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壁の山  作者: 朝霧 瑠璃
14/18

第十三章:「外へ出たら、外の方が檻だった」

 その日も、村の朝は、変転はなかった。だからこそ、鮎川は思った。

 ――ここには、長く居られない。

 

 春の風が、まだ冷ややかな土をそっと撫でている。雪解けの名残を僅かに残した土は湿り、畑には、新しく蒔いた種がまだ土の下で小さな呼吸をしているだけだった。灰根村には旧来のままの静穏な時間が流れていた


 鮎川は、畑の畝をならしながら汗をぬぐった。春の光は柔らかく、鍬の柄の木肌も、土の手触りも、少しずつ「ここで生きている」という感覚に否応ながらも染み付き始めていた。


 昼前。煮炊き場から湯気が立ち始める。村に戻ってくる農耕班の足取りは軽く、「今日はいい天気だな」、「午後は畑を広げようか」、そんな声があちこちで聞こえていた。


 そのときだった。


 ガコンッ。

 

 山の上方から、金属が軋む低い音が響いた。入所用エレベーターの音だ。


 鮎川は手を止めた。ここに送られてくる者は、最近は月に一人か二人。

「新しい人が来るのか……」

 予告なくたまに鳴る、その音は、胸奥を少しざわめかせる、冷える音だが、村人たちは、いつものことと流していた。


 やがて――山道の上から、規則正しい足音が近づいてきた。


 同じ歩幅、同じリズム。狩猟班や農耕班の森の歩き方ではない。軍靴の音。

 

 村人たちの目線の先には、迷彩服に身を包んだ一人の男。続いて、列を成すように同じ制服を着た男たちが次々と姿を現す。肩から吊り下げられた黒い銃。無表情な顔。約三十名。彼らは、躊躇も、戸惑いも、ここにいる人間への関心もない足取りで、迷いなく村へ入ってきた。まるで最初から地図を持っていたかのように。

 

 村の空気は、一瞬で張り詰めた。

「……自衛隊……じゃないな」

 佐藤が、息を呑むように呟いた。


 ただならぬ気配に村人がたじろぐ間もなく、自衛官たちは無言のまま距離を詰め、銃口を向けて命じた。

「全員、その場で動くな!」

 一人が怒鳴り、銃口を空に向けて一発撃った。乾いた破裂音が、山に木霊した。誰かの悲鳴が上がる。

「そこのお前、動くなと言っているだろうが!」

 逃げ出そうとした若い男の肩に、銃床がめり込み、男は地面に崩れ落ちた。


「並べ。全員だ」

 

 先頭の男――隊長格らしい人物が、村の広場を顎でしゃくった。村人たちは、半ば引きずられ、半ば押し出されるようにして、広場に並べられた。座れと命じられ、地面に膝をつく。銃口が、左右から冷たくこちらを向いていた。

 

 榊原が一歩前に出る。背筋を伸ばし、自衛官たちを真っ直ぐに見た。

「ここは山の中の集落だ。用件を聞こう」


 隊長は、感情の色をまったく帯びていない声で答えた。

「戦争が始まった。お前たちには、戦地で働いてもらう」

 

 ざわめきが広がる。

「……戦争……」

「どこと……?」

「俺たちが……?」

 誰かがかすれ声でつぶやき、誰かは喉の奥で息を詰まらせたまま声を出せない。


 隊長は続けた。

「お前たちは、元々『社会に戻す必要のない人間』だ。不要物をここで飢え死にさせるか、戦地で使うか。国の判断は後者だった。それだけだ」

 その言葉は、あまりにも淡々としていて、かえって残酷だった。


 佐藤は、胸奥が、ぞわりと冷たくなるのを感じた。ここにいる者たちは、既にすべてを失っている。その上で、さらに「肉壁」として徴用されるのだ。


 一人ひとりに手錠がかけられていく。金属音が乾いて響いた。


「人数は?」

 隊長が問う。

「百二十五名です」

 若い自衛官が答える。隊長が眉をひそめる。

「報告では、ここには約百五十名収容されているはずだが」

 榊原が、静かに、はっきりとした声で言った。

「足りない人数か……病で倒れた者もいる。ヒグマにやられた者もいる」

 嘘ではない。だが、それを口にした榊原の顔には、深く沈んだ影が落ちていた。一瞬、周囲の自衛官の視線が、榊原に集中した。驚きか、興味か、軽蔑か――どの感情ともつかない、冷ややかな目。だが隊長は肩をすくめるだけだった。

「死んだ分は仕方ない。残りを使う」

 

 あまりにも淡々とした言葉だった。


 村人たちは立たされ、銃で左右を固められながら、エレベーターへと続く山道を歩かされた。彼らにとっては、ある意味『自由に生きる場所』だったこの山を、今はただ、鎖に繋がれた行列が上っていく。


 伊佐山は、何かを噛み砕くように奥歯を食いしばっていた。

(……また、どこかへ運ばれるのか)

 

◆◆◆

 

 ――不要物……ねえ。


 山道を進みながら、鮎川はその言葉を舌の裏で反復した。壁の中の『徴用』の響きは違うはずなのに、胸奥を刺す感触だけは、あの頃と同じだった。


 外資にいた頃。事業部長に上がった鮎川は、人を「扱いやすさ」で選び、「厄介さ」で切った。切り捨てると決めた相手は、宮間誠司――現場から信頼の厚い四十五歳の課長だった。


 飲み会で宮間は笑って言った。

「今、会社を辞めるわけにはいかないんですよ。子どもが受験で」

 鮎川は優しい声で返した。

「大丈夫ですよ、宮間さんなら。ここで踏ん張れば、きっと道が見えてきます」

 励ましじゃない。ただ、その場を角なく流すための言葉だった。


 決定打は、会議後に送った一通のメールだけ。

 《宮間課長について。最近、チームの方向性に対してネガティブな発言が目立ちます。メンバー士気にも影響が出ているように思います。一度、キャリア面談をしてもらえますか。》

 丁寧な文章は、刃物よりよく切れた。

 

 外資系企業の人事は、建前としては中立をうたっている。だが実際には、上で成果を出している管理職の一言のほうが、現場の悲鳴より、はるかに重く扱われる。

 

 数日後、宮間は人事フロアから戻るなり、黙って段ボールに私物を詰め始めた。誰も声をかけない。椅子が床を擦る音だけが、広いフロアに薄く残る。廊下の向こうで目が合った瞬間、宮間の瞳に浮かんだのは怒りでも涙でもなく、「理解できない」という色だった。鮎川は視線を切り、スマホを開いて次の会議資料を確認した。


 宮間は子会社に出向になり、ほどなく自主退職したと聞いた。詳細は誰も知らない。

 ――「消えた」

 それだけで、盤面は整った。


(不要物は消える。……俺が、消してきた)


 なのに今、その言葉が自分に向けられた途端、同情じゃなく反発が湧いた。


(不要物? この俺が? ふざけんじゃねぇ)


 ――いずれにしろ、外に出られるならチャンスだ。抜け道を探す。

 ――復讐してやる。俺に冤罪を被せた奴らを、二度と這い上がれねぇように。

 

 鮎川は鉄柵を握る指に、力を込めた。

(外に出る。方法を探す。――必ず戻って、潰す)

 

◆◆◆

 

 エレベーターに詰め込まれた瞬間、狭い空間の空気が一気に重くなった。鉄の箱が下降を始める。耳が詰まるような感覚とともに、誰かの呼吸が浅く、早くなっていくのが分かった。


 二度目のエレベーター、その先は、もう帰ることの許されない方向だった。


 鮎川は、あの時と違って、今回は「どこへ連れて行かれるか」すら分からないことに気づいた。


 ――前は、ただ落ちていく人生の途中だった。

 今は、底を過ぎて、さらに地下へ連れて行かれる感覚。


 地上に降り立つと、そこには以前と同じような柵付きの輸送バスが並んでいた。窓には厚い布がかけられ、外は一切見えない。

「乗れ」

 自衛官らしき男たちが手錠をかけたままの村人たちを押し込む。鉄柵に囲われた後部座席は、人でぎゅうぎゅうに詰め込まれた。誰も言葉を発せなかった。いや、言葉にしてはいけない気がしたのだ。


 バスが動き出す。エンジンの震動が床を通じて伝わってくる。最初はガタガタとした揺れ。砂利道か土の道だろう。(……まだ山の中だ)

 やがて、揺れ方が変わった。ゴウン……ゴウン……と重いショックだけが時折伝わるようになり、車輪の回転が滑らかになる。タイヤが舗装路に乗る振動で、彼らは初めて自分たちが外の世界へ引きずり出されたことを理解した。

(……舗装路に出たな)

 外を見なくても、その変化だけは分かる。


 対向車のクラクション、遠くを走る列車の音、聞き慣れない町の喧騒が、布一枚の向こうからにじんでくる。だが、彼らには何も見えない。ただ、外界の気配だけが「まだ世界は続いている」と告げていた。

「……外の世界は、まだちゃんと続いてるんだな……」

 佐藤がかすかに笑いながら言う。その声は、諦めでも希望でもない、どこか壊れ方を迷っている人間の声だった。


 鮎川は、黙って座席の鉄柵を握りしめていた。

(俺が外にいた頃の世界と、同じなのか……? それとも……)


 バスはしばらく走り続けた。時間の感覚はとっくに途切れている。


 やがて、タイヤの下がコンクリートから鉄板のような感覚に変わった。金属音。反響。潮の匂い。

 

 港に着いたのは夕方だった。

 

「……港だ」

 伊佐山が短く呟いた。


 バスから引きずり出されると、そこには灰色の艦艇と輸送船が並んでいた。クレーンが軋み、コンテナが吊り上げられ、どこかで怒号と笛の音が飛び交っている。潮風と鉄の匂いが混ざり合った風が、村人たちの頬を刺すように吹き抜けた。

 

 村人たちは、港の片隅に並ばされ、薄手の軍服を支給された。配られたのは、兵士よりも薄い生地の簡素な軍服。

「着替えろ。その服はもう必要ない」

 袖を通した瞬間、自分たちが兵士ではないと理解させられる物だった。ただの使い捨て要員。

 

 その言葉は、「ここまでのお前たちの人生は、すべて不要だ」と言われているようでもあった。

 

 防弾チョッキのようなものを配られたが、それは新品ではなく、どこか擦り切れ、小さな裂け目をいくつも抱えていた。(誰かが……これを着て、死んでいったのかもしれない)佐藤は、そのチョッキの端を指で撫でながら思う。胸の奥に、ゆっくり冷たいものが沈んでいく。

 

「ここにいるお前たちは志願兵だ。そういうことになっている」

 説明に現れた自衛官が、紙切れをひらひら振りながら言った。

「……志願なんか、してません」

 誰かが思わず口にする。自衛官は冷ややかに笑った。

「書類上、そうなってる。国民は志願兵の活躍を見て安心する。そして、お前らが死んでも、誰も困らない」

 そのあまりの軽さに、空気が一瞬、凍りついた。

 

「それが国のためってやつかよ……」

 伊佐山が、喉の奥で低く呟いた。彼は、警察組織の闇を隠すための人柱にでっち上げられ、何もかも奪われた。その自分が、今度は「その国のために」肉壁として使われるのだ。笑うしかなかった。


 着替えが終わると、村の者たちは、輸送船の船底に押し込まれた。窓はなく、天井の薄い隙間から僅かに差し込む光で、昼か夜かをかろうじて判断するしかない。

 

 エンジンの轟きと、金属が軋む音。海水の匂い。吐き気、汗、恐怖の混ざった臭い。

 

 船底には湿った鉄の臭いが充満し、誰かのすすり泣きが響いている。

「……何日、ここにいるんだろうな」

「一日か、二日か……着いたところが終点かもしれんがな」

 誰かが冗談めかして言い、誰も笑わなかった。


 船の揺れに慣れてきた頃、甲板の上から聞こえてくる話し声が、断片的に耳に入った。

「……前線、また押し返されたらしい」

「市街地はもう焼け野原だってよ」

「向こう、住民ごと吹き飛ばしてるって話じゃねぇか」

「こっちは人的資源を補充してるだけだ。下は囚人ばっかだしな」

 『人的資源』という言葉が、船底の暗がりに鈍く沈んでいった。

(不要物で資源……どっちだよ)

 誰も、言葉にはしなかった。すると榊原が、ぼそりと呟いた。

「……戦争か。いったい、何を守るための戦争なんだろうな……」

 その声には、壁の山へ送られ、そこで素朴に生きることを選んだ男の静かな諦念が滲んでいた。誰も、何も言わず、波が船体を叩く音だけを聞いていた。鮎川は、どこましかし冷えたところからじわじわ上がってくる憤怒を、自分でも持て余していた。自分が過去に「駒」として切り捨ててきた部下たちの顔が、ひどく曖昧な形で浮かんでは消えていく。

(使えねぇって切った。……今度は俺が切られるってか)

 思考はそこまで行きかけて、なぜかそこでぷつりと途切れた。考えてしまうと、戻れなくなる気がした。

 

◆◆◆

 

 ――人的資源。志願兵。

 その言葉は、命を数に変える。虚偽の匂いまで混じって、鮎川の胸奥がざらついた。

 

 宮間だけじゃない。もっと若い社員が、ある年、静かに死んだ。


 過労自殺――そう片づけられた。本人は休日も削り、締切と顧客対応に追われても、それでも「やります」と言い続けた。ある朝、彼のデスクが空になっていた。椅子が、誰も座らないまま、少し斜めに向いていた。

 

 鮎川にとって、それは『たまたま、弱い者が潰れただけ』に過ぎなかった。

 

 面会室のアクリル板越しに、弁護士が書類をめくりながら淡々と言った。

「……遺書に、あなたの名前が出てきます」

「元部下たちも、『パワハラに近いものがあった』と証言しています。業務量の配分、評価、会議での言葉の選び方――精神的圧力を感じていたと」

 鮎川は、やはり理解できなかった。

(やれって言ったこと、できなかっただけだろ。そんなので死ぬなら、最初から向いてねぇ)

 そう言いかけて飲み込む。弁護士は、一瞬だけ目を眇めたが、責めるような言葉は口にしなかった。ただ、同じ温度で続けた。

「そういう人の弁護はできない、とはっきり言われました」

(クソッ……! あいつら、笑って俺の機嫌を取ってただけか。手のひら返しやがって……!)


 ――俺の手は、汚れていない。

 ――直接、何かをしたわけじゃない。


 そう固めたはずの理屈が、船底の暗さの中で、砂みたいに僅かに崩れて音を立てた。代わりに胸の奥に積もっていったのは、世界への苛立ちと、理不尽さを訴えたい気持ちと、「俺は間違っていない」という固い自己正当化だけだった。

 

◆◆◆

 

 船底の空気は酸っぱく、揺れは胃袋の内側を掴んで離さなかった。鮎川は吐き気を噛み殺しながら、目を閉じるしかなかった。

 ――すると、次は、家の匂いが立ち上がった。


 家では、別の亀裂が静かに広がっていた。


 深夜。鮎川が鍵を回して入ると、家は静かだった。

 「おかえり」も、生活音もない。リビングの灯りだけが点いている。


 テーブルの上に、紙が一枚置かれていた。走り書きの短い文。


『もう無理。あなたと暮らしてるのに、ずっと独りみたい。子どもが、あなたの帰宅を嫌がってる』


 背後で、妻が言った。声は荒れていない。荒れていないから、刺さった。

「今日も、約束、守れなかったね」


「仕事が……立て込んでいただけだ」

 言い訳を探した瞬間、妻が首を振った。


「仕事の話はもういい。家でも、あなたは上司の顔してる」

 それだけ言って、少し間を置いた。

「子どもが言ったの。叱られる前の空気が怖いって」


 鮎川は理解できなかった。

(叱った覚えなんてねぇ。殴ってもねぇ。金も入れてる。――何が悪い)

 正しさを並べれば並べるほど、妻の目が遠くなる。


「……生活は、守ってるつもりだ」

 自分の声が、妙に硬いことだけがわかった。


 妻は答えず、寝室のほうへ引き返した。残された紙が、風もないのに視界の端で揺れた気がした。


(俺の手は汚れてねぇ)

 そう固めたはずの言葉が、喉の奥でほんの僅かに引っかかる。

(……うるせぇ)


 胃の腑を揺さぶる厭な感覚で、鮎川は目を醒ました。

(……嫌な夢を見た。胸がムカつく。吐きそうだ)

 

◆◆◆

 

 揺れが変わった。

 

 船が止まり、甲板に足音が響き、怒号が飛び交い始める。


「起きろ! 準備しろ!」

 ハッチが開けられ、目に刺さるような光が流れ込んできた。

 

 軍港に着いてすぐ、村人たちはトラックの荷台に乗せられ、そこからさらに内陸部の前線へと連れて行かれた。目的地は、前線のすぐ近くにある野戦拠点だった。


 しばらくすると、焼けこげた街の輪郭が現れ、トラックはその中を進んでいく。ビルは途中から折れ曲がり、窓ガラスはすべて吹き飛び、壁面には黒い焦げ跡がまだ新しく残っている。遠くの空には、黒い煙がゆっくり昇っていた。足元の地面には、砕けたコンクリートやねじ曲がった鉄骨が散らばり、ところどころに黒く乾いた染みがある。何の染みか、誰も声に出して問わなかった。


 その道中、数回、空の高いところで鋭い音がした。ドローンの羽音のような、不気味に軽い響き。

――自爆ドローンか?

「頭を下げてろ!」

 自衛官が怒鳴り、トラックの荷台に皆を伏せさせる。遠くで、遅れて爆音が響く。地面が僅かに揺れた。


 駐屯地に着くと、整然と並んだテントと、その奥に控えた戦車や装甲車の列が見えた。村人たちは列に並ばされ、一人ずつ呼ばれ、四つのグループに分けられた。鮎川と佐藤は同じグループ、榊原、伊佐山は別のグループとなった。其々、粗末なライフルを渡される。

「二人で一丁。弾は少ない」

「――前を歩け。撃たれて、敵位置を教えろ」

 説明に来た自衛官は、人を数えるときと同じ無表情で言った。村人の背に鳥肌が走った。

「死んだら?」

 誰かが問う。自衛官は肩をすくめた。

「死んだらそこで終わりだ。誰も困らない。代わりはいくらでもいる」

 淡々とした言葉に、数名が笑い出しそうになって、笑えずに顔をゆがめた。


 伊佐山は、隣に立つ男と一丁のライフルを挟んで手を添えながら、喉の奥に笑いがこみ上げてくるのを感じた。

(……冤罪で、組織にも国にも見捨てられて。次は、その国のために盾になれ、か)

 ふざけている。だが、その「ふざけ」を真顔で要求するのが、組織というものだと、彼はもう嫌というほど知っていた。遠くに見える市街地の廃墟をじっと見つめていた。

「……守るべきもの? そんなの、誰が決めた」

 その小さな呟きは、風に紛れて消えた。


 遠くで、地面を揺らす重い爆音が絶え間なく続いていた。それが、戦争の始まりの音だった。

 

◆◆◆

 

 前線へ出る日。空は晴れているのに、どこか色が抜けて見えた。――死の気配だけが、薄く張り付いている。

 

(この空……あの時の青に、似てる)

 

 二十代半ば。MBAを取りにアメリカへ渡った。経済学部を出て、いくつかの会社を踏み、「学位を取れば世界で戦える」という正解を握りしめた。キャンパスの空は日本より高く、乾いた空気の中で、自分が勝つための人生の物語へ乗り換えた気がした。


 綾乃と出会ったのは、語学課程の掲示板の前だった。日本人向けの紙を覗き込み、少し首をかしげている。


「すみません。これ、日本人向けのオリエンテーションの時間……ですよね?」

 

 柔らかな声。整った顔。仕立てのいいシンプルな服。手入れされた髪。箱の中で育ったお嬢様の清さと、危うい無防備さ。笑い方がきれいで、世界を疑わない透明さがあった。


 その透明さに、惹かれた。

 ――同時に、使える、と踏んだ。


 話せば、大手企業重役の一人娘。海外の学校も当たり前。世間の荒さを知らないまま守られたいいところの人間。鮎川の頭は、好きという感情の横で、冷静に計算を始めていた。結婚すれば、地盤になる。名刺の裏に、もう一枚の勝ち札が増える。


 その頃、軽い関係はいくつもあった。だが綾乃だけは別の棚に置いた。

『正解ルート』に組み込める女――そう判断した自分の冷たさを、鮎川は否定しなかった。


(勝つための人生。――あれが檻の始まりだった)


 色の抜けた空が、いま目の前の前線の空と重なる。鮎川は、胸奥で何かが鳴るのを、聞かなかったことにした。

 

◆◆◆

 

 村人たちは、先頭に歩かされ、その後ろに装甲車と戦車、さらにその後ろに正規兵たちが続いていく。

「前に出ろ。お前たちが最初に撃たれれば、敵の位置が分かる」

 指揮官の声は、それを当然の手順として告げていた。

 

 村人は戸惑いながら、黙って指示に従った。

 ――俺たち、ここで何してるんだ?

 体は村にあるが、心は外に引き戻される感覚。言われている事の表面だけが掠って芯まで理解できずにいた。


 彼らは半壊した街中を進んでいく。中途半端に崩れた建物。焼け焦げた車両。ところどころに落ちている軍靴、破れた布。


 遠くで、かすかに犬の吠える声がしたかと思うと、すぐに爆発音にかき消された。

 

 ――ドンッ。

 地面が震えた。砲撃は、地中から響く音だった。地面が持ち上がり、破片が雨のように降ってくる。続いて、耳をつんざく轟音。少し遅れて、胸の中まで揺さぶる衝撃波。

 

「伏せろ!」

 叫ぶ声に反応しきれず、一人の村人が破片を頭に受けて倒れた。血が土に吸い込まれていく。


 誰かが叫ぶより早く、前列の数人が、何かに撃ち抜かれたように倒れた。どこから撃たれたのか、見えない。

(見えねぇ……)

 鮎川は、喉が乾いてうまく息が入らないのを感じながら、前へ進む足を止められずにいた。横を歩いていた男の頭が、何かにぶつかりがくりと揺れ、そのまま崩れ落ちた。飛び散ったものが、鮎川の頬に生ぬるく当たる。視界の端で、地面に赤いものが広がった。

(……血か。人の)

 

「撃て! 撃ち返せ!」

 誰かが叫び、村人たちの手に握られた一丁のライフルが、震える指によって引き金を引かれる。

 ――銃声。

 ――反動。

 どこへ飛んでいったかもわからない弾丸。

 

 返ってくるのは、形の見えない破壊だけだった。砲音は、雷のように空を裂くものではなかった。もっと低く、腑の底に響く震動だった。地面がたわみ、瓦礫の破片が跳ね、空気そのものが悲鳴をあげているようだった。


 ドゴォォォン!


 爆煙が上がるたびに、昼なのか夜なのかも分からぬほど視界が灰色に閉ざされる。


 砕けた建物の陰で、泣きじゃくる兵士が一人、耳を押さえたままうずくまっていた。

「やだ……帰りたい……帰りたい、帰りたい……!」

 その声は、爆音にかき消された。敵の影が見えた瞬間、銃声が響き、その若者は腹を撃ち抜かれて倒れた。


 生きている者は、ただ次は自分だという恐怖に支配されていた。


「撃てぇッ!」

 自衛官たちが叫ぶ。だが村人たちは震える手で銃を握るだけで、正確に撃てる者などいなかった。


 倒れた兵士の肩を揺さぶる者はいない。皆、自分の命を守ることで精一杯だった。隣で倒れている青年の腹からは、止めようのない血が地面に流れている。その青年の上を、誰かが逃げ惑う足で踏みつけ、叫びながら走り去った。


 遠くで、子どもの泣き声が風に乗って運ばれてくる。まだ一般市民が住んでいたのか、逃げ遅れたのか、あえて居ることを選んだのか。敵味方が入り乱れ、一般市民が巻き込まれ、誰も区別がつかない。


 避難所だったはずの建物に砲弾が落ちたのだろう。高い悲鳴が、煙の向こうから届き、直ちに止んだ。建物が砲撃で崩れたのだろう、子どもの泣き声が煙に消えた。

 

 佐藤は目をそらさなかった。

(……こんな世界が……本当に、あるのか)

 敵味方が入り乱れ、瓦礫、火の粉、悲鳴、血の匂いが渦を巻く。

 

 鮎川もまた、目の前で命が散っていくのを見つめ、息を呑んでいた。あまりにあっけなく、あまりに無意味に、命が消えていく。

(……こんなものを、誰が望んだ)

 その問いには、誰も答えない。

 

◆◆◆

 

 鮎川の目の前に、赤い水たまりが広がっている。

(俺は――この赤を、前にも見てる)


 ――いつだ?


 鮎川の心は記憶を辿り始めていた。


 重なるように、綾乃。

「あなたは、家族のために働いてきたのかもしれない。でも同時に、誰かを犠牲にしてきたでしょう」

「仕事って、そんなもんだろ」

「……娘にも、そう言える? 追い詰められて、限界まで働かされて、それでも『弱いのが悪い』って言える?」

 胸奥で、何かがぎしりと軋んだ。

「……俺の人生を、めちゃくちゃにしてんのは……誰だ」

 気づけば、そう口にしていた。綾乃は、僅かに目を見開き、そして、静かに言った。


「あなた自身よ、康」


 その一言で、何かが切れた。キッチンのカウンターに置かれていた包丁に伸びた手は、憤怒の勢いというより、次の処理へ移る指の動きだった。刃物を握った瞬間の冷たさが、逆に頭を冴えさせる。


 綾乃が一歩下がった。

「やめ――」


 言葉が終わる前に、腕が前に出ていた。刃が沈む。綾乃の目が大きく見開かれる。口が、何かを言おうとして、言えないまま、空気だけが震えた。鮎川は柄を握り直し、手首だけをゆっくり、一八〇度捻った。――『回転』。そこに感情はなかった。ただ、終わらせるための動きがあった。


 奥で何かが、ぶちり、とちぎれる感触が伝わってくる。

 息が止まる。綾乃の目から、表情が消えていく。怒りも、哀切も、失望も、最後にはただの殻になった。その殻が、自分を責めていないように見えた瞬間、鮎川の中で理屈が固まった。


 ――ここまで追い込んだのは世界だ。俺は、悪くねぇ。


 そして、そこから先は鮎川の『作業』になった。彼は、証拠を「片づけた」。

 ――敷く。運ぶ。分解する。収める。巻く。拭く。燃やす。捨てる。

 「罪」を「後処理」に変換して、帳尻を合わせた。冤罪とは証拠皆無のことだ。


 鉄錆の匂いは鼻の奥に沈殿し、目の前の戦場の赤へも、そのまま重なっていた。

 

◆◆◆

 

 一度始まった戦闘は休止なく、戦車が唸りを上げて前進していく。その影の下で、倒れた兵士の腕がひしゃげ、地に押し潰されても、車体は止まらない。銃声がかすれた悲鳴を断ち切り、砕け散る瓦礫に人の形が埋もれ、血が乾く前にまた新しい血が降り注ぐ。

「撃てぇぇッ! 前だ前だッ!」

 自衛官の怒号は、自分の恐怖をかき消すための悲鳴にも聞こえた。その叫びのすぐ側で、震える手で引き金を引けずにいる若者がいた。まだ少年のような顔。彼の指は汗で滑り、銃口がぶれている。

「撃てない……ムリだ……ムリだよ……!」

 直後、敵側から放たれた弾が少年の眉間に吸い込まれるように当たり、体が崩れ落ちた。

 息を吸って、吐いただけだった。

 誰も立ち止まらない。死体に気を留める者もいない。立ち止まれば、自分も撃たれるからだ。生きることに意味はなく、死ぬことにも意味がなかった。あるのはただ、数字の増減だけ。

 

(俺をここに投げ込んだのは、誰だ――)そう思った瞬間だった。

 

 ――ドォォォン!! ズシンッ!!

 

 とてつもない衝撃が地面を跳ね上げ、土煙が一気に視界を白く塗りつぶした。鼓膜の奥で世界が割れ、衝撃波が肺の底まで押し込んでくる。熱が胸を貫いたと思った瞬間、冷たさが内側から広がった――撃たれた。足が言うことをきかず、膝が崩れる。視界の端で、自分の血が霧みたいに散った。

 

「鮎川さん!」

 佐藤の叫びが届くが、音はやけに遠い。


 爆発も銃声も続いているはずなのに、耳には水底のように鈍くしか残らなかった。確かめようと腕を上げかけて、右腕がそこにないことに気づく。左手で胸に触れると、ねっとりした温かさが絡みつき、胸奥には穴の冷えがあった。そこから血が流れ出していく感覚だけが、妙に鮮明だった。

 

 瓦礫の影まで這っていき、背を預けた。掌は血で濡れ、その温度が空気の中で急速に奪われていくのはわかった。叫び声も足音も、さらに遠のいた。まるで自分のいる場所だけが、静かに沈み込んでいく。

(……死ぬのかよ)


 見上げると、砲煙の切れ間から青が覗いていた。懐かしいほど澄んだ青。鮎川の思考は、その青へ吸われるように、ゆっくり沈んでいった。

 

◆◆◆

 

 砲煙の切れ間から覗く茜色の空が、やけに澄んで見えた。爆発も叫びも遠い。音が薄れ、世界が静かになるほど、空の色だけが濃く残る。


(……この茜色、覚えてる)


 鮎川が覚えている最初の記憶は、白い天井と乾いた蛍光灯だった。


 両親は共に医者。家は広く、整いすぎていて、そして冷たかった。患者には優しい声を使うのに、自分に向けられるのは成績表の数字だけ。褒められない。間違えれば、淡々と切り捨てられる。


「どうして、ここでこんな間違いをするの?」

「健一は、もっとできたぞ」


 叱責は怒鳴りじゃない。温度がない。だから胸奥に、ひやりと沈んでいった。熱を出しても額に手は来ない。――管理され、評価されるだけの子ども。そこに愛情の温度はなかった。


 確かに、兄の健一は優秀だった。温厚で、勉強もでき、両親の期待通り薬学部に進み、やがて薬剤師になった。褒められ、普通に愛される兄と、数字でのみ測られる自分。


 それでも、幼い頃の鮎川は、自分が愛されていないとまでは考えなかった。ただ、胸の奥にいつも、薄くひやりとした空洞のようなものを感じていた。心のどこかで世界に対してゆっくり空虚が蓄積されるのを感じていた。


 そして、医学部に落ちた日の夕暮れ。空はやけに赤く、やけに静かだった。掲示板に自分の番号がないと分かった瞬間、落胆より先に来たのは、価値が消える感覚だった。家に帰ると父は「そうか」とだけ言い、新聞をめくった。母は小さく息を落として、静かに言った。

「医学部以外に行くなら、せめて役に立つ学部にしなさい」


 ――役に立つ。

 その赤い空の下で、鮎川は理解した。愛されないなら、利用される側には立つな。利用する側に回れ。

 『勝つための人生』を握りしめたのは、その寒さに意味をつけたかったからだ。

 

 ――だから俺は、切った。押さえつけた。奪った。

 全部、正しさや成果の形にして、穴を塞ぐために。


 夕方の赤い空が、再び視界に満ちる。

(俺は……何が欲しかった)


 答えは、驚くほど小さく、静かに、胸へ落ちた。


(……ああ……そうか。俺はただ――両親に、認めてほしかっただけだ)


 勝つことも、地位も、誰かを使えると数える冷たさも――あの家で一度も与えられなかった承認を拾うための手段だった。涙か血か分からぬものが頬を伝い、胸の奥で、固く結んでいたものが、僅かにほどけていく。最後の息が、胸からふっと抜けた。血のついた手が、地面に、すとんと落ちた。そして、ゆっくり瞼が閉じた。

 夕方の赤い空は、煙の向こうで、ぼんやり揺れていた。

 

◆◆◆

 

 遠くの建物の影から、閃光。榴弾が飛来し、地面にぶつかった瞬間、大地そのものが破裂したような衝撃が走った。


 人体が、布切れのように宙を舞う。叫び声が途中で途切れる。佐藤の隣にいた若い男が、胸を押さえて膝をついた。

「……っ、痛……い……」

 その言葉が終わる前に、彼は顔から地面に倒れ込んだ。


 佐藤は、その倒れた体の上に、無意識に手を伸ばしかけた。

「進めぇっ! 止まるな!」

 後ろから怒鳴り声が飛ぶ。佐藤は、伸ばしかけた手を戻し、前方へ歩み始めた。止まれば撃たれるのは、敵だけではない。味方も同じだ。

(……これが、本当に国のためなのか……?)

 瓦礫の中の血だまり、家族を失ったときのあの玄関の匂い――すべてが一瞬、頭の中でぐちゃぐちゃに混ざった。

 

 そのときだった。

 ――ドンッ!!

 

 すぐ近くに、砲弾が落ちた。

 ――ゴウッ。

 爆圧が、地面ごと世界を揺らした。次の瞬間――爆風で佐藤の視界が土煙で白く塗りつぶされた。


 耳鳴りが世界を覆う。耳鳴りで音が消える。砕けた壁の破片が斜めに飛び、乾いた土が煙となって空を覆う。


 すぐ横から、何か巨大なものが飛び込んできた。衝撃で肺から空気が押し出され、地面に叩きつけられた佐藤の背に、重い塊がのしかかる。

(……あ……)

 ぐにゃんと視界が歪む。目の前で、土と血が混ざった液体が流れ落ちる。音がすべて消え、代わりに高い金属音だけが耳の奥で鳴り響く。鼻先には、鉄と血の匂い。


 佐藤は、五感で感じるそれらの意味を考える前に、体が水の底、奥深くへ沈んでいく錯覚にとらわれ、世界がスローモーションのように遠ざかっていった。意識が遠のく中、遠くで、まだ爆発音が鳴っている。叫び声。怒号。何かが燃える匂い。それらがすべて、どこか別の世界のことのように感じられた。ぼやけた視界が揺れ、上下すら分からなくなる。

 胸の中で心臓が激しく跳ね、遠くで誰かに問われる声が聞こえた。

『お前は、また生き残るのか?』

(……誰だ?)

 その疑問すら、意識が黒に引きずられていく中で溶けていく。最後に聞こえたのは、戦場の音ではなく――自分自身の静かな独り言だった。

(ああ……また死に損なったら、面倒だな……)

 その最後の思考だけが、妙に滑稽で、妙に切なくて。それでも喉奥で、笑いにもならない息が鳴った。笑うしかない場所で、生き残ったのは自分だ――そう突きつけられるみたいに。

 

 佐藤の意識は、そこでぷつりと途切れ、深く、暗い闇へ落ちた。


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