造していく。そしてその荷重は、選ばれた人間がひとりで背負わされるだけだ。

 

 今回、その型に佐藤が綺麗に嵌入した。

 

 だから、彼は何も言わなかった。反駁しても無益だと分かっていた。怒りも、悲嘆も、声になるより先に凍結していた。


 沈黙のまま、彼は壁の中へ送られた。


 家族を奪われたあの日から、彼は生の手触りを失った。


(死は、怖くなかった。ただ積極的に首を括るでもなく、外圧で終われる場所を探していただけだ)


 戦地に連れて来られたとき、

 ――ああ、これで終われる。そう思ったのに。


 それなのに、また生き残った。


「また……死に損ねたな」


 ふいに、腹の底から乾涸びた笑いが込み上げてきた。妖気でも狂気でもなく、ただ、あまりにも悲しくて、笑うしかなかった。


 死屍の原に、彼の笑いだけが薄く反響した。


 その後、思考が途切れ、佐藤は茫然と動けなくなった。峻烈な空疎が体の芯を貫いた。胸の奥に、空洞が口を開けたようだ。悲哀も憤怒もない。叫びたいほどの痛みもない。


 ――ただの無。


 朝の白い光が、まだ夜の名残を引きずった大地に影を落としていく。その光は頬に触れ、ゆっくり融けた。


 やがて、佐藤は覇気なく立ち上がった。

 

 数時間、何もない地平を惰性のように歩き続け、やがて一人の影を見つけた。瓦礫のそばに静かに座っている男は、坐したまま死んでいるように見えた。近づくと、それは榊原だった。

 

 二人はしばらく見つめ合った。言葉はない。


 榊原はゆっくり立ち上がり、佐藤の隣に立った。何も聞かない。何も問わない。ただ隣に立ち、同じ方向を見つめる。


 風が二人の間を通り抜ける。


 二人は並んで歩き出した。言葉もなく、屍を踏まないように、静かに。

 

 静けさの中で、佐藤の胸に、ある言葉が落ちてきた。

 

 かなり昔に読んだ本に出てきた言葉。心に刺さって、暗記するまで何度も読んだ。

「結局、人間は二種類しかない。

 神に、『あなたの御心がおこなわれますように』と言う者たちと、

 神に、『あなたがしようとしていることをしなさい』と言われる者たち。

 地獄にいる者は皆、地獄を選ぶ。そうした自己選択がなければ、地獄が存在するはずもない」


 『選ばない』という選択。

 『流れる』という生き方。


 それは、二つの道のどちらにも属さないようでいて――しかし、確かにその延長上にあった。

「地獄にいる者は皆、自らそこを選ぶ」

 ならば佐藤は、選ばないことで、その道の外へ踏み出したのかもしれない。あるいは、ただ風の向くままに、世界の片隅へ消えていく者なのかもしれない。どちらでもいい。


 彼は、多くの死を抱え、山の記憶を背負い、過去に縛られもせず、未来に期待もせず、今、歩いている。次の地獄へ向かうように。


 その背中は、光でも影でもなく、希望でも絶望でもなかった。


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